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「百姓」・知恵あり暇なし



                  旅と乗り物・雑感(1)

                ☆「百姓」・知恵あり暇なし

 農家を「百姓」というが、それは農家が百種類もの作物や家畜などを生産していることからきたものだという話もあると、大学院時代にある先生から聞いたことがある。たしかにあのころの農家はたくさんの作物や家畜を育てており、そういうことからするとまさに百姓だった。
 でも、本当に百種類も生産していただろうか。たくさんということを意味して百と使ったのだろうが、ちょっと気になる。
 そこで、山形の私の生家で戦前から戦後にかけてどれくらいの種類の生産をしていたか、思い出せるだけ思い出してみた。もう数十年前の話、忘れてしまったもの、子どもだったために知らなかったものなどかなりあるだろうが、ともかくそれを下記の表にまとめてみると、戦前は65種類の作物、3種類の家畜を育てていた(戦中、戦後に新しくもしくは復活してつくり始めたものを除く)。ただし、このなかには、大豆と枝豆のように同じ作物を2種類にわけて数える一方で、同じ作物でも品種により栽培時期によりまるっきり違った作物といっていいようなものを一つの作物にまとめていたり(たとえばササゲやインゲンには色から形から非常に違うものがある)もしているので、必ずしも正確なものではないが、いずれにせよ多くつくっていたことがわかろう。
 それでも、こう計算すると、68種類、戦中戦後新たに導入した作物などを加えても、100には及ばない。
 しかし、当時の農家は生産・生活資材の生産も行っていた。たとえば、自家用としても販売用としても重要な縄や俵を稲わらで生産していた。肥料や餌料も今と違って購入できないので、自家で生産せざるを得なかった。生活資材も同様で、味噌や漬物などの自家加工は不可欠だった。町と違って売っている店は少なく、とくに東北の場合冬期間のおかずとしてたくあん等の漬物は不可欠、それで自給せざるを得なかったのである。こうした農産加工品は約30品目となる。
 それを合わせると大体百種類となる。生家の周囲の農家も、若干の違いはあれ、ほぼ同じものを生産していたので、まさに私の生家のある地域の農家は「百姓」だったということができる。

 しかし、それは私の生家のある地域の特殊性かもしれない。前にも述べたように、この地域は町と村の境界にあるいわゆる都市近郊地域であり、経営面積も米単作地帯のように大きくなく、都市の需要に応じて多様な野菜類を生産・販売して生活を維持することが必要であり、そのためにさまざまな種類の野菜を生産しなければならず、品目が多くならざるを得なかったという事情があったからである(註1)。
 でも、米単作地帯の農家も米だけつくっていたわけではなかった。屋敷畑や水田にできないところにあるわずかな畑に、自分の家で食べる野菜や麦、豆を栽培していた。もちろん役用としての牛馬を飼育し、山羊や鶏を飼い、わら工品や堆厩肥をつくり、庭には柿や梅、すももなどを植えた。また、豆腐や凍み豆腐、味噌をつくり、漬物を漬けた。私の生家では豆腐をつくらなかったが、何しろ町場、すぐ近くに豆腐屋さんがあったからだったのだろう(註1)。なお、凍み豆腐などは自家用としてだけでなく、販売をした地域もあった。保存、輸送が容易なのでそれが可能だったからであろう。
 養蚕地帯でも、クワ、マユ以外に米麦、豆、野菜等多様な品目を販売・自給用として生産した。山形市からちょっと離れたところにある母の実家では養蚕をいとなんでいたが、やはり多様な作物を生産していてお茶まで栽培していたし、機織りもやっていた。
 畑作地帯の場合には、前にも述べたように麦、豆、菜種、ヒエなど雑穀作を中心にやはり多様な品目を生産していた。なお、山間地帯ではそれに多様な林産物の生産が加わることになる。
 ところで、生家の柿の木は二本、スモモ、梅、サクランボはそれぞれ一本、庭に植えてあるだけ、栽培しているともいえないようなものだった。でもそれは私の生家だけではなかった(もちろん、果樹を中心作物にした地帯の農家は別だが)。
 かつてはどの農家の庭にも梅、柿、栗など実が食べられる木が植えてあった(註1)。今述べた以外にも桃、スモモ、アンズ、ナツメ、グミ、スグリ、ザクロ、カリン、サクランボやリンゴ等が植えられていた。
 それらは売るためではなく、自分の家で食べるためにつまり家庭果樹として必ず植えるものとされ、飢饉の時には当然のこと平年でも重要な食糧、栄養源となった。
 もちろん土地・気象条件や庭の広さなどですべての果物を植えるわけにはいかなかった。私の生家の地域の家々の庭は狭かったのでなおのことだった。前にも述べたが、町場であるために細長い屋敷地にせざるを得なかったからである(註2)。だから、自分の家の土地条件や好みなどで2~3種類しかつくれなかった。なお、近くの非農家も屋敷に柿や梅などを植えていた。そもそもはみんな農家だったからなのだろう。
 こうした家の庭に植えてある果物、隣近所や親戚の家の庭にあるもの、ばらいちごなど野生のもの等々を採って、あるいはもらって子どもたちは食べたものだった。みんなそれぞれの味がしておいしかった。飢えていたから、甘いものが不足していたからなおのことだった(このことについてはまた後ほど述べる)。
 こうしたことからして、本数は少なくとも、やはり栽培作物の一つとして位置付けていいだろう。
 それは家畜についても同じで、牛は1頭でも役牛として経営には不可欠、約10羽の鶏の生む卵は当時貴重なものとして八百屋さんなどが買いに来たもの、もちろん私たち家族にとっても山羊の乳と並んで卵は当時の貴重な動物蛋白源、やはり家畜の飼育はきわめて重要であり、生産部門の一つとして位置付けて差支えないだろう。

