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ひとときのゆとり(3)

  

              ☆季節の行事、祭り

 たしか耳開げ(みみあけ)といったような気がする
 冬のある夜、豆を煎り、それを一升枡(ます)に入れ、上をお盆でふさぐ。その枡をもって、その年により違った方角にお正月に貼った大黒様と恵比寿様の新しい絵の前に座る。そして枡を勢いよく振って音をたてながら祖父がとなえる。われわれ子どもも祖父といっしょに大声を出す。これで耳がよくなるというからだ。
  「おだいこくさんおえべっさん、おだいこくさんおえべっさん、‐‐‐‐‐‐‐」
   (お大黒さんお恵比寿さん、  お大黒さんお恵比寿さん、  ‐‐‐‐)
 この「お大黒さんお恵比寿さん」を一息で何回も繰り返して唱える。そしてその後に次のように言って、頭を下げる。
  「こどすも どうが ええみみ きがしぇで けらっしゃい」
   (今年も  どうか いい耳  聞かせて  ください )
 こうした行事を始め、季節の節目にさまざまな祝いや願いの行事があり、その折々の料理が出される。それが子どもには楽しみだった。

 まず正月の餅つきがある。これは大晦日から始まるが、それは保存のための切り餅用で、元旦の朝も暗いうちから起きて餅をつく。電灯の光をたよりに台所の土間で父が臼に向かって杵を振り上げ、母が餅を返す。朝まだ薄暗いのにどこの家からもぺったんぺったんと餅をつく音が聞こえる。そのつきたての餅を雑煮やあんこ、納豆に入れ、分家の大叔父もきて家族全員そろって食べる。
 ただし、このように元旦に餅をつくというのは私の生家のある地域だけの風習だったようである。母の実家では、同じ山形だが、年末に餅をつき、正月はゆっくり休むという。家内の実家のある宮城県南でも大晦日までにおせち料理をつくり、正月はそれを食べて台所には立たないという。
 松の内に、数人が組となった神楽が太鼓をたたきながら雪道をやってくる。家の座敷にあがり、笛太鼓に合わせて獅子やひょっとこ、おかめが舞う。獅子が大きな口を開けてみんなの頭に噛みつく。悪魔除けだとはいっても子どもには怖かった。小さい子どもは泣き出した。私はそれよりもおかめの方が怖かった。ぴかぴか白く光る顔に奇妙な笑みを浮かべているあのお面が気持ち悪くて、その踊りが始まると隣りの部屋に逃げていった。終わるとお茶を出し、米一升(だったと思う)かお金を差し出す。それを二人でかついでいる大きな箱のなかに入れて挨拶をし、隣の家に行く。この神楽を冬のなりわい、つまり農林業のかたわらいとなむ副業とし、正月に何戸かでいくつかの組をつくって各地を回る集落が山間部にあったことを、たまたま調査に行ったとき知った。
 怖かったと言えば、真冬に回ってくる法印様の寒行も怖かった。雪に閉ざされて完全に音の消えた真っ暗な夜中に、チリンチリンという音が遠くから聞こえてくる。ずんずん家に近づいてくる。時々途切れる。何かぼそぼそとつぶやく声がする。またチリンチリンと鳴り、家の前までくる。止まってお経を読む。終わるとまた鈴が鳴り、法印様の踏みしめて歩くキュッキュッという雪の音がその鈴の音に重なる。やがて音は消えていく。白い山伏姿の法印様が冬になるといつもそうやって回ってくるというのは知っていながら、ともかく怖かった。というより怖いほど静かで淋しかったと言った方がいいのだろうか。
 この逆ににぎやかなのが法華宗徒の寒行だ。まだ静まりかえっていない夕方暗くなる頃、提灯を先頭にした十数人が法華太鼓をドン、ドンドンと敲きながら南無妙法蓮華経をとなえて歩く。宗徒の家の前に来ると太鼓がやみ、何か唱える声がし、やがてまた太鼓が鳴り、少しずつ遠ざかっていく。
 小正月にはまゆ玉作りがある。団子をまるめてミズキに刺し、さらに紙でつくられた小判や鯛などのめでたい飾りもつけ、それを天井に吊り下げる。団子を刺しやすくするために、ミズキの小枝の先の芽のところを折るのは子どもの仕事だ。やがて団子が乾いてからからになり、ひび割れができたころにそれを外す。この乾いた団子を油で揚げたり、バクダンにして食べるとたまらないうまさである。
 このバクダン(爆弾あられ・ポン菓子のこと、米などを加熱・加圧してはじけさせたお菓子、ポップコーンを考えればいい)は春先のおやつだ。雪が消えた頃、リヤカーにバクダンの機械を乗せた行商の人がやってきて、道ばたにリヤカーを止め、機械を据え付けてボンと鳴らす。それを聞きつけた各家ではバクダン屋が来たと米やトウモロコシ、かき餅やまゆ玉の団子などを持ってきてやってもらう。業者は頼まれた順番に機械の釜にそれを入れ、火の上でぐるぐる廻す。やがて釜をもちあげその口を大きな網に向け、留め金を外す。ボンというすさまじい音がする。子供達にはそれが怖い。しかし怖い物見たさ、耳を両手でふさぎ、ちょっと離れて見る。大音響が響く、青い煙と香ばしい匂いがただよってくる。子供たちは出来上がりを見に機械に近寄る。網のなかに大きくふくれた米やかき餅が入っている。それをざるや袋に入れてもらい、家に持ち帰る。そしてそれは何日間かの子どもたちのおやつやお茶菓子になる。
 なお、私には七草の記憶がない。ところが家内ははっきり覚えており、今でも一月七日には七草たたきの唄を歌いながら、七草がゆをつくる。これは雪国かそうでないかによる違いではないかと考える。山形の一月の田畑は雪で覆われ、せり、はこべなどの青いものは一切ない。しかし家内の場合は同じ東北でも雪のない太平洋側なので、ともかく七草はとれる。だから七草がゆの行事があるのではなかろうか。

