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トロッコ、森林軌道



                旅と乗り物・雑感(4)

               ☆トロッコ、森林軌道

 トロッコ、この名前は若い人も知っているはずである。観光名所を走るトロッコ列車などがあるからだ。でも、あの列車のうちの機関車はトロッコではなく、それに牽引されている無蓋車(きちんとした屋根がついていない車)が本来のトロッコである。つまりトロッコとはそもそもは「手で押して線路の上を走らせる車」のことで、屋根もなく、線路の上を動くようにつくられた四輪の車の上に板が乗っているだけ、もしくは四輪の上に荷物などを積む無蓋(むがい)の箱が乗っているだけの人力車なのである。

 幼いころ、このトロッコをときどき見かけた。生家の田んぼの間を走る奥羽本線の線路の上を、数人の男の人が鶴嘴など道具を載せたトロッコを押して歩いていたのである。線路の見回り、補修をする国鉄の保線係の人だと言う。あれでは危なくないか、列車が来たら跳ね飛ばされてしまうではないかと父に聞くと、列車が来たらみんなで線路わきにトロッコを下ろし、通り過ぎたらまた線路にあげるから心配はないという。残念ながらそうしている姿を見たことはなかったが。このトロッコを押して歩いている姿を遠くから見ると、ゆっくり歩いているように見え、何かのんびりした気持ちになった。同時に、自分もあれに乗って見たい、押してみたい、まずは触ってみたいとあこがれたものだった。

 そのあこがれが半ば実現したのは小学2年ではなかったかと思う。私の家の近くにできた「日飛(日本飛行機)山形工場」の建設現場でトロッコが使われていた。この日飛については前に述べている(註1)ので詳しくは省略するが、軍用機をつくる工場で、戦争遂行のために生家の土地を含む約15㌶の農地が急遽接収され、ものすごい勢いで建設が始まった。整地が進み、少しずつ建物が建ち始めたころ、このころはまだ塀もめぐらされておらず、自由に入れたので、近くの友だちと二人で見に行った。ちょうど休日だったらしく、誰もいなかった。
 くねくね曲がりながら流れていた小川、その岸のところどころに自生していた小さな柳の木、そして田んぼ、畑などのかつてののんびりした風景はなく、どこから持ってきたのか大量の汚い土と砂利で全面覆われ、草一本も生えていない荒涼とした風景となっていた。そのなかに整地工事で使われたと思われる建築資材の残骸がところどころにおかれていた。
 驚いたのは、そのなかに線路の跡があり、一部に錆びて赤茶けた線路があったことだった。しかもそこにはトロッコがあった。ひっくり返っているもの、線路に載っているものがある。上に乗って見た。動かしてもみた。2~3㍍動いた。初めて触ったトロッコ、うれしかった。このトロッコや線路がその後も建築資材などの運搬のために別のところに設置されて利用されたのか、それとも役目が終わって撤去されたのかわからない。
 そのうち敷地周辺すべてに塀が張り巡らされ、中がどうなっているか見られなくなった。同時に、飛行機をつくる機械の騒音が外にも聞こえるようになってきた。
 やがて敗戦、日飛の土地はもとの農地に帰り(註2)、その後はトロッコのことなど完全に忘れていた。ところがそのトロッコの線路らしきものを仙山線のわきで見たのである。

 面白山トンネルを仙台方面に抜けると、そのすぐ左側から急流が右側の川に注ぎ込んでいるのが見える。同時に、国鉄の線路の幅よりもかなり狭い線路(これから「軌道」と呼ぶことにする)が仙山線に沿って同じく左側から曲がり、すぐわきを通っているのも見えて来る。時には石垣の積んである上を、ある所は急な崖を削ってつくった細い道の上を、ある所に来ると雑木林の中を、その軌道は走る。私たちの乗っている仙山線の線路より上になったり下になったり、離れたり近くなったり、平行に走ったりしながら軌道は続く。左側の山の傾斜がきつくなるあたりで、軌道は川の右側に移る。木材を組み立ててつくった小さな橋(鉄道が通る橋だから鉄橋でいいのだろうか、「木橋」と呼ぶべきなのだろうか)の上に枕木とレールが敷設されていて川の上を横切るのである。そして仙山線の線路の下をくぐって右に行ったり左に行ったりする。
 ようやく奥新川の駅に到着する。そこを境にしてもうその軌道は仙山線について来ない。奥新川の駅で終わりのようだ。その周辺に太い木材が積んである。この線路は材木を運ぶ線路らしい。この周辺は国有林が多いはず、そうするとこの軌道は営林署の森林軌道ではなかったろうか。そして材木はここで仙山線の貨物列車に積み替えられてどこかに運ばれるのだろう(なお、駅に対面する山から索道で木材が運ばれたりもしていた、当時の奥新川駅は材木の集積地だったようである)。
 そしてこの森林軌道の上をトロッコが走っていたのだろう。それを何で牽引していたのかわからない。実は私は走っているのを見たことがないのだ。タイミングが悪かったのか、私が仙山線に乗り始めたころはもうあまり走っていなかったからなのかわからない。
 でも私は人力ではなかったかと思っている。あれだけ曲がりくねった細い線路、トロッコを何両も連結して走ったりすることはできなかったろう。2~3両程度なら大変ではあるけれども人力で押して上ることができる。帰りは下り坂だからひとりでに下ってくれる。材木を積んだ重いトロッコでも大丈夫だ。スピードが出過ぎないようにブレーキをかけるのが大変だろうが。
 と思うのだが、はっきりしない。もしかすると動力で動いていたのかもしれない。あれだけの距離を人力で押して登っていくのはかなりきついし、時間がかかりすぎるとも思うからだ。
 いずれにせよ、あのころきちんと聞いておけばよかったと後悔している。

