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遺したい記憶、伝えたい思い(2)



            ☆戦後東北農業の原点―一九五四年のこと―

 一九五四(昭和二十九)年のことである。この年は私が東北大学に入学した年だったが、その晩秋、子どもをおんぶした農家の若い母親が大学病院の門をくぐった。岩手の山村の医者からの紹介状を読み、子どもを診察した医者はすぐに入院させるように言った。母親は家に戻って相談してくると答えた。医者は言った。このまま帰れば子どもの命はないと。母親は子どもをぎっちり抱きしめながら、目を伏せて、やはり家に帰るという。医者は繰り返し繰り返し入院を説得した。最後には怒鳴りつけた。しかし態度は変わらなかった。母親はまた子どもをおんぶして門から出ていった。うつむいて一歩一歩地面を踏みしめながら歩くねんねこ姿の彼女はとても小さく見えた。
 農家は貧しかった。遠い仙台まで来て大学病院に入院させるお金などなかった。近くの医者に診てもらうことすら大変なことだった。しかも当時の農家の嫁は家での発言権もない。入院するしないを決める権利もなかった。
 彼女の姿を大学病院で再び見ることはなかった。入院させる金がないということになったのかもしれない。子どもが死んだからかもしれない。
 この一部始終を見ていたのが、看護学生で実習に来ていた私の家内だった。自分の力で自分の子どもを救えず、涙も流せなかったその母親をみたとき、その姿に同性としての自分を重ね合わせ、世の中をもっとしっかり見つめていかなければと考えたという。その話を私なりにイメージして書いたものである。
 これは極端な例ではあるけれども、当時の農家は本当に貧しいものだった。私の生家も例外ではなかった。戦前からの自作農で、当時としては山形の旧市内(五四年町村合併前)でも五指に入る三㌶弱の耕地をもち、稲作と都市近郊であることを利用した野菜作をいとなんでいて食べるものには不自由しなかったし、医者にかかることもできた。しかし、稼ぎに稼いでようやく生計をまかなう程度であった。
 農地改革で地主制から解放され、一定の農業保護政策がとられるようになっていたけれども、当時の農民はまだまだ貧困だったのである。

 同じ一九五四年の六月、滋賀県にある近江絹糸の女子労働者が無期限ストライキに立ち上がった。その要求は、信書の開封反対、外出の自由、結婚の自由を守れ等々、今では信じられないような内容のものだった。戦前の日本資本主義を支えた紡績工場の過酷な労働、最低の基本的人権すら無視した監視や懲罰など、「女工哀史」はまだ生きていたのである。この百六日間に及ぶ闘いは人権ストとも呼ばれ、世論の支持を得て勝利したが、従業員約一万三千人という大企業ですらこうした状態だったのだから、零細な企業や店で働く労働者の状態は推して知るべしであろう。
 戦後の民主化で労働基準法を始めとする労働者の権利をまもる諸制度ができてもそうだったのである。
こんな都市に出て行くなら、いくら苦労しても農村にいた方がよかった。嫁に行って苦労はしても、少なくとも子どもといっしょに暮らし、育てる喜びはあったからである。
 しかし、それができるものは限られていた。高校に行きたくとも行けない、家にはもちろん地元にも働き場がない子どもたちは、いくらいやでもふるさとから出なければならなかった。

 一九五四年四月、私が仙台での新しい大学生活に胸をふくらませているとき、中学を卒業したばかりの農村地域の子どもたちを乗せた臨時の夜行列車が、上野駅に向かって青森駅を出発した。都市部の工場や商店、飲食店などに就職する子どもたちは、後に「集団就職列車」と呼ばれるこの列車の窓から身を乗り出し、泣きじゃくりながら手を振って、蒸気機関車の出発の汽笛とともに、家族に、ふるさとに別れを告げた。
 ある人からこんな話を聞いた。しばらくたってようやく涙を抑えられるようになった子どもたちは、母や祖母がつくってくれたおにぎりやおかず、近所からもらったお菓子などを、ただ黙って、休むことなしに、なくなるまで食べ続けたと。そうでもしていなければ、悲しさと不安をまぎらわすことができなかったのであろう。
 送り出した親たちも、家に帰った後、持たせた弁当やおにぎりの残りを食べながら、これからの子どもの苦労を思い、健康を祈って、心で涙したのではなかろうか。
 こうして都会に行った子どもたちは、東北の農村からの出稼ぎとともに、使い捨ての安い労働力として日本の高度経済成長時代を底辺で支えた。

