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戦争と子どもたち



                弱者の視点(3)

               ☆戦争と子どもたち

 カンプー摩擦、国民学校(現在の小学校)でよくやらされた。体操の時間とか全校朝礼の時間とかにグランドに出て全員上半身裸になり、先生の号令のもとに、乾いた手拭いで肌を上下左右前後よくこするのである。低学年のころの私はそれを「寒風」摩擦と書くのだとばかり思っていた。寒いときによくやらされたからである。しかも先生は、寒さに打ち勝ち、がまん強さを養い、お国のために役立つ丈夫な身体をつくるためにやるのだというからなおのことそう思っていた。
 ところがこれは実は「乾布=カンプ」摩擦だった。
 この乾布摩擦に対して、レイスイ摩擦というのがあった。これは「冷水」のことだろうとすぐにわかった。冷たい水にぬらして強く絞った手拭いで肌をこするものだからである。これもときどきやったが、夏は気持ちがいいものの冬はどうにも冷たい、風をひきそうになる。だからかもしれない、乾布摩擦をさせられた方が多かったような気がする。
 ともに、最初は寒く冷たいが、何回もこすっているうちに身体が温まってくる。それでもやはり寒い。しかし、軍国少年の私のこと、満州にいる兵隊さんはもっと寒い、我慢して身体を鍛えなければとがんばったものだった。
 戦争末期の3年生の冬(1945年の1月だったと思う)、神風が吹いてアメリカをやっつけてくれるように、毎朝近くの八幡神社に行き、乾布摩擦をして必勝祈願のお祈りをしよう、こう決心した。
  「そうだ その意気 その気持ち
   その その気持ちが 国護る」(註1)
 当時ラジオからよく流されていた戦時歌謡にもそうあるではないかと。
 この決心を同級生のK男君(註2)に話した。そうしたら彼も私といっしょにやると言う。それでこれから毎朝△時(正確な時間は忘れてしまった)に八幡様で会おうと約束した。翌朝早く、雪道を踏みしめて八幡神社に行った、ところがK男君が来ていない。しかたがなく、一人で参拝し、乾布摩擦を始めた。それを見た神主が「偉い」とほめてくれたので気をよくしてがんばって手拭いでこすった。ようやく温まり、終わって服を着終わったころ、「ごめんごめん、寝坊してしまった」と謝りながらK男君がやってきた。もう終わってしまったと言ったら、自分も今から始める、いっしょにつきあってもう一度やってくれという。断わればいいものをついついもう一度いっしょに乾布摩擦を始めた。せっかく温まったのに、また寒いところに裸の上半身をさらす、いくらこすっても身体は前のように温まらなかった。
 当然のことながら、翌日は高熱、学校を3日ばかり休んでしまい、結局私の神社での乾布摩擦はその後中止となってしまった。そのせいだろうか、神風は吹かず、日本は負けてしまった(と、後で笑ったものだった)。
 神風は本当に吹くと思っていた。天皇は本当に神だと思っていた。神話はすべて本当、日本の大八州(おおやしま)は神様がつくったものだと思っていた。これは私たちが子どもだったからだろう、そう思って私たちより上の世代に聞くと、やはり信じていたと言う。そしてなぜそんな非科学的なことを信じていたのか、今でも不思議だと言う。
 それにしても私は何と健気な軍国少年だったのだろう。私ばかりではない。みんなみんな軍国少年少女だった。生まれたときから戦争、すべてが軍事色、教育ももちろんだったのだから、そうなるのは当然だった(註3)。

