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冬と野菜



               その昔の食べ物・追記(3)

                  ☆冬と野菜

 冷や飯を食うとか食わされているとかいう言葉からわかるように「冷や飯」はあまりいい意味で使われていない。これはその昔次三男や居候が残りご飯=冷たくなったご飯=冷や飯を食べさせられた、つまり冷遇されたということから来ているようである。
 しかし、私は「冷たいご飯」が好きである。ご飯の甘さがはっきりと味わえるからだ。もちろん暖かいご飯、とくに炊きたてのご飯はうまい。しかし、うまく表現できないが、そのうま味がちょっと違うのである。これも冷たいお握りが生き延びている一因となっているのではなかろうか(もちろん熱いお握りもおいしいが)。
 ただし、すべての冷たいご飯がおいしいわけではない。冷たくなるとまずくなる米もある。いわゆる食味の落ちる米は一般的に冷たくなるとうまさが落ち、品種によって異なるのだが、やはりこうした冷や飯はあまり食べたくない。
 それからもう一つ、真冬に寒いところで食べる冷たいご飯、これもご免である。子どもの頃は学校の教室は寒く、弁当のご飯は氷のように冷たくなり、そんなのを食べたら身体の芯まで冷え、がたがた震えながら食べるしかなかった。もちろんそうならないようにストーブのまわりに弁当をおいて温めたのだが(註1)、十分に弁当が温まらない場合やストーブの熱が届かない場所に自分の机がある場合にはともかくがまんするより他なかった。
 やはり冬は、温かいご飯を熱い味噌汁で食べたかった。

 (猛暑のさなかに寒い冬の話をしてもぴんと来ないかもしれないが)、子どもの頃の冬の朝、目を覚まして顔をまともに布団の外に出すと顔が冷たい。でも、足はこたつの中、身体はこたつに接して敷いてある布団の中だから暖かい。このぬくもりから起きるのが憂鬱である。何しろ布団の外は寒い。いろりと火鉢の火があるといっても、隙間だらけの広い家に暖房はその二つだけ、外よりましという程度だ。だから祖母は、こたつのやぐらとその上にかけてある布団の間にラクダのシャツともも引きを入れていてくれる。下着を着ないで寝巻だけで寝るのが普通だったので、着るときは裸、まともに外の寒さを感じることになるが、なるべく感じないように、急いで温まっている下着を着け、上着を着て足袋を履く。そして布団を畳み、囲炉裏のところに行ってご飯ができるのを待つ。
 小学校の三年ころになると、少しズルを覚える。布団にもぐり、こたつの上から下着をとり、布団の中にもぐったままでシャツを着てもも引きを穿く。こうすると外の冷たい空気に当たらないので寒さを直接感じない。それから布団の外に出て上着を着る。もう下着は着ているので、寒さはやわらげられる。
 こんなことで寒さしのぎをしたものだったが、問題は洗面だ。屋外にある井戸小屋のところで顔を洗わなければならない。
 外に出ると当然のことながら寒い。家の中どころではない。踏みしめられて固くなっている雪の上を足駄で歩き、ガチガチに凍っている井戸の流しのところまで行く。前にかけてある手ぬぐいもカチカチに凍っている。それを取って洗面器に入れ、そこに井戸のポンプの取っ手を押し下げて水を汲み上げて注ぐ。水から湯気が出る。手ぬぐいの氷は解ける。それを絞って顔に当てて拭く。冷たい、しかし気温ほどではない。拭くと、顔から白く湯気が出る。そのころは身体が寒さに慣れてきているが、それにしても寒い。手ぬぐいをまたかけて、急いで家の中に入る。
 あんまり手が冷たいときは囲炉裏のところに行き、パチパチ燃えている火で手をあぶって暖める。味噌汁を煮ている鉄の大きな鍋がぐつぐつ煮立ち、ふたがパカパカ動く。祖母がふたを開け、さいの目に刻んだ豆腐を入れる。いい匂いがまわりにただよう。もうすぐご飯である。
 ゆっくりしている暇もなく、大きなちゃぶ台のわきに母が運んでいてくれた羽釜(はがま)のところに行き、そこにかぶさっている大きく分厚く重いふたをとり、ふかふかと湯気の出ているご飯を「おぼくさま」にもりつけて仏壇に、また小皿に盛り付けて神棚にあげる。これは子どもの仕事だ。やがてちゃぶ台の真ん中に味噌汁の入った大きな鉄なべがおかれる。茶碗が並べられ、漬物などおかずが並べられる。そのころには父も朝仕事を終えて家の中に入っており、祖父は仏壇のところに行ってお経をあげている。それが終わるころに家族全員集まり、いよいよ朝ご飯となる。