 こうした森林軌道(森林鉄道とも呼ばれる)は東北の各地にあった。下北半島などには縦横無尽に走っていたと言う。そしてそれには林業関係者以外の人間も乗せた。今と違って道路も車もまともになかった時代、まして山間地帯、利用させないわけには行かなかったし、乗客数はわずかでもそれで収益をあげる必要もあったからだろう(なお、仙山線わきの軌道には普通の人間は載せなかったと思う、奥新川駅の上の方にはまったく人家がないからだ)。
 この森林軌道の情景が水上勉の小説『飢餓海峡』に出てくる。名所・仏ヶ浦のある佐井村の野平(のだい)という開拓部落にある軌道の出発点から乗るのだが、そこの情景を次のように描写している。
 「そこにはトロッコとも汽車とも名のつけようのない鉄鎖のついた枠だけの車輪と箱をつないだ軌道が停まっていた。シャツ姿の男が七、八人箱の上にのって、鉄鎖につかまっている。営林署が伐採したアスナロウやヒバの材木を運搬するためにとりつけた軌道なのである」(註3)
 1954(昭和29)年の洞爺丸台風の直後、北海道で起きた強盗殺人事件の犯人がこの軌道に乗って野平から隣の川内村の畑という集落に行き、そこで乗り換えて阿部城に行き、また乗り換えて川内に着く。そしてまた幹線に乗り換えて大湊(現むつ市の中心部)の駅に到着する。このように、3本の森林軌道に乗り換え、最後に1本の幹線に乗り換えて目的地に到着しているのだが、このことだけを見てもいかに森林軌道が半島のあちこちを走っていたかがわかろう。なお、この途中の景観や人々の交流などについては小説を読んでいただきたいし、これを映画化した作品(註4)で主役を演じる三国連太郎と左幸子がこの森林軌道で出会う場面が出てくるのでぜひ見ていただき、当時の森林軌道とはどんなものだったかを実感してもらいたい(これが本当に下北半島の森林軌道だったのか、よそで撮影したものなのかわからないが、森林軌道の雰囲気はわかろう)。

 1960年ころからではなかったろうか、仙山線わきのトロッコ線路は少しずつ荒廃してくるようになった。レールは錆びて赤茶け、線路が崩れ落ちてきた土砂で見えなくなったり、線路の下が地崩れして枕木とレールが浮いていたりしているところが見受けられるようになってきた。もう使われなくなったのかもしれない。そのうちレールがなくなってきた。取り外せるところは取り外すことにしたのだろう。やはり廃線になっていたのだ。
 やがて川を横断していた鉄橋(木橋)の柱や枕木は朽ち果ててきた。今はもうなくなっている。危険だから片付けたのかもしれない。軌道跡地には草が生え、木が生え、さらに崩れてきて、ここに線路があったということはよほど注意しないとわからないようになってしまった。
 なぜ廃線になったのか、伐採すべき樹木がなくなったためか、まだあるけれども収支相償わなくなったせいなのか、国有林の赤字のせいなのかよくわからない。
 今仙山線を通って、その昔このわきを軌道が走っていたなどと言っても誰も信用しない。それでもたまに石垣がのこっていたり、道路のようになっていたりするので、わかる人が見ればわかる程度にはなっている。そこを教えようとするが、気づいたときには列車はあっという間に通り過ぎてしまい、教えることもできない。
 それでも、奥新川の駅の近くの軌道跡地のなかにハイキング道路となったところもあり、そこは教えられる。そこを通るたびにここは線路の跡だと同行者に教えている。

 奥新川の軌道ばかりではない、東北はもちろん全国各地の森林軌道が廃線となった。外国からの材木輸入による森林伐採の収支の悪化、林道網の整備と自動車による運搬、材木の伐採・搬出技術の進展などによるものだが、何ともさびしい。トロッコ列車は若干残っているとしても、森林軌道はやはり森林軌道だ。
 残っているのは屋久島の森林軌道だけだという。それでも動態保存されているのがいくつかあるらしい。私が一時住んでいた北海道網走の近くの遠軽町丸瀬布の森林公園にもそれがあった。森林軌道で使っていた蒸気機関車が保存されており、線路の一部を利用して運転もしているとのことだったが、近くまで行きながら立ち寄らないでしまった。
 しかし、東北には森林軌道が残っておらず、動態保存されているところもない。これは非常に残念だ。東北は日本の森林鉄道の発祥の地だからだ。上北半島から青森市に向けて何本か走った津軽森林鉄道、明治末に日本で初めて敷設され、1960年代後半にその歴史の幕を閉じてしまったとのことなのだが、こうした土地だからこそ、何かきちんと残してもらいたいものだ。
 もちろん、今さら復活と言うわけにはいかないが、近代化産業遺産として線路跡地を再発見し、その保存や遊歩道としての利用、観光資源としての活用などを考えていいのではなかろうか。このまま朽ちて誰もわからなくなってしまうのが何とももったいない。

(註)
1.11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(1~3段落目)参照
2.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(2段落目)参照
3.水上勉『飢餓海峡』 76~77頁 新潮文庫 1969年刊
4.映画『飢餓海峡』 原作:水上勉 監督:内田吐夢 東映 1965年
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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