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動く風景、鉄橋、トンネル



               旅と乗り物・雑感(3)

              ☆動く風景、鉄橋、トンネル

 バカと子どもは前に乗るのと高いところに上るのが好きなんだそうだ、そう言って冷やかされたことがある。そうなのである、私はまさしくバカもしくは子どもで、列車や自動車の前に乗るのが好きだし、二階席など高い席があればそこに乗るのが好き、飛行機も(高い山に登るのも)好きである。それは動く景色が全体の景色が見られるからだ。
 当然のことながら窓側も好きだ。そうでないと景色が見られないからだ。だから私はまさに窓側族=「窓際族」である。
 自動車に関してさらに言うと、後方からでは景色がよく見えないし、両脇に座れば片側の景色しか見られない。前であればましてや高ければ真正面に全面の景色が動いていくのを眺められる。だから一番前に座ろうとする。
 とは言っても、昔の列車はそうもいかなかった。先頭車両は蒸気機関車なので、前に座って前方を見ることができなかったからである。
 しかし、いいこともあった。一番後ろの車両のデッキでは動く景色を全面で見ることができることである。昔の客車の最後尾は車両の後ろの出入り口が開いていたからである。今はもうそんなことがなくなったのでちょっと説明しておく。それぞれの客車の前方と後方に隣の車両への出入り口がついており、そこのデッキが連結されているわけだが、最後尾の車両の出入り口は後ろに車両が連結されていないので開いていた。だから車外に飛び降りようと思えばそれは可能であり、危険なので今はもうなくなっているが、かつてはそれが普通だった。それで最後尾のデッキのところに行くと真正面に景色を見ることができたのである。ただし、過ぎゆく景色だったが。でもそれはそれで楽しかった。線路がどんどん細く小さくなっていく、景色も小さくなり、やがて消えていく、しかも外のさわやかな空気に当たれて気分がいい、だからこれはこれでよかった。ただし、最後部だと、気が付いてもっと見たいと思ったときにはあっという間に遠くに行って小さくなってしまい、見られなくなる。やはり前の方がいい。遠くに見たいものを見つけたら、その近づく姿をじっくり見ることができるからである。
 やがてそれが可能になった。ディーゼル列車や電車のなかには最前部の運転席の右側から前を見ることができるようになったのである。ただし椅子はない。そこで私はそこに立つ。しかし、前を見たがる子どもたちで占拠されていて立てないときもある。また空席がいっぱいあるときここに大人が立つのは何かおかしいので我慢することもあり、それが残念だ。
 何とか前に立つことができると、前をまた前を、遠くを近くをじっと見続ける。速さも実感しながら。細いレールがどんどん近づいてきて大きくなり、あっと言う間に消える。景色は過ぎ去り、また新しい景色が開けてくる。どんな景色がその後に待っているのか、どこまでも続くレールを見ながら、期待して待つ。
 もちろん、後ろも同じでやはり見ることができる。混んでさえいなければ、前後どちらを選ぼうとも自分の自由、これは便利である。しかも暑さ寒さに関係なく見ることができる。さらに危険ではない。窓や出入り口が密閉されているからだ。昔は振り落とされる危険性があった。このことはいいのだが、車外の音を、空気を身を以て感じることができないのが欠点だ。また新幹線ではそれができないことも残念だ。

 車輪とレールが奏でるガタンゴトンという規則正しい音、うるさいけれども、そのリズムは好きだった。そしてそれはトンネルと鉄橋に差し掛かると急に大きくなる。車外から鉄橋を渡る列車を見、その音を聞くのもいいが、車中で音を身体全体で味わいながら鉄橋を渡るのも何ともいえない。トンネルを、その真っ暗な中をすさまじい音を立てて走る、まさにこれは非日常、景色は見えなくともこれはこれで楽しかった。これは私だけではなかった。修学旅行のときなどは、鉄橋だ、トンネルだとみんなが騒いでいた。列車などには本当にたまにしか乗れなかったからということもあるが。
 だからだろう、汽車を歌った童謡の歌詞には必ずと言っていいほど鉄橋とトンネルが入っていた。
  「今は山中 今は浜
   今は鉄橋 渡るぞと
   思う間もなく トンネルの
   闇を通って 広野原」(註1)

  「お山の中ゆく 汽車ぽっぽ……中略………
   トンネル 鉄橋 シュッシュッ シュッシュッ
   トンネル 鉄橋 ポッポッ ポッポッ……後略………」(註2)

  「汽車 汽車 ポッポポッポ シュッポシュッポシュッポッポ……中略………
   走れ走れ走れ 鉄橋だ鉄橋だ 楽しいな……中略……
   走れ走れ走れ トンネルだトンネルだ うれしいな」(註3)

 鉄橋に来ると、ゴーッと音がする、ガタンゴトンの音が急に高くなる。小さな川にかかっている鉄橋でもそうだった。当時の列車は、窓が空いていればもちろんのこと閉めていても音が聞こえ、今鉄橋を通っているということがすぐわかった。子どものころはその音を聞いてあわてて窓から顔を出し、下に川を見ながら、鉄橋を渡っていることを実感したものだった。
 この鉄橋の音というと必ず思い出すことがある。

