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縄文農耕と東北侵略

 
                 弱者の視点(1)

               ☆縄文農耕と東北侵略

 縄文時代という名前を聞いたのは戦後、小学校6年のときの国定歴史教科書『くにのあゆみ』でだったと思う。われわれの先祖は大昔縄目の文様のついた土器や石器を使っていたというのである。それまで習っていた神話の世界とのあまりの違いに驚いたものだった。
 この古代について、私の高校から大学にかけての1950年代は次のように理解させられていた(と記憶している)。
 日本で農耕が始まったのは紀元前3世紀ころからで、九州北部から稲作を始めとする農耕が始まった。そして縄文式から脱却し、弥生式文化が始まる。それが全国的に波及していったのだが、遠隔地でしかも寒い東北の農耕はかなり遅れ、稲作が始まるのは7世紀以降である。つまり東北における農業、稲作は約1000年遅れて始まった。それ以前の東北は、狩猟、漁労、採集で原始的な生活をしていた、つまり農耕のない縄文時代だったと。

 私も当初はそういうものなのだろうなと何の疑問ももたなかった。教わったことは疑問を持たずにまず覚えるだけ、というよりは覚えるのがせいいっぱいの時期だったこともあるが、それに加えて縄文の土器や石器に直接手を触れていたということからでもあったのではないかと今は考えている。
 歴史に興味をもっていた中学校のころ、山寺村上荒谷(現・天童市)にある母方の叔母の嫁ぎ先の家に縄文時代の土器や石器があるとのこと、それを見せてもらったり、私も何か大発見できないかと叔母の家の裏の畑に行って探したり(破片しか拾えなかったが)していた。叔母の家で見せてもらった石の鏃や包丁などは、日本人の器用さは大昔からなのだなと思わせるほど精巧につくられていたが、やはりそれは狩猟中心の生活をしていたことを推測させるものであり、私の拾う縄目の模様のついた赤茶けた土器の破片はまさに原始的な暮らしを推測させるものだった。だから縄文時代は農耕などなかったと考えざるを得なかったのである。
 しかし、研究生活に入ったころからどうも納得がいかなくなってきた。日本の農耕文化はそんなに遅れて始まったのだろうか。東北はそれ以上に遅れたと言うが、本当なのだろうか。こんな疑問をもったのだが、それは日本は世界から何でも遅れている、なかでも東北はさらに遅れるところであるという昔からの(いや今も?)雰囲気に対する東北人である私の反発心からだった。

 そもそもおかしいと思ったのは、農耕は弥生時代から始まる、縄文時代には農耕がなかったという考えである。前にも述べたように、水田の造成はきわめて難しく、しかも熱帯植物の稲を栽培するのも日本では簡単ではない。にもかかわらずそれを受け入れて稲作を一挙に波及させていったということは、それ以前に農耕の経験があったことを示しているのではなかろうか。まずこんな疑問が浮かんだ。
 さらにもう一つ、東北で農耕が始まったのは7世紀以降というが、日本に稲作が伝わってから千年もかけて東北に伝わったということが信じられない。いくら交通手段がなくとも九州博多から東北の北端青森まで日本海側を通ってもその距離は太平洋側を通ってもわずか二千㌔弱、黒曜石の広域流通からみてもわかるようにいいものはあっという間に広がるはず、東北は寒冷地だと言っても夏は暑く、水も豊富なので稲は育てられるはず、もっと前から栽培されていたのではなかろうか。また、寒冷地でも栽培できる作物もあるので、他の地方と同様に、稲作が日本に入る以前から農耕があったのではないか。それもできないほど当時の東北の人々の知的水準は低かったのか。
 もしもそうだったとすれば、つまり一定の豊かさがなかったとすれば、なぜあれだけしつこく大和朝廷が蝦夷征伐(=東北侵略)をやったのか。生産力の低い貧しい地域ならば犠牲を払って自分のものにしても何の利益もないではないか。
 また亀ヶ岡式土器を始めとする素晴らしい芸術、これも一定の豊かさがあったからできたのではなかろうか。食うや食わずの暮らしをしていてあれだけの芸術品がつくれるのか。こうしたことから考えても、縄文時代の東北では農耕がいとなまれていたと言えるのではないか。
 こんな風に1970年ころから私は考えるようになった。もちろん考古学や古代史学の専門家ではないし、そんな研究をする暇もないので思うだけでしかなかったのだが、関心は強くもってこれまで過ごしてきた。