 さて、このご飯のおかずだが、魚などはめったに出ない。生家のある山形は内陸、しかも輸送・保存技術の進んでいない時代、戦中戦後の混乱期などはなおのことだった。肉などはもちろんない。
 となると野菜が中心となるが、なにしろ雪国、冬は生鮮野菜がない。八百屋に行っても売っていない(そもそも私の生家を始め農家は八百屋で野菜を買うなどということはしなかったが)。魚と同様、生鮮野菜の輸送・保存技術は進んでおらず、今でいう地産地消の時代だったからだ。
 もちろんまったくないわけではない。たとえばホウレンソウ、雪の中でも生きている。それで、食べようと言うことになれば、家の前の畑に行ってシャベルで雪を掘る。何十㌢か掘っているうちに雪の中から緑色が見えてくる。シャベルを使うのをやめ、ていねいに雪を取り除く。ホウレンソウの葉が寒そうに小さく縮んでいるが、きれいな緑色、下の根の方は真っ赤、それをていねいに摘む。このホウレンソウのお浸しは本当に甘い。今思い出してもよだれが出そうだ。でも、掘り出すのも大変、採れる量も、そもそもつくっている面積もわずか、これを毎日食べるわけには行かない。
 そこで掘りだすのがダイコンだ。雪が降る前に、掘り起こしてきたダイコンを家の前の畑に頭を土の上に出してびっしりと並べて埋めておく。やがてそれは雪に埋もれる。だから成長は止まり、さらに腐らない。つまり土中+雪中保存だ。ネギ、ニンジンも同じようにして保存し、必要なときに雪をかき分け、土を取り除き、また掘り出して食べる。
 それから穴倉のなかに保存してあるジャガイモ、ニンジン、ゴボウ、ハクサイなどを適宜取り出し、味噌汁や煮付けにして食べる。生家の場合は小屋の中に縦横深さそれぞれ1.5㍍くらい(ではなかったかと思う)の穴倉があり、上に大きな板を何枚か渡してふたをして外気が入らないようにしてある。ここに入れておくと、直接外気の寒さに当たらないので凍ったりせず、逆にそれほど内部が熱くもならないので腐りもせず、長期間の保存が可能である。そして必要な時にその板をはがして中から取り出すのである。
 その逆に外に出して保存するものもある。タマネギ、ニンニクなどがそうで、小屋の外にかけてある長い棒にその茎で結んで吊るしておき、必要な時に外して食べる。
 生鮮野菜と言えばこんなもので、後は乾物もしくは塩蔵物として保存された野菜になる。
 乾物ではまず干しダイコンがある。これはダイコンを乾燥させて水分を抜き、保存性を高めたものだが、味は生のダイコンとはまるっきり違う。栄養分も違う。だから非常に優れた食品なのだが、私はどうしてかあまり好きではない。それからイモガラ、スベリヒユ(註2)がある。
 次に漬物だが、たくあん、青菜(せいさい)(せいさい)漬、おみ漬、白菜漬、キウリ・ナスなどの味噌漬・塩漬等々、たくさんの桶に漬けられて(註3)、味噌桶や梅干しの桶などといっしょに漬物小屋に並ぶ。生鮮野菜を始めとしておかずの少ないなかではこの保存のきく漬物がおかずとして重要な役割を果たすことになる。

 ちょっと話は飛ぶが、私の生家の漬物小屋は4畳半くらいの床板張りで(土間ではなかった)、井戸小屋の脇に独立して建ててあった。私が高校2年のとき、父がこのなかの漬物を別の場所に移して私の勉強部屋にしてくれた。何しろ11人家族、うるさくて勉強などできないと考えてくれたからだろう。なお、漬物や味噌の臭いはそんなにしなかった。隙間だらけだったからだろう。しかしそれでは暑さ寒さが大変だ。そこで板張りの壁の隙間は紙で目張りをし、床には薄べりを敷いてくれた。もちろんそれで暑さ寒さは防げるわけではない。だから、本格的な受験勉強を始めた高3の秋から冬は寒くて大変だった。アンカを足元におき、そこに膝から毛布をかけて腰から下を温め、上は上着をたっぷり着込み、手が冷たくなったら毛布に手を突っ込んで温めたものだった。夜11時半に勉強を終わらせ、家に戻って寝床に入る、それが半年続いた。