 もう一つ付け加えておけば、野生動植物の採取も農家にとってはきわめて重要だった。たとえばヒョウ(=スベリヒユ)である。前にも述べたが、夏場に畑の雑草として繁茂するスベリヒユを採ってきてゆで、それを天日でからからに乾かし、冬場に水でもどして、煮付けやあえ物、お浸しにして食べるのである(註3)。野菜の不足する冬場には貴重な食糧だった。それ以外にツクシ、セリ、キノメ、ノビル、ナズナなどの雑草・木の芽は野菜がまともに生産される前の貴重な青物、ヨモギは草もちの材料と、生活には不可欠であり、イナゴやタニシは貴重な動物蛋白源、イナゴの場合には販売する農家もあり(註4)、こうしたものを生産部門として数えれば、さらに農家の生産品目数は増えることになる。

 このような少数の主作物の生産と自給用を中心とする多品目少量生産の結合、農業と農村家内工業の結合、これはかつての生産力の低さから必然化されたものであった。
 当時の手労働・畜力段階では、しかも自然条件の制約のある農業、生鮮物の生産である農業では、ある品目だけを大量に生産することが難しかったからである。また、連作障害、農業の季節性による労働の繁閑・作物の競合を回避するためにも多品目の生産が必要だった。
 もう一つ、生産・生活に必要な農産物をよそから手に入れようとしても当時の輸送手段ではまた冷蔵等の貯蔵手段のない段階では無理であるが、農家の場合は土地があるのでその生産が可能である。高い交通費をかけてくるものを買うよりは、自分の家でつくった方が得である。
 かくして「百姓」とならざるを得なかったのである。

 農家の方、農家出身の方、今から50年前に家でどんなものをつくっていたか思い出してあるいはお年寄りに聞いて数えてもらいたい(同時に何らかの形で記録しておいてもらいたい、これ以上記憶が薄れる前に)、やはりみんな「百姓」だったということがわかるのではなかろうか。

 いうまでもなく作物の性格、それに対応する栽培の仕方は、その種類によって大きく異なる。それをすべて知っておかなければ、生産はできない。
 どのような作物がどういう土地を好むのか、いつどれだけの深さで耕し、どれくらいの畝をたて、いつ何粒くらい種をまき、水や肥料はいつごろどれくらいやり、中耕除草はいつごろやればいいのか、収穫はいつごろどのようにすればいいのか、収穫物をどう調整加工し、保存・販売すればいいのか等々、作物によりすべて異なるが、それをすべて覚えておかなければならない。
 同時に、どこの田畑はどのような性質をもち、そこにどのような順序でいつごろ作物を植えてきたかも覚えていなければならない。田畑の性質もすべて異なり、また連作障害の問題もあるのでそれに応じて植える作物、時期を考えなければならないからである。
 当然のことながらどういう気象のときにどの作物にどう対処すればいいのかも知っておかなければならない。
 家畜もその種類によって餌を始めとする飼育の仕方はすべて異なるが、それも知っていなければならない。農産加工もさまざまあるが、そのすべてを覚えておかなければならない。
 こうしたすべてのことを百品目にわたって覚え、それをもとにして農作業の計画を立てるわけだが、よくもまあこれだけのことを知っているものだと感心する。
 前にもちょっと述べたが、まさに「百姓」は知恵者でなければならなかったのである(註5)。

 こうした知識をもとに、作物の必要性、市場動向、連作障害や栽培時期、作業の利便さ等を考えながら、また限られた土地を有効に利用すべく、農家は作物を作業を順次配置した。
 おかげさまで年中忙しかった。この作物の生産が終わるとこっちの作物の生産、さらにそれらの収穫物の調整加工があり、家畜には毎日餌をやらなければならない、大変だった。東北の場合冬期間は相対的に暇にはなるが、一年分の藁工品をこの時期に生産しておかなければならず、雪かき等も必要となる。まさに貧乏暇なしだった。
 だから、旅になどめったに出られなかった。だからこそ農民は旅が好きだった。

(註)
1.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(2~3段落目)、
  11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」、
  11年5月25日掲載・  同  上 「☆消えたわらの文化」参照
2.11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(4段落目)参照
3.11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性―山形内陸人の雑食性―」(2段落目) 参照
4.10年12月16日掲載・本稿第一部「☆遊びから始まる田畑の手伝い」(1段落目)参照
5.12年8月3日掲載・本稿第四部「☆生きる知恵はどこへ」(5段落目)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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