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お握り、弁当


               その昔の食べ物・追記(2)

                 ☆お握り、弁当

 前回述べたような特別な米の食べ方のなかに「お握り」がある。「お結び」と言う地方もあり、三角形に握る地域もあるそうだが(コンビニ等で売っているのはすべて三角形であり、現在はこれが主流になっているようだ、家内も最近はそう握るようになっている)、山形にある私の生家の地域では「握り飯」と言っており、円形に握っていた。
 このお握りは、私たち子どもにとっては遠足のときに食べるものだった。
 遠足の朝、祖母もしくは母が羽釜からご飯をしゃもじですくい、手に載せ、熱そうにしながら丸く握り、その途中で梅干しをその真ん中に入れ、さらに手に塩をとり、握りながら表面にそれをつけていく。それから海苔で包む。なお、戦中戦後の一時期は海苔が手に入らず、その前後もきわめて高価だったので海苔なしが多かった。それを新聞紙に包み、リュックに入れる。
 目的地に着いてひと遊びし、お昼どきになると、みんなで広い場所に適当に座り、お握りを取り出す。持ってきた水筒の水を飲みながら、お握りを手づかみでぱくつく。箸や茶碗など使わないから面倒くさくなくていい。お腹がすいているからうまい。塩味とご飯の甘さが何ともいえない。外で食べる味はまた格別だ。問題は中に入っている梅干しだ。ご飯が悪くならないように、お腹の調子をよくするために入れるのだと言われても、あの酸っぱさ、塩っぱさ(昔の梅干しはとくにそうだった)はたまらない。でも食べないわけにはいかない、我慢して食べ、種を新聞紙に包む。そして白いご飯で舌を整え、最後に梅干しのまわりに沁み出た露で赤く染まったご飯を食べる。ここは好きだった。後は新聞紙をくるくるまるめてリュックに入れるだけ、帰りのリュックは軽くて足取りもはかどる。
 もちろん、お握りは大人も遠方に旅に出るとき持っていった。リュックサックなど入れ物に入れて、リュックを持っていかないときはお握りを風呂敷に包み、腰にぶら下げるか背中に背負って歩いたものだった。
 それから、田植えや稲刈りなど野良仕事が忙しくて食事のために家に帰れないとき、山仕事や野良仕事で遠方に出かけるときに、お握りを持って行く。ただし、私の生家ではお握りをもって農作業に行くことはめったになかった。田畑がそれほど遠くないので家に帰って食べられるからだろう。もちろん田植えや稲刈りのときには田んぼで食べる。しかしお握りではない。臨時雇いの人や近所の手伝いの人でかなりの人数になるので、おひつにご飯を入れ、おかずを別の入れ物に入れて田畑に持っていき、茶碗や皿、箸で食べた。何かの都合で父母や祖父が食事の時間に帰らずに働かなければならないときだけお握りを持って行った。こんなことはめったになかったが(註1)。
 このようにお握りは旅行食 携行食だった。保存性・携行性に優れ、手づかみで食べられる、容器など要らない等の簡便性があったからである。
 このうちの簡便性からだろうが、お握りは子どものおやつにもなった。夏の夕食は晩く、八時近くになる。お昼からそれまでの時間、子どもたちはお腹が空いて待っていられない。おやつがあればいいが、そんなものはめったにない。そんなときは祖母が小さなお握りをつくってくれるのである。

 今、お握りの表面に塩をつける、海苔を巻くといったが、それ以外に、ごま塩、味噌、醤油、ゆかり(梅干しといっしょに漬けた赤シソの葉を乾燥させて粉状にしたもの)などをお握りの表面につけても食べた。
 また、普通のお握りや味噌・醤油をつけたお握りを焼いても食べた。お握りを金網の上にあげて炭火に当て、網の焦げ目がお握りにつく程度に焼くのである。この焼きお握りは香ばしくてうまかった。なお、何も表面につけないお握りを焼いて、それを醤油につけて食べるというやり方もあったが、私は最初に醤油をつけたお握りを焼いた方が香ばしくて好きだった。また、お握りを青菜(せいさい)(せいさい)漬(註2)の葉っぱで巻いて、さらにそれを焼いて食べたりもした。
 それからお握りのなかに入れる具だが、私たちの子どものころは梅干しだけだった。

