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乗り物と読書



               旅と乗り物・雑感(7)

                ☆乗り物と読書

 小さいころよく乗り物酔いをした。とくにバスでの酔い方がひどかった。当時のでこぼこ道路、揺れを吸収できない車の構造、狭い車内、車独特の匂いと人いきれ、夏などはすさまじい暑さ、スピードが出ないからそれが長く続く、酔うのは当然である。だからバスには乗りたくなかった。
 でも乗らなければならないことがある。何とか気分が悪くならないようにできないものか、いろいろ試してみたが、そのうち窓を開けて外の空気を入れ、外の景色を見ればよいことに気が付いた。それで乗物に乗ったら必ずそうすることにした。もちろん、前に述べたように外の景色を見るのが好きだからでもあるが。しかし残念なことに、雨の日や冬は窓を開けるわけにはいかない。そのときは本当に辛かった。
 大人になってからは乗り物酔いは昔ほどではなくなった。それだけ身体が丈夫になったからなのだろうが、バスも列車も揺れがひどくなくなり、車内の換気がよくなったからでもあろう。
 それでもバスは苦手、本などは絶対に読めない。車内で本を読む人の気持ちがわからなかった。
 しかし幸いなことに通勤は自転車なので、バスも列車も利用しなくともよく、乗り物酔いのことなど考えなくともよかった。
 とはいっても、仕事で長距離移動しなければならないことがある。そのときはほとんど国鉄=JRの列車である。列車では本を読んでも気分が悪くならなくなってきている。それでもやはり列車に乗ったら窓から外を見た。ボーッと見ているだけでも気分がいい。
 しかし、夜の列車はそういうわけにはいかない。外を見ても大都市を通っているとき以外暗闇である。また昼でも窓際に座れなかったりするとよく外が見えない。そのときには時間をもてあましてしまう。それだけではない。たとえばしょっちゅう乗る東北本線東京-仙台間などでは外の景色に慣れ過ぎてしまい、季節の変わり目など以外退屈することもある。
 それならその時間に学問の本を読めばいい、原稿書きなど仕事にかかわることをすればいい。しかし、そもそもが勉強嫌いのところにめんどうな本を読んだら、原稿などを書いたら、何しろ動いている車中のこと、酔ってしまう危険性がある。実際にそうなって苦しんだこともある。
 それなら軽く読める本を買って読めばいい。たとえば小説本だ。学問の本と違って気軽に読める。夢中になって読んでいたら気分が悪くなることもない。幸いなことに文庫本が大量に発行されており、それなら安いし、持ち運びもしやすい。気軽に買えて持ち運びしやすいと言えば週刊誌があるが、これは前に述べた理由で買わないことにしており(註)、やはり文庫本が一番いい。
 こんなことから、駅に行ったらまず駅前の本屋さんか構内の売店に立ち寄り、私の好きな作家の新刊・文庫本を探して買うようになった。
 70~80年代は松本清張、山本周五郎、新田次郎、井上ひさし、仁木悦子などの小説を探したものだった。彼らの新作が売られていないときはやむを得ない、読み応えのありそうな本をさがす。読んで見たらたいしたことのない小説だったとしても、文庫本の値段だからまあちょっと損したと思う程度、時間は損したと思っても後はその著者のものを買わなければいいだけ、あきらめもつく。なかに、もう一度買って読みたいと思う小説家を見つけることがある。そのうちの一人が藤沢周平だった。そして彼の文庫本が出ると必ず買うようになった。ある調査のときたまたま仙台駅のホームの売店で彼の小説をみつけた。早速買ったところ、いっしょに調査に行くことになっていた研究室のHT君(当時は若手研究者だった)も本を買っていた。何の本を買ったのかとのぞいたら、何と私と同じ本ではないか。彼もファンだったのである。そのとき彼から聞いた、藤沢周平は山形の鶴岡出身だと。彼は同じ庄内出身、それもあって愛読者だったのだろう。山形出身の私のこと、ますます彼のファンになった。なお、HT君と私の好きな著者、ときどきバッティングする。気性がまるっきり違うのにどうしてなのだろうか。仲間の推薦で読んで見てそれから愛読者になる場合もある。たとえば宮部みゆき、これは90年代に入ってだが、後輩で同僚だったKA君の推薦だった。
 こうして読書の時間は列車のなかとなった。