 小学1~2年のとき、運動会や何かの式典のときに上級生によるラッパ鼓隊(註4)を先頭にグランドを行進する少年団があこがれだった。白地の真ん中にこげ茶色の羽をひろげた鷲(だと思う)を抽象化した模様があり、その下に大日本少年団山形市第六分団と書いてある大きな旗を先頭に、3年生以上の生徒が全員4列縦隊に整列して、ザッザッと歩く。かっこよかった。この少年団は、ナチスドイツの青少年組織ヒトラー・ユーゲントを真似たものらしく、全国の国民学校を単位につくられたもので、軍事教練や勤労奉仕をするためのものだった(註5)。第六分団となっているのは私の学校が第六国民学校だったからであろう。3年になったばかりの時だったと思う、学年から2人ずつ学校代表で選ばれて市の行事に参加したとき、どこかの神社(旧県庁近くだったが思い出せない)の前の会場に第一分団(第一国民学校)から第七分団(第七国民学校)までの旗が掲げられ、その後ろにそれぞれの学校の生徒が整列したことを覚えている。
 この少年団の班が各地域ごとにつくられ、その単位でいっしょに登下校するように言われたのは敗戦の1年くらい前ではなかったろうか。勤労動員なども班単位でなされた。
 ところが家内は少年団のことを覚えていないという。地域の班単位で活動させられたりしなかったかと聞くと、敗戦の年の夏、桑の根っこ掘りの勤労動員のさいには地域の班で上級生から下級生までまとまって行ったが、少年団は覚えていないと言う。どうも戦時中のことについての家内の記憶にはあやふやなことが多い(病気がちで休んでいたことが多かったからかもしれないが)。

 ついでに、「弾丸切手」って知ってるかと家内に聞いてみた。覚えていないと言う。学校で買うことを勧められたはずだといってもわからない。一生懸命考えてこう聞いてきた、「爆弾三勇士」の郵便切手でもあって買えと言われたのかと。爆弾三勇士とは上海事変のとき3人の兵士が爆弾をかかえて敵陣に突入し、勝利に導いたとして軍神として称えられたことを言うのだが、これを記憶していたのはたいしたもの、しかし三勇士は郵便切手にはなっていない。そもそも弾丸切手は郵便切手ではない。
 「弾丸切手」とは正式名称「戦時郵便貯金切手」という戦争中に発売された国債なのである。しかもそれは今の宝くじと同じような賞金くじとなっていた。1枚2円(これが額面つまり元金で5年間無利息)で1等賞金1千円から4等2円まであり、「よく当たる」、しかもその国債を買った金は「(よく当たる)弾丸をつくる資金になる」、それで「弾丸切手」の愛称をつけたとのことである(註6)。それを郵便局を中心に大々的に売り出すと同時に、学校を通じてつまり生徒を通じても注文をとった。それで私たち子どもは学校でこう先生から言われたと話す。すると父兄は学校には義理もあるからと購入する。私の生家でも何枚だったか忘れたが購入した(当たったかどうかは覚えていない)。学校で手渡されて家に持ってきたが、今の宝くじよりも少し大きめ(といっても宝くじはかなり前に見たことがあるだけ、今も同じ大きさなのだろうか)、色刷りだった(何かの絵が書いてあったような気もするのだが)。
 この弾丸切手を家内は覚えていない、学校で買わされた記憶もないという。田舎の小学校だからそんなことをしなかったのではないかと言うが、全国画一的な施策展開の当時のこと、全国的にやられたはずである。それを記憶していない、少年団も乾布摩擦も覚えていないということは、愛国心が足りなかったからではないか、そんな非国民(非少国民が正確か)がいたから神風は吹かず、日本は負けたのだなどと言って私は家内を冷やかす。

 戦争末期、前に述べたように私は母の実家に疎開した。そしてそこで空襲に遭った(註7)。
 空襲が終わって米軍の飛行機がすべて飛び去った頃、役目を終えた集落の警防団(戦時中の警察と消防の補助組織、戦後は消防団に改組された)員が10人くらい母の実家に集まってきた。祖父が村の警防団長をしていたからである。囲炉裏のまわりでみんなでお茶を飲んでいたら、何人かの団員が一人の見知らぬ男性を連れて家に入ってきた。その男性は、空襲の最中に、飛行機に目立つような白い服を着て道路に飛び出し、飛行機を見てこっちへ行ったあっちへ行ったと騒いでいたというのである。そして責める、この非常事態におまえは何をうろうろして騒いでいるのか、もしもお前の着ている白い服が見つけられて爆撃を受けたらこの地域の人に迷惑をかけるではないか、まさに「非国民」だ、お前はスパイではないかと。その人は土間に立たされたまま何度も深く頭を下げ、すみません、すみません、これからはしませんと平謝りに謝るのだが、みんな興奮して大きな声でなじる。その人は共通語を使っていたから疎開者かもしれない。あるいは出張か何か用事で山形に来ていたのかもしれない。とうとう祖父が乗り出し、謝っているからいいではないか、これからこんなことをしないと約束しているからこのまま帰してやろうと説得し、何とか帰した。
 何でだかわからない、いやな気持ちだった。その大人の人がかわいそうだった。ただ注意するだけでいいではないか、いい大人を何であそこまでいじめるのか。権力を笠に着て、非国民だ、戦争非協力者だときめつけていじめている。軍国少年だったはずなのに、とってもいやな感じがしたものだった。