 五四年はまた冷害の年でもあった。七月の仙台は毎日どんより曇り、じとじと雨が降り、長袖の服を着ていなければならなかった。私が初めて体験したやませであり、「サムサノナツ」だった。
 東北の農民はこれまで幾たびも「サムサノナツハオロオロアルキ ヒデリノトキハナミダヲナガシ」てきた。とくに一九三四(昭和九)年の冷害はすさまじかった。一九二九年の世界恐慌により米が半値に、東北農業のもう一つの柱であった繭の値段が三分の一に暴落した影響がまだ色濃く残っているところに大凶作だから、たまったものではなかった。とくに重い小作料にあえぐ小作農などは生きていけなかった。冷害という自然と、地主制という社会経済との両面からの災害は娘の身売りを急増させた。山形県のある村では役場が「娘の身売り 相談に応じます」と書いた紙を役場の掲示板に貼ったほどだった。

 この大凶作の翌々年の一九三六(昭和十一)年の二月、私は生まれた。生まれて二十日ほど過ぎて二・二六事件が起きた。それからずるずると戦争が拡大し、一九四一(昭和十六)年には太平洋戦争に突入した。
 むらの男のほとんどは戦争に引っ張って行かれた。残された女性は大変だった。男手がないとやっていけない厳しい労働がすべて女性の肩にかかったからである。戦争が終わって男が戻ってきたものはまだいいとして、戻ってこない場合はさらに悲惨だった。
 日清、日露、そして太平洋戦争を体験した岩手のある農家のおばあさんが次のように語ったという。「ななたび(七度)のけがち(飢饉)に遭おうともひとたび(一度)の戦争には遭うな」と。女性にとって飢饉よりも戦争が怖かったのだ。
 このような平和を求める庶民の声が世界中で高まるなかで戦後日本は戦争を放棄した。そして世界も平和の方向をめざすだろうと思われた。
 ところが一九五四年三月一日、太平洋のビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で日本のマグロ漁船「第五福竜丸」乗組員が被爆した。また世界は、そして農民は戦争の被害を受けることになるのだろうか。
 一九五四年はこんなことも感じさせた年でもあった。

 こうした農民、農業、農村の状況から何とか脱却したい。他の職業にはない農業の喜び、楽しみ、感動をかき消してしまうような貧困、苦役的過重労働、古い慣習の残る家と村、都市住民の農民差別、戦争の被害を何とかなくしたい。これが、私の農学部進学の原因であり、今に至るまでの農業経済研究の原点だった。

 しかし、アメリカの農産物輸入が国民の食生活、農業、農村にいかに大きな影響を及ぼし、それにどう対応するかが農業問題の中心となり、また研究の一つの柱になるなどとは、当時は想像もしなかった。そしてこのアメリカの小麦戦略、食糧戦略の展開は同じく一九五四年から本格的に始まった。この年、アメリカはPL四八〇法(通称・余剰農産物処理法)を施行したのである。


            ☆農業・農村の変化とその記録の意味

 さまざまなことのあった一九五四年からもう半世紀も経過した。その間、日本は、農業は大きく変わった。戦前・戦中期も含めて考えれば、つまり私の生まれた一九三六年からの七十五年、敗戦からの六十五年を考えれば、まさに夢のような、信じられないような変化を遂げた。
 まず、農業・農村にはかつてのような貧困、苦役的労働がなくなった。家とむらの雰囲気も大きく変わった。最底辺の労働力の供給源でもなくなってきた。ものごころついて以来の私の願いが、研究者となってからの課題が達成されたのである。
 しかし、それは農業、農村の発展を意味しなかった。それどころか衰退してしまった。若者はむらからいなくなり、過疎化が進み、あれほど大事にしてきた土地の耕作放棄すら見られるようになり、さらには農業生産に資本が直接進出するようにすらなった。これまたかつてからすると考えられない変化だ。
 私の望みはかなえられたが、逆に私の望みは否定されるという結果になったのである。