 話を戻そう、山国ではワラビやゼンマイなど山菜の塩蔵・乾物がある。しかし、山のない生家の地域ではそれはなく、お正月料理用としてゼンマイを買っておくだけだった。
 後は納豆、豆もやし、豆腐、凍み豆腐、油揚げがあるが、私の生家ではつくっておらず、八百屋、豆腐屋から買って食べていた(納豆、豆もやしは一時つくったことがあったが、納豆はまずかった)。

 ともかく冬の食べ物は少なく、とくに生鮮野菜は少なかった。春が近づき、雪が解けるころ、畑に埋めておいたダイコンやネギの上の方から葉っぱが青く伸び始めてくる。もう残りは少なくなっているが、早く食べないと悪くなってしまう。
 穴倉に入れてある野菜もそうだ。暖かくなるとイモの芽が出て来たり、腐ったりしてくる。なくなってもきている。
 だからやがて芽生えてくる野草や畑の野菜が待ち遠しかった。

 春から秋にかけて、野菜は豊富だ。本稿第六部の最初にも述べたが、生家の例をとっても50種類以上の野菜を食卓に載せることができる(註4)。しかし、そのなかからより取り見取りで食べるというわけにはいかない。収穫する時期が違うからだ。たとえばナスやキュウリは夏しか食べられないし、ハクサイやダイコンは秋しか食べられない。いまのように温室などで季節を問わず生産したり、生鮮野菜が遠隔地から運ばれてくる時代ではないし、ましてや農家は八百屋などから買って食べるなどということはせず、自分の家でつくったものを食べることを基本にしていたからである。だから、どうしても食べる野菜の種類は限られることになる。
 それだけではない。たとえ季節のもので食べられるとしても、その量が少なくて全部売れてしまったとなると食べられない。ましてや数の少ない初物など、値段が高いから全部売ってしまうので食べられない。ますます種類は限られる。もちろん屑物、傷物など売り物にならないものが出れば食べられるが。
 逆に、ある野菜が大豊作となると、とりわけ売れ残ったりすると、それだけを食べることになる。つまり、旬(しゆん)(しゅん)=もっとも収穫量の多い時期には、それだけが食卓に並ぶのである。前にも書いたが、私の家でもキュウリの時期はキュウリだけ、ナスの最盛期はナスだけが野菜のおかずとして食卓にのぼった。もちろんそれでは飽きる。栄養も偏る。だから、そうならないように、お汁の実にしたり、おひたしにしたり、和え物にしたり、焼いたり、揚げたり、味付けを変えたり、他のものといっしょに煮たり、浅漬け、塩漬け、糠漬け、味噌漬け、粕漬け、からし漬けなどの多様な漬け物にしたりする等々、いろいろな調理方法を工夫して食べた (註5)。旬のものだからもっともおいしいはずなのだが、いくら工夫をしても、それが毎日となるとうまさも感じなくなってしまう。
 こうなると季節が変わり、新しい野菜が出てくるのを待つより他はない。もちろんこれはぜいたくな悩み、冬と比べたら天国だったのだが。
 そしてこのたくさんとれる時期に、保存用のとりわけ冬期のための漬物を漬けた。当然その漬物は塩っぱかった。

(註)
1.11年4月18日掲載・本稿第二部「☆宮城・山形の亜炭、秋田の油田」(1段落目)参照
2.11年9月26日掲載・本稿第三部「☆食の地域性―山形内陸人の雑食性―」(2段落目)参照
3.これらの漬物を漬ける晩秋、下記で述べたように、その労働は本当に大変だった。
 11年9月26日掲載・  前記(註2)と同じ   (6段落目)、
 11年9月30日掲載・本稿第三部「☆消えていく伝統料理、家庭料理」(4段落目)
4.13年7月8日掲載・本稿第六部「☆「百姓」・知恵あり暇なし」(1段落目)参照
5.11年10月17日掲載・本稿第三部「☆産直、農薬と生産者のあり方」(1段落目)参照



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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