 海苔の養殖技術が確立、普及し始めた1960年代から、海苔が豊富に供給されるようになり、お握りに海苔は普通になってきた。
 問題は、朝握ってお昼になって食べようとすると海苔がご飯から出る湿気でべっとりとなり、海苔のおいしさが半減し、しかもなかなか噛み切れなくて食べにくくなることである。だから家内などは、お握りを新聞紙などの紙に包んで持たせたものだった。ポリフィルムや銀紙でラップするよりはまだましだというのである。
 いつのころ、どこでだったろうか、ご飯を食べる暇がなくて、駅近くの売店でお握りを買い、列車のなかで食べることにした。お握りを包んでいるセロファンのような紙を開けようとして困ってしまった。開け方がわからない。よく見ると海苔とご飯がくっついておらず、間にまたセロファンの薄い紙がある。同行していた若手研究者を見ていると、上手にその紙をはがし、海苔をご飯にくっつけ、まさに海苔お握りにして食べようとしている。彼は笑いながら私にやり方を教えてくれた。感心してしまった。よく考えたものである、私のような不器用なものでも簡単にできるし、これなら海苔のおいしさ、海苔お握りのうまさはなくならず、食べやすい。
 こうしたこともあるのだろうか、いつのころからかコンビニなどに行くとお握りが棚にたくさん並ぶようになった。しかもそのお握りの具は梅干しだけではない、昆布・塩鮭・焼きたらこ・おかか等々がある。好みに応じよりどりみどりだ。しかもそれを買うのは旅行などに持っていくためではない。日常の朝食、昼食さらには夕食用として買う人もいるようである。つまり独身者などの炊事省略のためのようだ。はたしてこれで十分な栄養が撮れるのか、偏りはないかが心配となる。パンと牛乳ですますよりはいいかもしれないが。
 どうもお握りは携行・旅行用などの特別な食ではなくなりつつあり、日常食の一部となったようだ。
 それでも、お握りの携行性、保存性、簡便性という性格からだろう、やはり遠足や登山の時などにはお握りをつくって持っていくという慣習は残っている。
 それだけではない、今回の大震災からもわかるように、お握りは非常食として大活躍した。やはり特別な食としての性格は残しているようである。
 「おむすび ころりん すっとんとん」、こうした昔話をこれからの時代の子どもにも伝えていけるように、お握りを、日本のお米を、農業を大事にしてもらいたいものである。

 携行食といえば弁当がある。入れ物=弁当箱に入れて携行するところにお握りと違う点がある。容器に入れるために、ご飯ばかりでなくおかず等を入れて運ぶことができる。それでその内容は日常の家庭食と類似している。ただしおつゆはつかない。当然のこと、弁当は携行食、持ち運びしにくいおつゆは持って歩くわけにいかないからだ。
 私はこの弁当と約60年間つきあってきた。70歳で勤めをやめるまで、幼児時代と大学時代を除いて、平日の昼飯は弁当だったからである。

