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甘いもの、家庭果樹


                  その昔の食べ物・追記(6)

                  ☆甘いもの、家庭果樹

 今から20年くらい前ではなかろうか、たまたま見ていたテレビで幼児の虫歯罹患率のもっとも高い県は山形県であると報じていた。私の生まれ育った県、ちょっとショックだったが、その理由が山形県の三世代同居率の多さにあると聞いて、さもありなんと思わずニャッとしてしまった。山形の女性は働き者、結婚し、子どもが生まれても働く、するとどうしても同居する親に子どもの世話を頼むことになる、孫がかわいいお年寄りは甘いものを買って孫を喜ばせたい、その結果が虫歯なのである。

 私も幼いころ虫歯に苦しめられた。弟妹が生まれたために祖父母といっしょに寝る、しかも一番孫だからましてやかわいい、ついつい甘いものを食べさせる、そのためにしょっちゅう夜中に歯が痛くなり、祖父母に近所の歯医者に連れて行ってもらったものだった。
 ところが、永久歯になってから虫歯で歯医者に通ったことがない。虫歯だ、入れ歯だと先輩や後輩が騒ぐのがわからなかった。私の歯磨きが上手だったわけではない。五十歳ころから歯槽膿漏で歯医者に通うようになったことはそれを示している。ということは、そもそも歯が丈夫だったことも示している。そうなると、そういう丈夫な歯の遺伝子を授けてくれた親に感謝しなければならないことになる。しかし、そうなると幼児時代の虫歯の説明が難しくなる。もう一つ原因があるはずだ。いろいろと考えて見たら、一つ思いついた。私の歯の抜け変わる時期と関連しているのではなかろうかと。
 私の乳歯の頃つまり1942年以前は、まだ戦争が激化しておらず、砂糖の輸移入もまだあってまんじゅうやキャラメル等々甘いものを食べることができ、祖父母の孫可愛さでそれを食べさせられ、虫歯になった。しかし、私の乳歯が永久歯に生え変わるちょうどその時期、さらに変わってからの約10年間がちょうど戦中戦後の時期で、お菓子を始め甘いものがほとんどないころだった。これが虫歯を防ぐもう一つの要因となったのではなかろうか。だから私と同じ世代には虫歯が少ないのではないか。もちろん、大人になってからの食生活など生活様式にも左右されるだろうが。こう考えているのだが、統計的科学的にどうなのかはわからない。

 戦中から戦後にかけて砂糖がなかった。塩も足りなくなったけれども、さすが海に囲まれた国、専売制であったこともあり、何とか不自由しないですんだ。塩っぱい漬物や魚は食べることができ、味噌や醤油が不足しても塩で代替することができた。都市部では醤油・味噌のかわりに塩を入れたすいとんを食べたなどという話はよく聞いたものだった。それどころか塩は砂糖の代用にもなった。まんじゅうをもらって喜んで食べたら何とその餡は塩で味付け、そのまずさと失望、こんなことはしょっちゅうだった。
 お菓子屋さんにはお菓子がなくなった。古い雑誌にキャラメルやチョコレートの宣伝広告が載っているのを見て、そういえばこんなものがあったなあ、どんな味がしたんだっけかなあなどと考えるだけだった。
 10人の大家族の料理を担当していた祖母は甘味料を手に入れるためにかなり苦労したようだが、そこは農家の強み、麦芽をお釜で煮て水飴をつくったり、サトウキビをつくって絞ったりしていた(註1)。
 ついでに言うと、前に述べたように祖母は山形の花柳街に野菜等のお得意さんを持っており、料亭の女将との付き合いもあった(註2)。それでときどき砂糖をもらってきた。旧山形城にある陸軍第32連隊の将校たちが飲みに来るときにお土産として持ってくる砂糖をおすそ分けでもらってくるのである。あるところにはあるものだとしみじみ思ったものだったと当時小学2年だった1歳下の妹は今でも話をする。
 もちろんそんな程度の甘味料で糖分が足りるわけではない。やはり不足していた。家内の母は干し柿を砂糖代わりにして料理したとのことだが、まずかった、干し柿だけの方がよかったと家内は今でも言っている。私も同じだった。
 甘いものといえばカボチャ、トウモロコシ、サツマイモなどがあるが、今のように甘くはなく(当時は甘さ・質よりも量だったからましてや甘くなかった)、食べる時期も限られている。
 だから甘さには大人も子どもも餓えていた。甘さばかりではなかった。いつも私たちは腹をすかしていた。とにかく食べたかった。
 そもそも食べることは子どもたちの楽しみである。とくに甘いものが大好きだ。私たちもそうだった。食糧不足、もの不足のときだから、外で遊びまわり、走り回っていたから、いつもお腹がすいており、なおのこと食べることが楽しみだった。おいしいおいしくないはいろいろあっても食べたかった。とくに甘いもの、脂っこいものがあると喜んだものだった(家内などはてんぷらがおかずに出るとうれしくてたまらなかったという)。ともかく食べ物には意地汚かった。
 でも家庭で食べさせてくれるものには種類、量ともに限りがある。
 そこで私たち子どもは自分たちで食べ物を、甘いものを得ようとした。それはできないわけではなかった。私たちの家は旧山形市の町はずれ、農村部にあり、家屋敷や畑には自家用のさまざまな果樹が植えてあったからである。
 前に述べたように、かつてはどこの農家も屋敷の中に自分の家で食べるための何種類かの果樹を植えていた(註3)。農家ばかりでなく、非農家も庭のある家では植えていた。さらに野生の草木の実があった。私の家屋敷にはウメ、スモモ、サクランボ、カキがあり、近所の家屋敷にはナツメ、グミ、キャラ、スグリ、ザクロ、クルミ、クリがあり、近隣の集落にいけばアンズ、モモ、リンゴ、洋ナシ、カリンがあり、道端にはクワゴ(桑の実)、バライチゴ、川端にイチジクがあった。こうした家庭果樹や野生の草木の実を自ら採り、あるいは隣近所からもらい、行ってはごちそうになって、さらには持ち主に黙ってもらって、空腹を、甘さ不足を満たそうとした。