 私の母が死んだとき(註4)、今のように電話が普及していない時代だったので、近所の人が近い親戚には歩いて、遠くは自転車で知らせに行ってくれた。
 母のすぐ上の姉つまり私の伯母のところにも自転車で知らせに行ってくれた。天童までのでこぼこ道、しかも家を探しながらだから、山形の私の生家から急いでも一時間近くかかっただろうと思う。もう夕方だった。
 聞いてびっくりして、伯母は伯父といっしょにとるものもとりあえず天童駅に走った。乗物はこの奥羽本線しかない。といっても当時のこと、ましてや戦争直後、列車の本数は少ない。しかも必ず遅れる。たとえ来ても満員列車、乗れない場合すらある。でもしかたがない、ともかく待った。
 夜遅くなってようやく列車が来た。それに乗ろうとしたがもう満員、列車の中に入れない。しかし当時の列車の出入り口は今と違って自動で開閉するのではなく、いつも開いている。扉(引き戸)を閉めるのは手である。しかし外に飛び出すくらいの人でいっぱいで、閉めようがない。その入り口に無理やり入った。入ったというよりつかまった。列車の入り口のすぐ外についている取っ手のような握り棒(乗り降りするときの捕まり棒、今はない)に手でつかまり、何とかデッキに足を載せた。両手両足を除く身体は車外にのけぞって飛び出したまま、伯父は自分の前に伯母をおいてまもるという姿勢でふんばる。列車は出発した。落ちたら大変だ。でも危険も何も考えなかった。
 真っ暗な中、やがて乱川の鉄橋を列車が走る、ゴーッとすごい音がする。振り落とされないようにしっかりと握り棒を握る。怖いも何もなかった、妹つまり私の母の死が「間違いであってくれればいい」、「ウソであって欲しい」、伯母はそう願いながら、繰り返し繰り返しつぶやきながら、涙を流しながら、山形駅に向かった。
 あのときの気持ちが、あの暗闇が、鉄橋のゴーッという音が忘れられない、いつだったか伯母がこんな話をしてくれたのである。
 鉄橋を渡るたびにふっとこの話を思い出していた。しかし最近は鉄橋を通っているのかどうかわからなくなった。気密性の高まった列車、本当に静かになった。だから鉄橋で思い出すこともなくなった。

 それでもトンネルだけはわかる。急に暗くなるからだ。だけどそれは昼、夜はすぐに気が付かない。その昔は夜でもすぐに気が付いたものだった。列車の音がトンネル内で反響してすさまじい音となり、話がまったくできなくなり、しかも汽車の煙が入ってくるのであわてて窓を閉めざるを得なかったからである。
 ただし、仙山線(仙台と山形を結ぶJR=旧国鉄の鉄道路線)の面白山トンネルだけは、窓を閉めなくともよかった。前にも述べたが、電気機関車が牽引していたからである(註5)。とはいっても、夏以外は冷たい風が入ってくるので結局は閉めたが。
 このトンネルは当時は全国三番目の長さ、通り抜けるまでともかく時間がかかった。山寺駅を出発して急な山坂を上っていくとトンネルの穴が見えてくる。入る直前ピーッと電気機関車の汽笛が鳴る、入るぞという知らせである。入った瞬間、ゴオーッというすさまじい音が耳を打つ。突然目の前が真っ暗になる。何も見えない。やがて列車の前の電気ですぐ目の前の線路やトンネルの壁が見えるようになるが、遠くは真っ暗だ。
 窓から首を出して後ろを見ると、トンネルの入り口が小さく見える。それがさらに小さくなってくる。もう針の穴のようになり、完全に見えなくなる。まったくの暗闇だ。このまま闇から抜け出られなくなるのではないか、閉じこめられてしまうのではないかと不安になる。いつまでもいつまでも闇を走る。怖くさえなってくる。
 前の方を見てみる。入り口は見えないかとじっと見るが、真っ暗だ。何分かして、遠くに何か小さな白い点のようなものが見えてくる。よくよく見ないと気がつかない程度だが。
 出口だ。出口の光りが見えてきたのだ。何かほっとする。しかしなかなか大きくならない。いつまでも本当に小さい。目の錯覚なのだろうか。また不安になる。しかし着実に光の点は大きくなっている。本当に少しずつなのだが。目をこらして見ると光は半円の形となっている。間違いなく出口だ。でも周りは暗い。なかなか光は大きくならない。また不安になる。時間が止まったように長い。
 でも光は大きくなる。また大きくなる。着実に大きくなっていくのがわかる。もう出口だ。半円の周囲が光ってまぶしくてはっきりした形となって見えなくなる。
 突然まぶしい光が全面に広がる。思わず目を細める。緑の木々が両脇に映え、上は真っ青な空だ。レールは曲がりくねりながら後ろに向かって走る、走る。心が明るくなる。小さな鉄橋をいくつもいくつも渡る。下に澄んだ川が見える。やがて変電所(交流電化してからなくなったが)が見えてくる。もうすぐ奥新川駅だ。
 列車が停まる。ほとんど降りる人はいない。国鉄職員の宿舎が数軒目立つだけ(今はもうない)、人家はほとんどない。やがて列車は出発である。
 この仙山線、そして面白山トンネル、私が東北大に入った1954(昭和29)年から何度となく利用することになるわけだが、その最初のころ、この仙山線、それと並んで流れる細い急流(新川=仙台市内を流れる広瀬川の上流、これは当然ながら後で知った)に沿って、細い線路がうねうねと続いていることに気が付いた。国鉄の列車の走る線路でないことは、線路の細さや急カーブからしてもわかる。これはトロッコの走る軌道ではないか。乗って見たい、いつもそう思って見ていたものだった。

(註)
1.『汽車』 文部省唱歌 作詞:不明、作曲:大和田愛羅 1912年
2.『汽車ポッポ』 作詞・作曲:本居長世 1927年
3.『汽車ポッポ』 作詞:富原薫 作曲:草地章江 1939年
4.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」参照
5.仙山線については下記掲載記事で詳しく述べているので参照願いたい。
  11年4月1日掲載・本稿第一部「☆山形発仙台行の野菜」(1段落目)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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