 子ども時代は給食などなかった(註3)ので、私たちはみんな弁当をもって学校に行った。当時は勤め人の大人も弁当を持って職場に行った。大工さんなど力仕事をする人たちの弁当は大きく、ご飯がびっしり詰まっていた。今のように外食で昼飯をすますなどという人はあまりいなかった。また今のような弁当屋もなく、弁当は家でつくって持ってくるのが普通だった。
 そのころはアルマイトでつくられた弁当箱が普及しており、私たちはそれにご飯やおかずを詰めてもらい、それを自分で新聞紙か小風呂敷に包み、ランドセルかカバンに入れて学校に通ったものだった。
 このアルマイト弁当箱、非常に軽くていいのだが、柔らかくて何か固いものにぶっっけたりちょっと力を入れたりすると歪んだり曲がったりすること、汁っぽいおかずをもっていくとその汁が弁当箱から外に漏れだし、カバンの中を汚し、教科書やノートに染みをつくることが難点だった。
 もう一つ、梅干しを入れると、それが接触した弁当の蓋の一部が丸く変色し、やがてぽつぽつと小さな穴ができる、つまり腐食してくるのも難点だった。そもそもアルマイトは鉄などと違い腐食しにくいことを特徴としているのだが、梅干しの酸には弱いらしい。
 それなら梅干しを入れなければいい。しかし、ご飯の腐敗防止のために、またおかず不足を補うためにはこの梅干しがきわめて便利なので、それを入れないわけにはいかなかった。それどころか戦時中は梅干しを入れることを強要された。
 ときどき先生がいう、明日のお昼は全員「日の丸弁当」にしますと(註4)。つまり、弁当のご飯の真ん中に梅干し1個を置く、すると見た目が日の丸になる、こういう弁当を家でつくってもらって持ってきなさいというのである。他のおかずは一切なしで、梅干しだけをおかずにして食べなさい、戦地で戦っている兵隊さんは食べるものも食べずに苦労して闘っているのだ、それを思えばこういうご飯でもおいしいはずだというのである。まあ栄養も何もあったものではない、まさに戦意高揚のためだったわけだが、おかず不足に悩む家庭にとってはそれで助かったという面もあったかもしれない。戦時中の魚も野菜もろくにない時代、おかずをどうつくるか困っていたからである。米もまともに手に入らない時代になっており、日の丸の白地をつくることも難しくなっていた。
 戦時中、弁当のおかずにどんなものが入っていたかまったく記憶にない。記憶に残るのは戦後の中学時代である。ほぼ毎日「切りいか」の佃煮が弁当のおかずだった。おかげさまで佃煮が嫌いになってしまった(このことについては次々回述べる)。おかずにする材料がないあの時代、弁当のおかずを詰めるのに炊事担当の祖母も苦労したと思うのだが、それにしてもと思ったものだった、たまには家で飼っている鶏が産む卵を卵焼きにしておかずにしてくれればと。しかし、遠足とか何か特別のときにしかおかずとして持たせてくれなかった。卵は基本的には売り物なのだからやむを得ないのだが、それなのに結婚前のM叔父が職場に持っていく弁当にだけ卵焼きが入っているときがあり、これが私たち子どもには不満だった。今考えて見れば叔父はカネを稼いでいるのだし、職場での周囲の目もあるので少しでも見栄えのいいおかずを入れてやらなければならないだろうし、これもやむを得ないのだが、子ども心には不平等だと面白くなかった。
 しかし、そんなことを言うのはぜいたくだったかもしれない。学校に弁当を持ってこられない子どももいたからだ。弁当泥棒もときどき問題となった。私のクラスにはなかったが。

 1960年ころから食材は相対的に豊富に出回るようになり、弁当のおかずで苦労しなくともよくなった。弁当箱はステンレス、プラスチック製となり、より丈夫により軽くなった。また、弁当の蓋のまわりにゴムをつけて汁や水分が外に漏れないようにされ、昔のような苦労をしなくともすむようになった。
 同じくちょうどそのころではなかったろうか、小学校・中学校での完全給食が全国的になされるようになり、子どもたちは学校に弁当を持っていかなくともよくなった。
 大人も持っていかなくなった。外食が多くなり、さらにコンビニや仕出し屋の弁当を買って食べるようになったからである。当初は駅弁が駅だけでなくどこででも販売されるようになったという感じがしたものだった。それなりにうまい。しかも安い。そうなるとついつい疑ってしまう、油や塩分、糖分、調味料、添加物等の摂り過ぎにならないか、輸入農畜産物がどれだけ含まれているだろうか、働いている人たちの労働条件はかなり悪いのではないかなどと。

 明日給食が休みなので弁当を持ってきなさいと言われると、親のなかには仕出し屋の弁当を子どもに持たせるものがいるという。それなりにいろいろな事情もあるからかもしれないし、自分がつくるよりも豪勢だからとそうするのかもしれないが、親の手造りの弁当、こういうのもたまにあっていいのではなかろうか。もちろん、母親だけではなく、父親がつくってもいい。同僚だったKA君がつくる弁当はお母さんがつくるよりうまいと子どもたちが喜んだとのこと(奥さんはそれが面白くなかったらしい)、こんなこともほほえましい(不器用な私にはできないが)。

(今回から週1回、月曜日掲載とさせていただく。したがって次回は8月12日掲載となる)

(註)
1.これも一因なのだろう、下記の記事で述べたように、最初に野良でお握りを食べたことを強烈に覚えている。
  11年1月24日掲載・本稿第一部「☆農のやすらぎ」(1段落目)
2.11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性―山形内陸部の雑食性―」(5段落目)参照
3.小学5~6年のときだけ給食があったが、毎日ではなく、またご飯は持ってくることになっていた。つまり完全給食ではなかった。このことについては下記の記事を参照されたい。
  11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2、4段落目)
4.どういう日にそうするよう命じられたのか覚えていない。


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コメント

[C40] お握り大好き

お握りは世界に誇れる食べ物だと思います。
冷めても美味しい、むしろ冷めた方が美味しい気もします。
作るのも楽、食べるのも便利、おかずがなくともお腹を満たせる、握り手の愛を感じる(笑)等々。
握る専門の私は、他人が握ったお握りが大好きです。
  • 2013-08-05 07:26
  • mayu
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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