 このような大きな変化の過程の一部を、私は農家の子どもとして体験した。
 また、大学を出てからは農業経営・経済の研究者という立場からその変化を見てきた。これまで何回の農村調査に参加したのだろうか。また、何ヵ所で調査しただろうか。さらに、講演を依頼されて各地に行ったが、それで何回、何ヵ所歩いただろうか。その過程で、どれだけの農家の方々、農協や役場の方々の話をおうかがいしたのだろうか。数えてみたことはないし、おそらく数えることはできないだろう。それにしてもよく農村を歩き、話を聞いたものだと我ながら感心する。
 しかし気になるのは、その過程で得たこと、考えたことをすべてきちんとまとめ、何らかの形で報告・公刊してこなかったということである。
 調査したにもかかわらずまったくその結果を報告していないもの、調査が中途半端で終わってしまって書けなかったものも数は少ないがある。また報告書は書いたが、そこに盛り込めなかった重要なこともある。求められた課題の本筋から離れるものはたとえ重要であっても捨象せざるを得ないからである。
 さらに、調査のなかで聞いたおもしろい話、古い昔の話、あまり学問的ではないが記録にとどめておいてもいい話、さらには調査中の失敗話等々については、当然のことながら公表していない。調査で感じた個人的な想いなどについても書きたくとも書かないできたことが数え切れないくらいある。
 何となくもったいない気がする。あらためて調査や聞いた話を整理して記録にとどめておけば、とくにこの大きな変化の過程のおりおりに私がどんなことを見聞きしたのか、何を感じたのかを書き残しておけば、もしかしたら誰かの役にたつかもしれない。さらにお話をおうかがいした人もいなくなって、その地域の人々すら記憶になくなってしまったむらや家の行事、慣行、食などもあるかもしれないので、それを記録に残しておくことも考えるべきだろう。

 七〇年代に、このままいけば日本農業は近い将来大資本の系列下におかれた企業経営によって支配されることになろうと書いた。
 しかしこの私の考えはほとんど無視された。当時の大量の農家の存在のもとでは想像できなかったからである。また、世界がグローバリズムの支配する資本主義段階に進むとは、そして日本資本主義が食料自給政策、農業保護政策をここまで放棄するとは、当時考えられなかったこともある。
 ところがいまそれが現実化しつつある。なぜそうなったのかはここでは問わない。どうすればいいのかなどもここでは言わない。
 完全に資本が支配する前に、まだ何千年と続いてきた日本農業・農村の姿が、家族経営の名残りともいえるものが残っているうちに、みんなが見てこんなだったのかとまだ想像がつくうちに、書き残しておきたい。
 もちろん、資本に支配されてほしくはない。そのためにはかつての農業とその変化の過程から学ぶことも必要なのではないか。そんなことからも書き残しておきたい。

 この希望は、一九九九年三月東北大学農学部を定年退官するときに、研究室の仲間がかなえてくれた。そして「東北農業とともに歩んで」という冊子を刊行してくれた。
 しかし、時間が限られていたために十分に推敲する暇がなかった。また書き落としたことがかなりあった。とくに戦前、戦中、敗戦直後のことについてはくわしく触れなかった。さらに退官だと言うことでおこがましくも学者としての教訓めいたことも書いたりしてしまった。
 そこで改めて、東北の農業・農村の変化の過程、とりわけ私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、肌で感じたことのうち、社会的に共有していい、あるいはすべきだとと考えることをここに記録しておくことにしたい。
 もちろん、これは私的な体験記にすぎない。単なる個人の記憶を綴るのに、東北農業とか七十五年とか名前をつけるのはおこがましいかもしれない。しかも市街地と田畑の接する都市近郊にあった山形の生家での幼いころの体験、東北大学農学部での四十五年、東京農大オホーツクキャンパスでの七年の学究生活での体験だけである。当然のことながら農業・農村・農民の変化の過程の一部でしかない。
 しかし、東北の農家に生まれ、東北農業を中心に研究し、東北農業の発展を願ってきたものとしてやはり東北農業という言葉を使いたい。また、限界はあっても、体験の一部を記録として残し、伝えていくことはこれからの農業の発展、農業経営研究の発展に何か役に立つのではなかろうか。

 そうはいっても、もしかするといまはやりの自分史、自分の苦労や家の自慢話で終わってしまうかもしれない。個人的な感傷の押しつけになる恐れもある。学問的でない話、不正確な話もあり、特別な価値もないかもしれない。
 それでもいいではないか。私どもは、戦前、戦中、敗戦直後の、とくにその時代を生きてきた子どもとして、証言者となり得る最後の世代でもあるからだ。こうしたことがあったのだということを語り伝えていくのが私どもの世代の義務ではないだろうか。また、農家生まれのものとして、農学の研究教育に携わったものとして、農業のこと、先祖代々の農に対する思いなどを伝えていくのは私の責務でもあろう。
 ともかくあまりにも大きく変わった。もちろん変わってよかったと思っている。それどころかもっと変わって欲しいとも思う。しかし、その逆にこんな風に変わってよかったのか、変わり過ぎではないかと思うこともある。失われたものも多々ある。この変わり過ぎてしまったもののなかに、失われたもののなかに大事なものがあったのではないか。これも伝えておく必要があるのではないか。
 もちろん、戦前戦後のこと、農業農村の変化などなど、いろんな人がいろんなところで書いている。私が書いたからと言ってとくにそれに付け加える新しいことなどないかもしれない。しかし、私しか体験していないこと、私だけが感じたこと、まだ記録されていないことがあるのではなかろうか。そのなかに何か役に立つこと、社会の共通の財産として残しておいた方がいいこともあるかもしれない。それをいま記録しておかなかったらこの世から消滅してしまう。もちろんそれほどだいそれた内容のものではないかもしれない。しかもきわめて主観的な一面的な時代の証言でしかない。しかし、こうした証言が多く集まったとき、客観的なより多面的総合的な歴史が書き残されることになるのではなかろうか。

