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「弱きを助け」はいずこへ


                 弱者の視点(5)

              ☆「弱きを助け」はいずこへ

 仙台の冬の日暮れは早い。4時半を過ぎれば真っ暗である。1996年から7年にかけての冬のある日、夕方の5時半頃、大学からわが家に帰るべく自転車に乗り、西の方に向かって緩い坂道を上り始めた。ふと夜空を見上げた。星が出ている。そのなかに一つ、これまで見たことのないまったくまたたかない大きな星が頭上に見えた。何の星だろう。2~3秒過ぎてからではなかろうか、そうか、あれが新聞やテレビを賑わせていたすい星(註1)だと気が付いた。しっぽがちょっぴり見えたからだ。見えるはずだと新聞、テレビでいうけれど、なにしろ私は探し物の下手な人間、探しても見つからないだろうと思っていた。私の生まれる何年か前にあらわれたかの有名なハレーすい星が86年にめぐってきたときも見られなかった。だから今回もだめだろうとあきらめていた。それが見えたのである。急いで家に帰り、すぐに家内に教えた。あわてて外に出てきた家内といっしょにゆっくり眺めた。
 少年雑誌や絵本などで見るあの長いしっぽを引きずったすい星、一度は見てみたかった。しかし、見ることはないだろうと思っていた。それが見られたのである。何ともうれしかった。

 すい星というと思い出すのが『空気の無くなる日』という映画である。いつどこでだれと見たのか覚えていない。学校で映画館に連れて行って見せてくれたのかもしれない。ともかく見たのは戦後のことなのだが、内容は強く印象に残った(註2)。
 戦前のある農村でのことである。ハレー彗星がもっとも接近する5分間だけ地球上から空気がなくなってしまうという記事が新聞に出た、これではみんな死んでしまうと村中が大騒ぎになる。そこで学校では子どもたちに5分間呼吸しない訓練をしようとする。いうまでもなくそんなことは無理である。そこに噂が流れる、自転車のチューブや氷嚢に空気をためておき、それを5分間吸うようにすれば生き延びられると。そこで自転車屋に注文が殺到した。当然値段は暴騰、村の大半をしめる貧乏な農家は当然のことながら買えない。買うことのできたのは地主だけだった。それで地主の子ども以外の子どもたちそしてその親たちは死ぬしかないとあきらめる。ところが、実際には空気はなくならなかった。チューブを買い占めた地主が大損しただけだった。地主・金持ちであることを笠に着て学校で威張り、いじめっ子の大将となっている地主の子どもがこれでぎゃふんとなる。痛快でまたおもしろかった。それもあって忘れられないでいるのだろうと思う。