 私は、いやほとんどの子どもたちは少国民として必勝を願った。侵略戦争とは知らず、勤労動員などで戦争に協力した。しかし子どもたちが勤労動員で絞った松根油はほとんど戦場に行くことはなかった。松根油を使うべき飛行機はほとんどやられていたからである。また兵器工場でつくらされた武器も戦場に行くことはなかった。船はもうほとんど沈められていたからである。ただし、それがわかったのは戦後のこと、つくっているときは本当に役に立っていると思ってつくったので、これも戦争協力といえばいえるかもしれない。
 しかも朝鮮や満州にいた私たちの同世代の子どもたちは朝鮮や満州の人々を収奪したお金で豊かな暮らしをし、内地にいた私たちはチョーセンジン、シナジンと馬鹿にし、朝鮮から来た同級生が創氏改名させられるのを当然と考え、侵略戦争や植民地化での殺りくを喜ぶなどしている。やはり私たちは加害者だったのだ。
 だから、まだ今のような交流がなかった時代、研究や調査で私のところを訪ねてくる中国や韓国の研究者=戦争の被害を直接受けた経験者に、私はまず最初に何も言わずに深々と頭を下げて私なりに謝罪の意を示し(こんなことですむようなことではないのだが)、それから通常の挨拶、会話に入ったものだった。

 しかし、やはり日本の子どもたちは加害者と言うよりは被害者だった。
 子どもへの加害者はまず日本の大人だった。軍部や財閥の扇動に乗って戦争への道に熱狂的に協力し、子どもたちを餓えに追いやり、教育もまともに受けさせず、さらには親兄弟まで失わせた。
 アメリカ軍も加害者だった。その原因をつくったのは日本であったとしても、その非人道的行為は許せるものではなかった。原爆投下がその典型だった。あらゆるものを焼き尽くし、殺りくする原爆を多くの非戦闘員が、子どもが住む広島と長崎に落とした。東京、仙台空襲を始めとする無差別絨毯爆撃もそうだった。軍事施設を狙ってではなく日本の木造住宅を焼き払うための、そこに住む子どもを含む日本人を焼き殺すための焼夷弾を無数と言っていいほど町に村に投下し、実際に何十万人も殺害した。
 間違って女子どもを撃ったり、爆撃したりしてしまったのならこれもやむを得ない。しかしそうではない。人道に対する罪として国際的に禁じられているにもかかわらず、意図的に一般民衆の大虐殺、大量殺りくを行った。なぜ平気でああしたことができたのか。いまだに何の自己批判もせず、平然としている。日本軍、ドイツ軍の残虐さは声高に言うが、自国軍のことは何にも言わない。勝てば官軍なのか、有色人種差別なのかよくわからない。日本人もこれに対して何にも言わない。戦争をしかけたのはこちらだからやむを得ない、日本も重慶に対する無差別爆撃をやったから何も言えないというのならまだわかる。ところが日本政府の要人の一部は、あの戦争は侵略戦争ではない、虐殺などしていない、従軍慰安婦問題などはないとまでいう。もしも日本が悪いことをやっていなかったら、「自虐史観」なるものが間違っているとするなら、あんなことをやったアメリカを堂々と批判すればいいではないか。ところが批判しない。国民に愛国心を強要する政治家がなぜアメリカにだけは何も言わないのだろうか、言えないのだろうか。敗戦から今日まで形を変えながら続いてきた占領体制の下で過ごしてきたために、アメリカに対してだけは卑屈になり、批判など考えもしなくなってしまったのだろうか。歴史的事実まで捻じ曲げてしまうような人には他人を批判する資格などはそもそもないのだが。