 ところで、今触れた大和朝廷による「蝦夷征伐」であるが、その走りは日本武尊(やまとたけるのみこと)だった。
 この名前は戦前小学校を卒業した世代であれば全員覚えているはずである。小学校の歴史(国史と言っていた)の教科書に大きく取り上げられていたからである。ただし、国史は地理とともに小学5年から習うので、敗戦時に4年だった私は習う機会がなかった。戦後国史の授業が廃止されたからである。ただ、叔父の使った国史のあんちょこ(教科書を解説した参考書)がたまたま家に残っており、かなり古くなっていたが、何しろ本不足、活字に餓えていた時代、そんなものでも読んで満足するしかなかったので、5年になれば学ぶことになる歴史の教科書の内容はそれで読んで覚えた。しかし、そのあんちよこのなかで鮮明に覚えているのは仁徳天皇が「民のかまどは賑わいにけり」と言ったと言う話だけ、日本武尊について具体的にどんなことが書いてあったかまったく覚えていない。それを読む前に講談社の絵本『日本武尊』を読んで得た知識の方が強烈だったからだろう。西征つまり九州征伐に行ったヤマトタケル(今はこう呼んでいるようである)が美少女に変装して熊襲の首領を討ち取る(実はだまし討ちする)絵、叔母(だったと思う)からもらった剣で草を刈り払って敵の火責めと戦っている「草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)」にかかわる絵、船を嵐からまもるために妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が人身御供となって畳に座って荒れた海に飛び込もうとしている絵等々、鮮烈に覚えている。このタケルが父の天皇の命令を受け、熊襲征伐に行って手柄を立て、その後東征つまり東方の蛮族=蝦夷討伐に向かったが、都に帰りたくとも許しが出ず、悲しみのうちに若くして亡くなった、こういう話なのだが、そもそもタケルがいたという証拠はなく、その親と言う景行天皇も現存したのかどうか不明であるという。
 現在は、タケルは4世紀から7世紀ごろの大和朝廷の九州・東日本の侵略に活躍した何人かの話を統合してつくられた架空の人物であろうというのが通説になっているとのことである。なお、このタケルが東北のどこまで来たのか、日本書紀には北上川流域まで来たと書いてあるとのことだが、よくわからない。
 いずれにせよ、このことは、少なくとも4世紀には大和を支配した政権が蝦夷征伐=東北侵略を始めていたことを示すものだろう。
 しかし、蝦夷=東北の人々はなかなか屈服しなかった。そこでその後も繰り返し征伐に向かい、8~9世紀には坂上田村麻呂を蝦夷征伐の大将=征夷大将軍にし、東北に住む人々を「まつろわぬ民」つまり大和朝廷に帰順しない野蛮な民族として三度にわたって東北に攻め入り、服従させようとした。
 なぜこんなことをしたのだろうか。さきほども言ったが、何の利益もなしに侵略戦争を引き起こしはしないはずである。東北を支配下におこうとするのは大和朝廷に何らかの利益があったからのはずである。それではどのような利益を得ようとしたのか。貨幣制度の発達していない当時の状況からすれば、東北の住民からいわゆる租庸調(そようちよう)、つまり各種生産物あるいは労働力を租税として大和朝廷が獲得しようとしたのだろう。ということは、こうした各種生産物を東北が生産できる能力があったことを示している。それも狩猟や漁労、採集による生産物だけではないはずだ。米や雑穀、衣料作物などの農産物もあったはずである。しかも、自分たちが最低限生活できるよりも多く生産していたはずである。そうでなければ租庸調を徴収することはできず、それでも徴収しようとすれば東北の住民は餓えて死に絶え、何のメリットもなくなるからである。だから、当時の技術段階でそうした生産力水準に達するのが難しかった北海道を支配下におこうとしなかったのではなかろうか。
 こんな風に考えていくと、東北の農耕はかつての通説のような7世紀以降ではなく、そのかなり前から始まったことになるのではなかろうか。

 亀ヶ岡式土器、この存在を私が認識したのはいつだったろうか。もしかすると高校のときに習っていたのかもしれないが、まったく記憶がない。縄文農耕に関心をもつようになってから気が付き、こんなすばらしいものが東北にあったのだと感心したのだが、とくに遮光器土偶、あの精密な造り、見事な抽象化には驚いた。また漆塗製品もあったという。当然こうしたものをつくるにはかなりの時間がかかったはずだ。これだけのゆとりのある生活、これは生産力がかなり高くなければできない。これだけのことが東北のなかでももっとも北、寒さの厳しい青森県木造町でもできる、それも約3000年前から始まっている、このことは東北が生産・生活両面でかなり進んでいたことを示すものではなかろうか。そして農耕もなされていたのではなかろうか。

 こうした私の疑問は考古学を始めとする諸研究の進展の中で徐々に解明されてきた。

(ちょっと長くなるので、この後は次回述べることにする)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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