 山形でもっとも早く食べられるようになる果物はウメである。もちろんウメは生食用ではなく梅干し用に各家庭が植えているものであり、青い実がちょっぴり黄色もしくは赤色がつき始めたころに収穫して自分の家で梅干しにする。当然生では食べられない。しかし、なかには熟してまっ黄色になり、柔らかくなった実があり、これはそのまま生で食べられる。梅干しにはできないので、子どもたちはそれをもらって食べる。これはうまい。酸っぱさはまったくなし、ほんのり甘く、口の中に溶ける(うまく表現できないが)。それを子どもたちは知っているから、梅が早く実らないか、熟さないか、楽しみにして待つ。ところが待つっていうのは長い。子どもの時間は長いからなおのことそれを感じる。もう我慢しきれない。試しになどと言いながら、みんなでついついまだ固いウメを採って食べてしまう。飛び上がるほど酸っぱい、苦い。いくらお腹が空いていてもさすがにこれは食べられない。あわてて吐き出す。そのとき親や年上の友だちからいつも言われていることを思い出す、青ウメは絶対に食べるな、お腹をこわすからと。しかしもう遅い。あわてて井戸のところに行き、口をゆすぐ。
 ウメの収穫が終わり、あれほどたくさんあった実はなくなる。しかし、少し時間が経つと採り残したウメの実がいくつか緑の葉っぱのなかに黄色く顔を見せる。それを見つけるとすぐ小屋から脚立か小さいはしごを持ち出してきて、採って食べる。しかしなかには熟しすぎて触っただけで潰れてしまい、もう食べられないものもある。がっかりである。
 この熟した梅の実、子どものとき食べただけだから、もう何年食べていないだろうか。いつか食べてみたいものだ。
 ところで、今の若い人たちは梅の実を食べたことがあるだろうか。あの味を、それより何より生でも食べられることを、知っている子どもたちはほとんどいないのではなかろうか。梅干し用の固い実しか店では売っていないし、昔のように屋敷の中にウメを植えて梅干しを漬ける家も少なくなっているからだ。

 生家にはウメと並んでスモモの木があった(註4)。それほど大きな木ではなかったが、実は大きかった。バタンキョウとも言っていたが、「巴旦杏」と書くらしい。青い実で、上がちょっぴり黄色くなり始めたころに採って食べる。これは甘く、みずみずしく、しかも大きくて食べがいもあり、大好きだった。しかし、数がそんなにならない。それが欠陥だった。
 これに対して、隣の家のスモモの木は大きく、紫色の小さい実がたくさんなった。単に甘いだけ、バタンキョウと比べるとちょっともの足りないが、これはこれで好きだった。隣りの小母さんが毎年持ってきてくれるので、それが楽しみだった。毎日隣のスモモを見ながら、早く収穫して持ってきてくれないかと首を長くして待っていたものだった。

 ぷよぷよと柔らかな赤紫色のちょっぴり渋くて甘い小さいグミの実(うまく説明できない、他の果実についてもそうだが)、グミよりも固くて一回り大きい卵型で、熟すと赤黒くなってさっぱりした甘さのナツメの実、大きな果実がぱっかり割れてピンク色の粒々がすっぱそうに顔をのぞかせているザクロの実、それらの実をびっしりとつけた木の枝が、まったく知らないよその家の生け垣や塀の上から道路にはみ出しているのを見ると、ついつい手を伸ばして採りたくなったものだった。と言っても、なにしろ子ども、背が低くて実際には採れなかったが。
 いうまでもなく、いくら仲がよくとも、子どもたりといえども、隣近所の家の木の実を勝手に採るわけにはいかない。くれるのを待つだけだった。
 買って食べればいいのだが、家屋敷に植えてあるような果物は近所の八百屋では売っていなかった(註5)。
 だから、私の家になかったそれらの果実は誰かからもらったときにしか食べられなかった。母の実家の裏庭に植えてあったので、行ったときだけ自由に採って食べたが、収穫時期と外れると食べられず、そのときは本当にがっかりだった。

