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ひとときのゆとり(1)

  
       ☆農のやすらぎ

 小学校低学年の冬休み、ある朝のことである。田んぼにおいてある稲わらを牛そりにつけて家に運ぶので手伝えと父から言われ、ついて行った。雪の中だったので、高く積んである稲わらの束を降ろし、それをそりに運んでまた高く積むのに思ったより時間がかかり、いつもの朝飯の時間に間に合わなくなってしまった。そしたらおにぎりが田んぼに届けられた。誰が持ってきてくれたのだったか記憶にない。あまり遅いので祖母がつくって持たせたのである。もうそろそろ帰ろうとしている時だったが、そのしょう油を付けて焼いたアツアツのおにぎりを食べた。身体が腹の底から温まった。しょう油の浸みたご飯のおこげが本当にうまかった。それからしょう油の焼きおにぎりが好きになった。今も大好きである。
 こんなことはめったにない。食事は家でする。ただし田植えと稲刈りだけは別だ。その期間だけは、田んぼで昼飯を食べる。家に帰ってご飯を食べる往復の時間も惜しいからだ。昼近くになると、私たち子どもはおかずやお茶をもって田んぼに行くように祖母から命じられる。近づいてきた子どもたちから声をかけられると母が一足早く田んぼからあがり、昼ご飯の準備にとりかかる。道路にむしろを敷き、その上にごはんやおかずをひろげる。よその人が通り抜けられる程度空けて、道路を占拠する。今のように車が通らないし、リヤカーや荷車も昼休みの時には動かないので何の問題もない。準備がととのったころにみんなが田んぼからあがってくる。家族、手伝い、雇いの人も含めると十人以上にもなる。みんなでわいわいおしゃべりしながらご飯を食べる。空いたおなかを満たし、明るい日差しのもとで、田植えのときは苗と水の匂い、稲刈りの時には刈った稲の匂いをかぎながら、のんびり休む。昼寝もする。ひとときのゆとりでしかないが、働くものにとってのこの瞬間は何ともいえない充実感だ。子どもにとっては非日常の昼食なので、これまたうれしくてしようがない。
 長時間の重労働なのでおやつの時間もある。三時近くになると誰からともなくいう、
 「たばこに(休憩に)すっか(するか)」
 汚れた手を水路の水で洗い、あぜ道に座って、一升瓶に入っている水を飲みながら、自家製の漬け物や菓子などを食べる。
 一日中腰を曲げて働く田植えや稲刈りの夕方、暗くなって手元が見えなくなる頃、お互いに声をかけあう。
 「ばんげだ(晩餉=夕ご飯だ)、あがらっしゃいは(上がってくださいな)」
 それをきっかけにみんなが田んぼから上がり、小川で手足や農具を洗い、農具を背負って、残った夕陽の明かりや月明かりをたよりに家路につく。
 あんまり遅いと子どもたちが提灯をもって途中まで迎えに来る。父や母は子どもと歩調を合わせながら、今日一日のことなどいろいろおしゃべりをしながら帰る。ほっとするひとときだった。

 山形の夏は暑い。最高気温の日本記録はいまだに破られていない(註)。こんな暑さのなかで日中田畑で働いていたら倒れてしまう。だから真夏には昼日中は働かない。
 そのかわりに朝は早い。朝明るくなったら、もう外で働いている。朝飯をはさんで昼前まで働く。昼食が終わった後昼寝をする。後かたづけなどあってちょっと遅くなるが、嫁も昼寝だ。熱気が少しおさまった四時頃からまた田畑に出る。それから夜暗くなるまで働く。
 子どもたちは農作業が終わるのをおなかをすかして待っている。いらいらして兄弟けんかまで始め、台所仕事で忙しい祖母から怒られる。暗くなってようやくみんなが帰ってくる。
 蛙の声が遠くから波のようにうねって聞こえる真っ暗な外に迎えに出ると、遠くの空がピカッ、ピカッと光り、遠い山並みが光のなかに一瞬黒く浮き出る。何かと聞くと祖父が教えてくれる。
 「らいさまが(雷様が)稲さ(稲に)つつのましぇさ(乳飲ませに)来たんだ、こどす(今年)は豊作だな」
 雷鳴も聞こえず、雷雲も見えないようなかなり遠いところで雷雨になっているのだろう。だから稲妻だけが遠くに見えるのである。星がたくさん光っているのだから天気はいい。このように雷が鳴るということは、雷雨が遠くで水を供給してくれ、それがこちらにも流れてきて恩恵を与えてくれるということである。それを稲に乳を飲ませにきているとたとえて言うのだろう。そして今年はうれしい豊作になるのだ。