 二月は節分の豆まきである。根のついた大豆の茎にめざしの頭を刺し、それを家の中はもちろん小屋や便所にいたるまでのすべての入り口や窓の上におく。鬼をそれで誘うのだそうだ。誘われてやってきた鬼を外に追い出すべく、戸や窓を開け、家長である祖父と私たち子どもがさけびながら、外に向けて豆を投げつけて歩く。
 「福はー内、福は内、福は内、鬼はー外、鬼はっそっとーー」
 子どもたちはさらに付け加える。
 「鬼の目ん玉 ぶっつぶせー」
 投げた豆が座敷の中にも落ちる。その豆を何個拾えたか子どもたちが競争し、それをぽりぽり囓る。炒ったばかりの豆は香ばしいが、固くてあまりおいしくはない。噛んでいるうち甘くなるけれども、そうすると時間がかかる。それで本当にわずかしか食べられない。
 三月の節句は海苔巻きといなり寿司だ。押し入れからお雛様が出され、箱のなかから取り出し、雛の顔をくるんである柔らかい紙をとり、床の間につくった雛壇に飾る。妹が買ってもらった新しい雛以外に、何代か前の古い雛もいっしょに並べられるが、古い雛の顔は大きくて何かのっぺりしていて気持ちが悪く、どうしても好きになれない。それはなるべく見ないようにして、飾ってあるあられをつまむ。
 四月八日はお釈迦様の誕生日だが、まだ花は咲いていないので、他の地域の花祭りのような行事はない。それでも楽しみだ。お寺に二合瓶をもっていくと甘茶をもらえるからである。甘いものに飢えているので、甘茶でもうまく感じる。
 五月の節句、庭に鯉のぼりを立ててくれ、兜や鍾馗様などをかざり、私たち子どもは祖母のつくってくれた菖蒲とよもぎの束を屋根に投げ上げ、夜は菖蒲湯に入る。この菖蒲の匂いが何ともすがすがしい。ごちそうはいうまでもなく柏餅とちまきだ。笹の葉に包んで蒸されたちまきのご飯をしょう油やきな粉につけて食べるのは、普通のご飯や餅とはまったく違った味と食感で、今思い出しても食べたくなる。なお、柏餅にはあんと味噌の入った二種類があった。甘さに飢えていた子どもたちはあん入りだけを食べたがった。
 七夕には、寺の竹林から竹をもらってきて短冊に願いを書いて家の庭に飾り、一週間するとそれを近くの川に流しに行く。
 迎え火から始まるお盆、これまた子どもたちの待ちに待った日である。めったに外に出られない夜、近くの子どもたちみんなが提灯やカンテラに灯をともして集まり、唄を歌いながら近所の家々をまわる。そうすると家の人が戸口に出てきて準備したお菓子や食べ物をくれる。しかしそのとき歌った唄がどうしても思い出せない。戦時中に禁止されたので私が歌ってまわった回数が少なく、戦後復活することもなかったせいだろう。
 お彼岸は春秋ともにぼた餅である。ふっくら炊きあがったご飯をすりこ木でつぶして餅にするのは子どもの仕事だった。なお、お盆の時の餅はぬた餅である。枝豆をすり潰して砂糖を入れて甘くし、餅につける。仙台ではこれをずんだ餅というが、最近仙台名物としてお土産屋に並ぶようになった。
 旧暦の八月十五日、九月十五日には夜ススキを飾り、団子、豆、芋などをお月様に供える。
 月見と言えば、年に一度月が蝋燭のように東の山に上がってくる夜があり、近所の人みんながわざわざ起きて拝むという行事があった。寒い時期だったことは覚えているが、何月何日だったか、そのお月さまを何と呼んでいたかは忘れてしまった。子ども時代に一度起きて見たことがあり、赤い半月がまさに蝋燭のようにしかも大きく山の上にかかるのが何とも不気味だった。戦後はこんな行事もなくなった。