 ただし、隣近所のキャラ、スグリの実については自由に採って食べてもよかった。子どもの遊び用と言ってもいいほど小さい実だったからだろう。実るころになるとみんなで遊びながら採って食べたものだった。濃緑の針のように尖った葉の密生した枝の中にぽつぽつと実っているパチンコ玉くらいの赤い柔らかいキャラの実を採って口の中に入れて、実の頂点からから顔をのぞかせていた黒い種を吐きだして、その甘さを味わった。また、そのキャラの実よりも一回り小さなスグリの実、スイカのように上から下に白もしくは黒のすじ模様が入った実が青から赤色に変わるのを待って食べるが、酸っぱいのが多かった。
 なお、桑の実については、道端のはもちろん誰かの畑のものであろうとも、採って食べてよかった。学校からの帰り、どこか遠くに遊びに行ったとき、赤から紫に熟したクワゴを見つけて桑畑に入って採って食べても、農家から怒られることはなかった。
 当然のことながら、道端や草薮に生えているバライチゴも誰が採ってもかまわない。見つけるとうれしかった。道路の土ぼこりが赤い実に白くついていても平気で、喜んでその甘さを味わいながら食べたものだった。
 みんな実は小さい、だからもちろん腹の足しにはならない。しかし甘さに植えていた私たち子どもにとっては宝物だった。
 こんな小果実、もう何十年も食べていなかった。ところが、七十歳を過ぎてから、北海道の網走で、そのいくつかの実をたっぷり味わうことになった。

 網走に転勤した年の十月初め、借家の庭の針葉樹に小さな赤い実がたくさんついた。よく見たらキャラの実ではないか。早速採って食べて見た。やはり昔の味と同じだ。たまたま網走に来ていた幼い孫たちに教えたら、喜んで採って食べていた。
 よくよく見て見たら、このキャラの木が、野生と思われるもの、庭木として植栽したと思われるもの、市内のあちこちにたくさん見られる。ただちょっと不思議だったのが、木がすらっと高いことだった。私の知っているキャラは背が低く横に大きく広がっていた。葉や実は同じだが種類が違うのではなかろうか。そう思って聞いてみたら、北海道ではオンコと呼ぶのだという。そしてそれは東北・北海道の呼び名で、学名はイチイ、別名アララギなのだそうだ。それで調べて見たら、キャラはそのイチイの変種なのだそうである。
 ところで、このキャラは香木のキャラ(伽羅)のことだろうと私は若いころ思っていた。しかし全くの別種で、私の言うキャラは正式には「キャラボク」と言い、この材が香木の伽羅に似ているのでそう名付けたのだそうである。
 だから、私が網走で食べたのはイチイ=オンコの実、小さいころに食べたのはキャラボクの実で本来からいえば違うものということになるが、実の形状や味はまったく同じ、やはりしばらくぶりで網走でキャラの実を食べたと言っていいだろう。
 もう一つ、バライチゴ、これも網走でしばらくぶりで食べた。夏、小清水の原生花園に孫といっしょに行ったときに道端にあった。しばらくぶりで食べたが、何しろ網走国定公園のなか、探して食べるわけにはいかなかった。翌々年だったろうか、斜里町博物館に行ったら、その裏山にびっしりとバライチゴが生えており、食べごろの赤い実が見事なほどたくさんなっていた。私の子どものころ、こんなのを見たら飛び上がって喜んだことだろう。幼い孫もおいしそうに食べていた。
 さらにもう一つ、グミの実も食べた。網走の音根内にある農大の寒冷地農場に孫を連れて行ったとき、職員の方が建物の裏に自生していたグミの枝を折ってもってきてくれたのである。細い緑色の葉の間にたくさんついている赤い実、生け花の材料にもなりそうなその枝を大事に持って帰って、なつかしくごちそうになった。

 こうした家庭果樹や野生の草木の実、今の若い人たちは食べたことがあるのだろうか。都市部ではもうほとんど家庭果樹を見かけなくなった。農村部にはまだ残っているところもあるが、減っているような気がする。
 店に行けば、甘いお菓子が、甘い果実が、輸入果実がたくさん安く並ぶ、あえて渋さや苦み、酸味のある昔の果実など食べる必要もないかもしれない。観光果樹園に行けば自分で採って食べることができる、あえてあるかないかわからない木の実を探して食べる必要もなくなっている。いい世の中になったものだ。と言いながら、何かさびしく感じる。これも年寄りになったからなのだろう。

(註)
1.11年2月9日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(4段落目)参照
2.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆商業的農業の発展と農協」(2、3段落目)参照
3.11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」(3~5段落目)、
  13年7月8日掲載・本稿第六部「☆「百姓」・知恵あり暇なし」(3段落目、図表)参照 
4.生家にはウメとスモモ以外にサクランボと柿があったが、それについては前に触れたので省略する。
5.商品作物として一部の農家がつくっていたウメ、リンゴ、ナシ、洋ナシ、甘柿、クリ、クルミなどは八百屋で売っていた。ただし、そうした果物は、一銭店屋のお菓子とは違って子どものお小遣いでは買えるものではなかった。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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