 祖母が年老いてから家内に死んだ母のことをよく話をしたという。そのなかに、母は野良から帰ってくると必ず祖母に挨拶したという話があった。
 「ばんちゃん、ありがどさまでした(おばあちゃん、ありがとうございました)」
 どんなに疲れていてもこう言って長い時間子どもたちの面倒をみてもらったことに感謝の気持ちを伝えた、おまえたちの母親はやさしかったと。しかし私にはその記憶はない。家内からそれを聞いたときふと思い出したことがあった。母が死んだときの祖母の嘆きようである。それは子どもの私が慰めにまわらなければならないほどだった。祖母はかなりきつい性格をしていた。この祖母が嫁の死にあれほど悲しんだとは今考えてみると不思議である。働き者だった母のことがよほど気に入っていたのかもしれない。
 母は田畑から帰って手足をすすぐとすぐに台所に立った。そして祖母といっしょに食事の準備をする。父や祖父も外での片づけが終わって家の中に入り、やがて夕ご飯が始まる。十人以上の家族で大きなちゃぶ台を囲む。炊きたてのご飯の入ったはがまがそこにどかっと据えられ、その両脇に母と祖母が座ってご飯を盛り、みんなに手渡す。お代わりが何回もあって母や祖母はなかなか落ち着いて食べられない。それでもおつゆは真ん中においた大きな鍋からそれぞれ自分でお椀に盛る。ご飯が終わったら、子どもたちは自分の食べ終わった茶わんなどを台所に運ぶ。それから祖父母や父は囲炉裏のまわりに座り、お茶を飲みながらゆっくり今日一日のことや近所のこと、明日の農作業のこと、いろいろしゃべる。話ははずむ。母は台所片付けをしながらそれを聞いている。
 そのうち子どもたちは眠くなってしまう。ふとんに入り、夕方つかまえてきたホタルを蚊帳の中に放して楽しみ、あるいはセミの幼虫を蚊帳につかまらせて次の朝の羽化を見るのを楽しみにして寝る。

 春から秋にかけての忙しいときは、母は朝飯前の仕事に出ているので、台所にいない。声をかけることなどできない。食事時が母との会話になる。
 それ以外のときにどうしても聞いてもらいたいことがある。聞きたいこともある。家の近くの畑で草取りなどをしているときはその脇で、鍬で耕しているときはその後を追っかけていっしょに移動しながら、母と話をする。母は仕事をしながら耳を傾けてくれ、答えてもくれる。
 「地震って何で起きるの」
 「地球の真ん中が燃えていて、そこに大きな大きな石が上から落ちるからだよ」
 「ふーん」
 当時はプレート理論などと言うものはなく、母も説明に困ったろうが、ともかくそれで納得して、また別のことを聞く。
 冬は、こたつで繕い物や毛糸編みをしている母の横に寝ころんで、ゆっくりといろいろと話しかける。農閑期にはこんなゆったりした時間もあった。

 四、五歳の頃だったろうか。
 早春の朝、ぽっかりと目が覚める。両脇に寝ていた祖父母はすでに起きていてもういない。雀の鳴き声がうるさく聞こえ、大根でも刻んでいるのだろうか、台所からトントントントンという音がする。部屋の戸はすでに開け放たれ、腹這いになると、客間と居間を通して台所が見える。東から朝日が射し込み、台所の白い障子窓がまぶしい。それを前に受けて何かを刻んでいる母の背が黒く見える。私は声をかける。
 「お母ちゃん、起きたよ」
 「ああ、起きたか」
 母は後ろ向きのまま答える。その声にほっとして、もう一度布団の温もりをたしかめ、えいやっとばかり起きる。
 こんなさわやかな朝の目覚め、これがなくなってからもう何十年になるだろうか。

(註)
 一九三三(昭和八)年七月二十五日、山形市は日本における最高気温四〇.八度を記録した。父に聞いたら、その日は日陰にいても暑く、何か物に触るとやけどしそうに熱く、身の置き所がなかったという。しかしこの草稿を書き上げた二ヶ月後の〇七年八月十六日、この記録は破られた。熊谷市、多治見市で四〇.九度を記録したのである。とはいっても、この記録はクーラーなどによる人為的放熱と地球温暖化の影響による人為的な異常現象とも考えられるので、山形の記録は実質的にはまだ破られていないと私は思う。それで訂正しないことにする(偏狭な愛郷心のなせる技なのかもしれないが)。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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