 やがて新幹線の時代となり、たとえば東京―仙台間の所要時間は半減した。当然読書時間は減ることになる。ところが、おかしなもので、便利になると仙台―東京往復がかえって増える。それで車内読書時間の総量は減らなかったのではないかと思う。
 そのうち飛行機での移動も増えてきた。飛行機のなかは当然のことながら外を下を見たいので、ほとんど文庫本を読まなかった。もちろん窓際ではない座席に座った時、天気が悪い時、そして夜、当然のことながら外が見えない。それで、朝は機内においてある新聞、午後は週刊誌を借りて読むことにしていた。国内での移動なのでそれほど時間がかからず、沖縄のように時間がかかるときはイヤホーンで音楽(といっても演歌)鑑賞、到着までそれで十分だった。いくら飛行機旅行が増えたと言ってもやはり列車が中心、相変わらず研究室や家では小説を読まないので、読書時間は前とほとんど変わらなかったように思う。
 しかし、網走に行ってから少し変わった。網走周辺はかなり遠くでも乗用車での移動(何しろ線路はなくなり、本数は減り、バス路線も少なくなっており、また駅や停留所から目的地点は遠いので、これはやむを得ない)、遠方は飛行機での移動となったからである。札幌も飛行機で女満別―千歳往復で言った。列車で札幌と往復したのは7年間いる間4回くらいしかなかったのではなかろうか。東京はもちろん仙台も女満別からの飛行機での往復だった。だから文庫本の読書の時間は網走に行ってかなり減った。
 そのうち、機内に週刊誌がおかれないようになってきた。コスト低下のためだという。さらに新聞もおかなくなってきた。そうなると、窓から外が見られるとき以外は文庫本を読むしかなくなった。かくして読書量が復活し始めたころ、定年退職で仙台に引き上げ、機内での読書はあまりしないで終わってしまった。

 退職してから公用での遠距離移動はなくなった。列車に乗るのは本当に少なくなった。東京に行く機会も少なくなった。だけど、仕事はもうしていない。そしたら家でゆっくり小説を読めばいい、小さいころからの小説好き、そうするつもりだった。新刊本ばかりでなく、昔読んだものをゆっくり読み直してみようなど楽しみにしていた。ところがおかしなもの、日中は小説が読めない。風邪をひいて寝込んだ時などは別だが、読む気にならないのである。
 なぜなのか、考えてみた。そうなのである、もう何十年と日中は仕事をしてきた。大学ではもちろん家でもだ。土日も仕事、あるいは家庭の雑用をしていた。小説を読むのは仕事のできない列車内(後は二日酔いなどで仕事のできない日)だった。この癖が身に沁みついてしまったのかもしれない。日中は小説を読む気がしないのである。遊んでいて何か申し訳ないような、時間が損したような気がする。それで小説は読まず、身の回りの整理(本稿の執筆も含めて)を日中の仕事にしている。
 しかし夜は別だ。かつてのように夜まで仕事をする必要はないし、身の回りの整理は日中で十分だ。そこで夕食後ゆっくりテレビを見、それから布団に入って新聞の読み残しを読み、その後に小説を読み始める。しかしそのうち眠くなってしまう。面白くて眠くならない場合もあるが、翌日のことがあるからと30分も読んだら電気を消すことにしている。だからそんなに冊数は読めない。さらに問題なのは、先に述べた私の好きな小説家は宮部みゆき以外すべて亡くなり、新作を出せなくなってしまったことだ。
 最近ではたまたま読んで見た宇江佐真理の小説が気に入って文庫本が出るたびに買って読んでいるが、新聞の読書欄なども参考にしながら、ファンになれそうな作家を今探しつつあるところである。後は昔の作家の小説を読み返し、かつて読んだ時の印象を思い起こしながら、またかつてと違った新しい視点から勉強しながら、楽しんでいる。
 これが老後というものなのだろうか。

(註)12年6月27日掲載・本稿第四部「☆活字文化の変遷」(6段落目)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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