 苦しくて書きたくないこと、悲しくて書けないことも当然ある。私などはまだいい。満州から引き揚げてきた人のなかには絶対にそのことを語らない人がいる。引き揚げ者だったことすら言わず、何かのおりに聞いてびっくりすることもある。でも多くは語らない。言えないようなことが、二度と思い出したくないようなことがあるからだ。沖縄戦を経験した人などもそうだ。
 また、言い表したいと思っても言い表せないこともある。表現能力からして書こうと思っても書けないことがある。
 それでも何とかして語り継いでいかなければならない。われわれの時代の苦悩をふたたび次の世代に味あわせたりすることのないようにするためにも、苦しくとも悲しくとも伝えていかなければならないのだ。

 話の多くは古いことである。だから私と年代の近い人しか興味をもたず、共感もしないかもしれない。若者にとっては遠い遠い昔の話だからである。
 そもそも自分が生まれる前に起きたことは自分にとっては歴史の範疇に入ってしまうものである。生まれてからのことは自分にとって「今」であり、生まれた直後のことであってもそれはちょっと遠くなった「今」である。自分が直接体験していなくともそれは自分が経験し得たことであり、たまたまその現場に居合わせなかっただけのことだからだ。ところが生まれる前のことは、たとえ生まれる直前のことであっても、絶対に自分が直接体験することのできない時代の遠い遠い昔のことであり、それは歴史でしかない。たとえば私にとって敗戦や農地改革などは最近のことであるが、いまの学生にとっては、私にとって明治維新や地租改正が遠い昔だったのと同じように、遠い遠い昔のことなのである。だから、若者はもちろん、現役の農業経済研究者にとっても、私の経験などは歴史物語でしかないだろう。そしていまさら何でそんな古い話を聞かなければならないのかと思うかもしれない。
 しかし、歴史のなかからこれからの国のあり方や生き方等々を学ぶこともある。かつてドイツの大統領が「過去に目を閉じる者は、現在に対しても盲目となる」と言ったが、過去を知らずして未来は語れないのである。最近の靖国問題、憲法問題、格差拡大問題を考えれば、ますますそうしたことが必要になっているのではなかろうか。

 もう私も年齢である。七十歳を超してしまった。記憶も少しずつ薄れてきている。東京農大を定年になって(二〇〇六年)時間ができた今、まだ私の頭がとりあえず鮮明なうちに、記録しておかなければできなくなるかもしれない。記録だけでもしておけば、誰かがいつか偶然これを読んでこんなこともあったのかと何かの参考にしてくれるかもしれない。何かを感じ取ってくれるかもしれない。
 こんなことを考えなからこの数年間思いつくままメモし、書きためておいたものに、以前公表したものも若干加えてまとめたものが本稿である。

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(註)
1.本稿に登場する知人や友人の氏名についてはすべてイニシャルのみで表示させていただく。私にかかわる内々のこととしてではなく普遍的なものとして読んでもらいたいこと、プライバシーにかかわる問題もあるかもしれないことからである。それにしてもいろいろと失礼なこと、まだ時効になっていないことを書いてしまったかもしれない。ご迷惑をおかけするようなことはないようにはしたつもりだが、もしもそんなことがあったら何とかお許しを願いたい。

2.平成の大合併なるもので市町村名が大きく変わった。しかし私にはまだぴんとこない。頭に浮かぶのはいまだに旧市町村名であり、その地名でないと地域のイメージ、行ったときの印象がうまく出てこない。それで本稿ではまず旧市町村名を用い、その後の括弧のなかに現市町村名を書いておくことにする。ただし、「旧山形市」だけは、一九五四年のいわゆる昭和の大合併以前の山形市のことを言っている。

3.本稿は二〇〇七年六月に脱稿したものなので、若干時代遅れになっている部分もあるかもしれないが、訂正せず、必要に応じ注記することにする。なお、この掲載終了後、この続きを第二部として掲載する予定でいる。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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