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ひとときのゆとり(2)

  
          ☆湯治・里帰り

 暗いことばかりこれまで書いてきたが、むらの暮らしすべてが暗いわけではなかった。農閑期や季節の節目での祭り、行事など、きつい労働のなかでの楽しみがあり、貧しいなら貧しいなりで、子どもは子どもなりで楽しんだ。
 たとえば、過重労働を癒す湯治があった。農閑期になると、お年寄りの夫婦が最低限必要な米や炊事用具等を背負って温泉に行き、野菜や豆腐、魚などを温泉街の店や近辺の農家の開く朝市などで買って自炊しながら、一週間とか半月間とかゆっくり泊まって湯治するのである。当時の交通事情からして、簡単に家と温泉の間を行ったり来たりできないので、一度来たらゆっくり滞在した方がいいということもあったろうが、のんびりと湯に浸かり、痛んだ足腰、神経痛などを癒す。孫をつれてくる人もいる。
 一九六〇(昭和三十五)年頃まで、こうした自炊湯治がかなり残っていた。調査のさい立ち寄る山形県肘折、宮城県鳴子、岩手県夏油などの温泉で、旅館の縁側や自炊場で、うちわでパタパタ扇いで七輪に炭火を熾しながら炊事をしているお年寄り、そのまわりで遊んでいる孫と思われる子どもたちを見ると何ともほほえましく、なつかしい思いに駆られたものだった。
 といっても、私は祖父母に連れられて湯治に行ったことはなかった。少なくとも五十歳近くまでの自分の記憶のなかにはなかった。にもかかわらず、その風景がともかくなつかしい。なぜそんなになつかしく思うのかわからなかった。

 いつだったかこんな夢をみた。私は黒光りする板張りの廊下をうろうろ歩いている。窓があまりなく薄暗い。古びた木造の急な階段を下りると、そこは大きな台所らしく、湯気か煙かがただよっていて何人かの人が働いている。また階段を上がる。廊下に面した部屋がいくつかあり、薄暗い電球がついていてその障子が開けられている。そこにいる誰だかわからない人が私に声をかける。どうも私は子どもらしい。そしてどこか部屋をさがしている。その大きな家のなかで迷子になってしまったらしい。ともかく不安だが、何とか探せるはずだと歩いている。
 その不安感で目を覚ます。それでも何ともいえずなつかしい。目に涙がにじんでいる。
 夢に出てくるその家はどうも旅館のようである。夢に見るかぎりどこかでその旅館に近いものを見ているはずだ。またそうした経験をしているはずだ。しかし思い出せない。もしかしたらさまざまな経験や映画などで見たものがごっちゃになってそれが夢になったのかもしれない。なぜ五十歳近くにもなってこんな幼い子どものころの自分を夢に見たのだろうか。そんな疑問が湧いた。
 普通は夢など忘れてしまう。ところが、その夢だけは何度もふっと思い出す。そしてあの夢の場所はどこだろうと思いだそうとする。
 それから七~八年も過ぎたろうか、九〇年に山形県尾花沢市の農家調査で銀山温泉に行き、N屋という旅館に初めて泊まった。なぜか知らないが、とってもなつかしかった。それから少したったある時はっと気がついた。あの夢の場所は銀山温泉のその旅館ではなかったのか。木造の建物、古びた廊下、急な階段、いくつかの和室、夢に出てきたのとほぼ一致している。今回が初めてと思っていたが、そうではなかったのでなかろうか。小さいころ祖父母が私を湯治に連れてきていたのだ。本当に幼かったから、その後何十年といろいろあったし、訪れてもいなかったから、忘れてしまっていただけではなかったのか。また、夢に出たのがその旅館だとすぐにわからなかったのは、昔とは違ったところもあろうし、子どもの頃はものすごく広く大きく見えたからではなかろうか。

 そう考えたら謎がもう一つ解けた。
 一九六五(昭和四十)年ころ秋田県横手市を初めて訪れた。駅に着いてまず目についたのが三階建ての木造の建物だった。かつては旅館で当時は下宿屋をしていたようである。何ともなつかしい眺めである。
 その後調査や講演等で何回も横手を訪れるようになったが、ときどき横手駅に夜に着く。すると、その三層楼の廊下の障子に人の影が電灯で浮かび上がる。立ったり、座ったり、歩いたりする姿が、影絵のように映る。
 それを見るたびに、やはり胸がつまるほどの懐かしさを感じた。子どものころ来たわけでもないのにである。ともかくこの横手の駅前の眺めが好きだった。しかし、なぜそんなに好きなのかが、やはりわからなかった。
 それがわかった。その眺めは銀山温泉のN屋旅館の三階から見た眺めと同じだったのだ。真向かいの三層楼の旅館の障子に映る人の影を見たことを横手駅前の建物の障子に浮かび上がったシルエットが思い出させ、それが胸を打ったのだろう。
 いつだったか横手に行ったら、これが横手駅なのかと目を疑った。駅前は大きく変わり、その古い建物は壊されていた。横手に行く楽しみの一つが減ってしまった。