 このように地主の子どもが学校や地域で一番威張っている村がけっこうあったと聞く。しかし、こうした地主とかの資産の有無、家格の相違、地位等による大人社会の序列が子ども社会に反映していることは私の地域や学校ではほとんどなかった。前に述べたように、私の生家の地域が都市近郊、混住化社会だったことがそうさせたのではないかと思っているのだが、かわりに学校では腕力が序列をつくっていた(註3)。腕力に強いものがもっとも威張り、次に強いもの、おべっかをつかうもの等がその取り巻きとなっていじめ集団をつくっていた。貧乏であっても腕力と悪知恵に長けていればクラスの餓鬼大将になれた。
 たとえば、小学校低学年のときのクラスのガキ大将のK男君(前回の記事に登場した)、彼の両親は香具師(やし)で、お父さんの背中にはでっかい刺青が彫ってあり、掘立小屋のような長屋に住んでいた。隣りのクラスの餓鬼大将のY雄君はそのすぐ近くの長屋に住み、親は通いの大工だった。
 K男君には小学3年の時さんざんいじめられた(註4)。彼が直接というよりは彼の力を笠に着た取り巻き連中がとくにいじめたのだが。抵抗はした。たまりかねて彼らの10人くらいと私一人がけんかしたこともあったが、結局は多勢に無勢、負けてしまった。本当に辛かった。でも地域の子ども社会が救ってくれた。しかも激しいいじめは半年で終わった(かなり長くは感じたが)。先生が乗り出してくれたし、また戦争の激化と疎開騒ぎ等でそんな状況ではなくなったからである。
 戦争が終わった後、K男君の両親は家を捨ててどこかに行ってしまい、祖母と姉と彼だけが残されたという話が流れた。どうやって暮らしを立てていたのかわからない。やがて小学校を卒業した姉もどこかに出ていき、二人だけになったとの話も誰かから聞かされた。そのうち、学校に出て来なくなった。足が化膿して動けなくなり、家で寝たきりになっているとのことだった。だからクラスで威張るものはいなくなった。
 しかし、6年のときクラス替えがあり、隣りのクラスのいじめっ子だったY雄君が同じクラスになった。またいじめが始まる、そう思った私たち何人かで彼をやっつける相談をし、私が代表になって彼とけんかをすることになった。グランドの真ん中で殴り殴られ、組んずほぐれつとなったが、何しろ彼の腕力が強い、それで彼が私の上になる。すると、彼にいじめられてきた恨み骨髄の友だちが私に加勢をする、そんなところに先生がかけつけ、職員室に連れて行かれてさんざん怒られた。でも、それをきっかけにY雄君は餓鬼大将から転落し、別の奴にかわった。彼は直接暴力を振るわなかったが、その支配もひどく、やがてそれは担任の先生の努力でなくなった。

 さて、話はまたK男君のこと、4年生の冬に戻るが、おかしなものである、あれだけいじめられたのだから寝たきりになったらざまあ見ろでいいはずなのに、私は彼をお見舞いに行った。あんなに威張っていた奴が動けなくなる、どんな気持ちだろうと、何かかわいそうでしかたがなかったのだ。彼のおばあさんが私を見てびっくりしていた、だれも友だちが来なくなっていたのに私が訪ねてきたからである。長屋の薄暗い小さい部屋にげっそりとやつれて寝ていた。膿の匂いだろう、部屋中臭かった。寝たきりだった彼はものすごく喜んだ。3年のときに私をいじめたことなど忘れていた。なぜか話があった。頭もよかった(成績は悪かったのだが)。それから、3日に一度くらい訪ねるようになった。やがて彼は国立病院に入院した。結核病棟に入院したとかいうことでお見舞いには行けなかった。半年くらいして戻ってきた。何とか歩けるようになり、復学もした。またつきあいが始まった。しかし、またもや入院、家も引っ越し、会うこともなくなった。
 中学校に入り、彼のことをあまり思い出さなくなってきたころ、彼は戻ってきた。ただし1年下の学年への復学だった。元気にはなっており、手術をして全治したとのことだったが、片足は不自由だった。いじめっ子、ガキ大将のころのイメージはまったくなくなっていた。
 やがて私は卒業、何しろマンモス中学校、その後の彼の消息はまったくわからなくなってしまった。あれからどうしたのだろう。今でも時々ふっと思い出す。
 弱い友だち(K男君の場合は「弱くなった」の方が正確なのだろうが)、あのころは放っておけなかった。

 生家の一軒隣の農家にS夫君という同級生がいた。ちょっと知恵おくれだった。近くに住む彼の叔母さんが、私たちの中学卒業のときに、祖母にこう言って私に感謝したという。
 「小学校から中学校の9年間、毎朝欠かさずS夫を家に迎えに来てくれて学校に連れて行ってくれ、帰りも連れて帰ってくれた、普通ではできることではない、本当に感謝している」。
 そういわれてみればそうだった、私が疎開したときと特別な用事のあったとき以外、通学の時は行きも帰りもいつも彼を連れて歩いた。それが当たり前のことだったので、何も感じなかったのだが、そう言われてみればそうかもしれない、よくもまあやったものだと我ながら不思議に思ったものだった。
 でも、地域では、地域の子どもの社会では、助け合うのは当然のことだった。私だけではなかった。地域のみんなも、学校でも、S夫君をいじめるものは一人もいなかった。もう一人、貧乏で痩せ細った同級生もいたが、彼をいじめたりもしなかった。
 本当に弱いものはいじめなかった。私のように真面目一方ではなく中途半端に悪くてまたいい子で、少し身体が弱くて、だけど負けるのがきらいで、おべっかつかいができなくて、小生意気に若干の抵抗もするなどという子がいじめやすかったのだろうか。