 それ以外にもたくさんの行事があったが、農事関係の行事としてはまず田植えが終わった後の早苗振り(さなぶり)、稲刈りが終わった後の刈り上げの行事がある。神棚に苗や初穂をあげて祈りと感謝をささげ、夕食のおかずが少し豪華になったり、餅をついたりする。ともかく何か祝い事といえば餅をついたものだった。
 こうした農事関係の行事はもっと他にあったようだが、記憶にはない。雪の田んぼに行って一年間の農作業のまねをして神様に豊作を祈るという行事があったようだが、小さかった私は連れて行ってもらえなかったし、戦中は中断して戦後復活しなかったので、これも記憶にない。

 家ばかりでなく、むらにも季節ごとの農業に関連する行事があった。地域によっては家の行事がむらの行事であることもあった。
 たとえば圃場での作業が全部終わると祝う「庭払い」とか「土払い」とかいう行事があるが、これを家でやるところとむらでやるところがあった。
 山形県庄内のある地域ではむらの、しかも若者の行事として祝われた。むらの若者全員が集まり、三日三晩飲み明かすのだそうである。当然のことながら飲めなくなって逃げ出すものがいる。とくに若者仲間に入ったばかりの若者などがそうである。そうするとみんなでその家に押しかけ、連れ帰ってまた飲ませる。親はそれを止める権利はない。そのうちつぶれてしまう。目を覚ましてみると、線香の匂いがする。顔に白い布がかぶせられ、仏壇のそばに北枕で寝かされている。もっとひどいのは、その男性の局部に糸をまきつけ、それを猫の首につなぐいたずらだ。猫は騒ぐし、糸を切ろうと思っても食い込んで切れないし、死ぬ思いだそうである。
 こんなことをしてみんなで楽しむ行事があった。

 子どもたちの楽しみといえば、祭りである。私の家の場合は八幡神社の祭りだ。九月十五日になると学校も午後は休みとなった。
 露店が神社の境内に賑やかに軒をつらねる。流鏑馬(やぶさめ)もある。この非日常が子どもには楽しくてしかたがない。しかも家から小遣いをもらえる上に、親戚などお祭りに招ばれてくる客からもお小遣いがもらえる。
 そのお金をもってまず行くのが綿飴屋だ。甘い匂いをただよわせながら白い綿糸が出てくるのをまるで魔法であるかのごとく見ながら、割り箸にくるまるのを待ちわびる。買うと早速口や鼻のまわりに砂糖をこびりつかせながらぱくつく。あっという間になくなってしまうのが何となくもの足りない。
 どんどん焼き、こんにゃくなどを売る食べ物屋もある。おもちゃ屋には一銭店屋にはない、こんな時にしか買えない色とりどりのおもちゃが並ぶ。くじ引き屋もある。なお、金魚すくいは記憶にない。近在の農家らしい人がいろいろな種類の金魚を担いできて売っているだけである。
 採ってきたばかりの、まだ茶色になっていない「いが」に入ったままの栗の実を地べたに並べて売っている人もいる。これも近在の農家の人のようだ。子どもたちはそれを買って、その場であるいは家に持ち帰って、いがで痛い思いをしないように注意しながらはいている下駄の歯で栗をおさえ、火箸をいがの中に突っ込んでいがのなかに入っている栗の実を取り出す。それから白から茶色になりかけの栗の皮を親指の爪で傷をつけながらむき、まだやわらかい渋は爪でこすってはがす。実はまだ甘くはなっていない。でも、こうした時期の生栗の独特の味を楽しむ。買ってから食べるまでかなりの時間がかかるが、この皮むきも一つの遊びであり、楽しみでもある。
 夜になると、アセチレンガス灯の青白い炎がシューと音をたてながら独特の臭いを放って店のなかを明るく照らす。それが何とも幻想的で昼とはまったく違った雰囲気が味わえる。

 ただし、女性にとっては自分の家の祭りはあまり楽しくない。他県のむらもそうなのかもしれないが、ともかく山形ではお祭りの時に親戚や友人の間で招待したりされたり、その客の家にお赤飯を届けたり届けられたりする慣習があったからである。女性は朝早くからお赤飯を炊いたり、客に出す食事をつくったり、てんてこまいで祭りを見に行く暇もない。
 子どもたちも重箱に詰めた赤飯を親戚などに届ける仕事が与えられる。しかし、届けた家でお赤飯を空けた重箱を返すのといっしょにお駄賃をくれるのでうれしい。それで文句を言わずに、近くは歩いて、遠くは自転車で届ける。
 招ぶときは大変だが、招ばれるときは楽である。母も父と一緒に実家のお祭りに行くときもある。そのときはわれわれ子どもももちろんついていく。祖父母に連れられてよく親戚の家の神社のお祭りに連れて行ってもらった。今と違って交通条件が悪いから遠い親戚まで歩いていくのが大変である。それでも楽しみだった。

 今述べたことは私の生家の近くの話でしかない。しかも忘れたことが多々ある。地域によって異なるきわめて多様な行事や祭りがあったことはいうまでもない。今も残って有名になっている祭りなどはいいが、消え去ったものもあるし、大きく変わったものもあるだろう。こうしたかつてのことがきめ細かくきちんと整理されて記録されていればいいのだが。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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