 祖母がかなり高齢になったころ、私は銀山温泉に行ったことがないと言ったら、そうだったかなあと首をかしげていた。そのまたかなり後になって、銀山に行ってきたという話を父にしたら、N屋旅館とは菩提寺を通じて縁があり、祖父母は昔何回か泊まりに行っているという。そうすると、やはり私は連れて行ってもらっていたのだ。父もそのはずだがという。孫の私をかわいがり、しかも私は身体が弱く、とくに皮膚が弱かったから、銀山温泉に連れて行かないわけはなかったのである。
 にもかかわらず、幼いときのその記憶は薄れ、行ったことがないのだと思っていたのかもしれない。
 それでも、何十年と生きているうちに何重となく積み重ねられた記憶のなかに閉じこめられた記憶、ふたたび表に出てくることのないと思われるような幼い頃の記憶、それが夢によみがえったのかもしれない。
 記憶の回線、回路は、年をとるにしたがって切れてくるのだが、突然つながることもあるのだろうか。何かが潜んでいた意識に働きかける、そして幼い頃の記憶が突然よみがえる。胸が甘くキュンとしまる。こんなことがあるのだ。
 もちろん、当時のことだから写真はないし、記録もないのではっきりしたことはいえない。しかし今の私はやっぱり祖父母と湯治に行ったことがあるんだと確信している。

 湯治は、長年の厳しい労働で身体がぼろぼろになりつつある老人の休養、療養であった。
 家内も幼いころ祖父母に連れられて宮城県の遠刈田温泉に湯治に行ったことがあるという。その旅館の記憶が鮮明に残っているというので先日確かめに行った。そしたら記憶にある場所にほぼそのままの形で旅館が残っていた。昔の思い出を確かめるために、来年の夏にでも孫を連れて泊まりに行ってみようと話をしている。

 しかし、若夫婦にはこうした楽しみなどなかった。子どもを連れてゆっくり湯治をするなどという暇も金もなかったからである。それでも私には一度だけ、しかも最初にして最後となった両親といっしょの湯治があった。
 それは小学三年(一九四四年)の夏のことだった。祖父母が家に残り、両親と子どもたちだけで蔵王高湯温泉に湯治に行った。戦争で食料不足が深刻化してきた時代のことだから、米から何からいろんなものを持っていかないと旅館は食事を出してくれないし、それどころか泊めてもくれない。しかも木炭バスさえ走り始めた時代だから山道を登るバスなどはほとんどない。弟妹たちも小さい。それでリヤカーに必要な荷物を積み、幼い弟たちを乗せ、父がそれを引っ張り、母と私、すぐ下の妹は歩き、暑い夏の日差しのなか半日かけて山道を登り、温泉に着いた。温泉は強烈な硫黄の匂いがした。
 うれしかった。生まれて初めての場所で、両親や弟妹といっしょに泊まって、ゆっくり温泉に入れるのである。一晩に何回お風呂に入れるか競争したり、温泉街をあちこち探検したりしている間に、母はゆっくりと寝ていた。
三泊くらいしたのではないかと思う。帰り道、山道を下り終わってようやく舗装された平らな道、国道十三号線に 入った頃、父と母がけんかを始めた。父は怒って近くの上山温泉に行ってくるとリヤカーを放り出し、逆方向に向かって歩き始めた。母は黙ってリヤカーをひき始めた。悲しかった。リヤカーに乗っていた幼い弟妹たちはびっくりして泣き始めた。それで父は戻ってきて、またリヤカーを引き始めた。
 何でけんかになったのか、まったく覚えていない。しかし記憶は強烈だ。私にとっては初めて見る夫婦げんかだったからである。
 両親といっしょの湯治も初めてだった。それも最後の湯治旅行となつた。それから二年後母は死んでしまったからである。
 だから、蔵王高湯は忘れられない。そして温泉は私にとっては硫黄の匂いとなった。

 実家に帰る。これは嫁の最大の楽しみだった。これしか楽しみのない嫁もあった。
 私の母もそうだったろう。隣近所の嫁さん方から見ると実家に帰る回数は多かったと思うが、お盆近くはもちろん、季節の折り目折り目に帰り、ゆっくり休んだ。父といっしょに農作業の手伝いに実家に行くときも年に何回かあったが、そのときでもやはり精神的には楽だったろう。
 子どもの私にとっても、母の実家に連れて行ってもらうのは楽しみだった。めったにない泊まりがけの外出だからだ。しかも生家にはないものがたくさんある。私の生家は、農業をやっているとはいえともかく町のなかにあるが、母の実家は純農村、しかも養蚕地帯なのでまるっきり違う。
 まず庭に大きな池があり、鯉が泳いでいる。その鯉に蚕の蛹を餌としてやると、大きな口を開けて食べに来るのがおもしろい。きれいな小川が家の前を流れている。ただし、夜はその流れの音がうるさく耳についてなかなか眠れないのが難点である。夏は蝉がうるさいほど鳴いていて簡単に捕まえることができる。山形では子どもたちみんなが捕るので数が少ない上に木の上の方にしかいないが、ここでは虫取り網なしで素手で捕まえられる。蚕にさわることもできる。十分も歩けば大きな川があり、川原があり、そこでも遊べる。さらにあまり年の離れていない叔父もいていっしょに遊んでくれる。
 問題はそこに行くまでだ。まず山形駅まで歩くのが子どもの足では大変だ。列車を降りてから、ここからがまた遠い。昔は歩くのが普通だったとはいえ、飽きてしまう。全部で二時間もかかる。バスも数は少ないが何本かある。これだと歩く距離は短いが、何しろ小さいからすぐに満員、しかもおんぼろバス、さらに道路の大半が未舗装と来るので、必ず酔ってしまう。それでもやはり母の実家には行きたい。
 しかし、「何が面白くて行くのか」と祖父は不満顔である。かわいい孫を一日でも手放したくなかったのではなかろうか。孫を持ってから何となく祖父の気持ちがわかるような気がする。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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