 「弱きを助け、強きをくじく」、私たちの小さいころ、よく聞いたものだった。本や講談などで、学校でも家庭でも、しょっちゅう言われたものだった。どうしてもその逆になりがちな人間の弱さ、それを戒めるためだったのだろう。私もそうしようと思った。しかし強きはなかなかくじけなかった、それでも弱きを助けるのは少しはできたかもしれない(と思っているがどうだろうか、いじめられたことは覚えていてもいじめたことは忘れてしまう、やっぱり弱いものをいじめたことがあったのではないかとも思うのだが)。
 今はどうなのだろうか。「弱きを助け、強きをくじく」などと言う言葉は聞かなくなった。
 それどころか、政財界・マスコミは「弱き」も「強き」も自己責任というようになってきた。さらには政財界は金持ち・法人税減税、労働法制の規制緩和などで、「強きを助け、弱きをくじく」政策をとるようになってきた。マスコミはそれを煽る。生活保護は手厚すぎるなどと叩くのはその典型だ。
 こうした世の中の風潮が反映しているせいだろうか、今またいじめが激増しているとのことである。、しかも携帯やインターネットの普及、受験競争、モンスターペアレントの出現、教師の事なかれ主義の蔓延、地域の子ども社会の崩壊と孤立化の時代のもとで、いじめの質はさらに悪質、陰湿になり、また広範囲になっているとのこと、胸が痛くなる。

 70年代に藤子不二雄が描いた漫画に『魔太郎がくる』というのがある。いじめられっ子の魔太郎がいじめっ子に超能力「うらみ念法」などさまざまな方法で復讐するというものである。小学校3年のときに前に触れたようなすさまじいいじめに遭ったとき、身体が弱く、けんかも強くない私は、想像でいじめっ子をやっつけるより他なかったので、魔太郎の気持ちがよくわかった。だからこれが好きだった。痛快だった。それにしてもすさまじい復讐、私の想像などをはるかに超えるもの、苦しくさえなった。でも、これはいじめの抑制、いじめられっ子の精神安定に役に立ったのではなかろうか。
 ふと考える、21世紀の魔太郎に復活してもらい、いじめっ子に教育してもらいたい、「こ・の・う・ら・み・は・ら・さ・で・お・く・べ・き・か」、弱いものをいじめるとこういう結果になるのだと。そんなことを考えるのはおかしいし、それで問題が解決するわけはないのだが、元いじめられっ子の私、ついつい考えてしまう。
 しかし、そんなことより何より「強きを助け、弱きをくじく」ような、何でも自己責任にしてしまうような世の中を変えていくこと、これこそが今求められているのではなかろうか。
 大震災のさいの助け合いやボランティア活動などは庶民の中に「弱きを助け」の精神が十分にあることを示している、ここに希望をもちたいと思っているのだが。
 (次回の掲載日は10日・木曜とする)

(註)
1.何という名前のすい星だったか忘れていたが、調べて見たら「ヘールポップすい星」のようである。なお、ハレーすい星は1910、86年に出現、次回は2061年だそうである。
2.改めて調べて見たら、原作:岩倉政治、監督:伊藤寿恵男、製作:日本映画新社、1949年、とのことだった。
3.下記の記事で詳しく書いたので参照していただきたい。
  11年2月3日掲載・本稿第一部「☆子どもの社会」、
  11年8月24日掲載・本稿第二部「☆むらの否定の否定」
  11年8月26日掲載・本稿第二部「☆農村社会の異質化と農業」
4.11年2月3日掲載・本稿第一部「☆子どもの社会」(2段落目)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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