 戦争は悲惨だ、戦争を起こさないようにしよう、戦後国民の中にこうした声が高まった。そして、戦後のある時期まではかなり真面目に学校の授業で戦争の悲惨さを教えてきた。戦争の惨禍を記録した本や映画を観たり読んだりするように勧めてもきた。
 しかし、敗戦から30年くらい過ぎたころからやめてしまった。戦争の記憶を残しておきたくない政府と教育委員会の圧力、戦災等の記憶を教えるよりも連立方程式の解き方を教えろと言う親の圧力に教師の側は屈してしまった。
 さらに、戦争の悲惨さを教えても、日本軍が戦争を引き起こし、さらには非人道的な行為をしてきたことは教えなくなってきた。最近は「はだしのゲン」問題に見られるように、原爆の悲惨さすら見せないようにしようとしている。
 その気持ちもわからないではない。教える側も教わる側もこんな話をするのはまた聞くのは辛い。同じ日本人が自分たちの先祖が悪いことをしてきたなどという話はできれば聞きたくない。私だって本当にいやだ。あのいやな記憶を思い出したくない、消し去りたいという気持ち、ましてや外地で罪を犯した人々のそうした気持ちもあろう。こうした気持ちに乗っかって政府は日本が侵略した罪、贖罪の必要性について教育させない方針を出す。
 ここにドイツとの違いがある。ドイツ人にはドイツの過去に対する贖罪の意識がある。しかし、日本人は、とりわけ日本政府は、日本の過去への贖罪の意識がきわめて弱い。そして靖国参拝などで感情を逆なでする。もしも犯した罪をあがなう必要があるという気持ちが日本にあれば、領土問題はもちろんのことあらゆることで局面は違ったであろう。

 とにかく、わが国はまずアジア諸国に侵略戦争と植民地化の過ちを率直にわびよう。過ちを改むるにはばかることなかれ、恥ずかしいことではない。謝罪したのかどうかわからないような文言でごまかすのはやめよう。自らの過ちを認めたものこそ他人の過ちについて指摘することができる。そして正常な関係をつくることができる。
 アメリカとの関係もきちんとしていこう。原爆投下、無差別爆撃は悪かったと認めさせ、核兵器やクラスター弾、無人飛行機による爆撃を始めとする非人道的な武器の開発と使用をやめさせよう。同時に日本はこれからも戦争を起こしたりはしないと改めて憲法を確認する。
 これこそが戦中戦後の子どもたちに対する加害者としての国の謝罪であり、未来の子どもたちへの最大の贈り物なのではなかろうか。

(註)
1.『そうだその意気』 作詩:西條八十 作曲:古賀政男 1941年
  なお、私は歌詞を間違って覚えていた。「そのその気持ちが」は「揃う揃う気持ちが」だった。「その」と「揃う」の発音が似ていたから間違って覚えたのだろう。私としてはまさに「その気持ち」が国を守ると考えて早朝乾布摩擦を考えたのだったが。
2.K男君については次々回の記事で述べるが、私をいじめたガキ大将・いじめっ子で、このころは私と仲よくなっていた。
3.太平洋戦争と村の子どもについては下記の記事を参照していただきたい。それ以外にも各所で触れている。
  11年2月7、8、9、10、11、14、15、16日掲載・本稿第一部「戦争とむらの子どもたち(1)~(8)」参照

4.12年6月22日掲載・本稿第四部「☆ハーモニカ、ギター、民謡酒場」(1段落)参照
5.戦時中政府は、戦争遂行に役立てるべく、少年団と同時に青年団、女子青年団を全国の市町村につくり、若者に全員そこに入ることを義務付けた。
6.Wikipedia「戦時郵便貯金切手」より
7.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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