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山羊の乳と同級生と酒田の物語(2)



                山羊の乳と同級生と酒田の物語(2)

                  ☆山羊の乳運び、同級生の死

 何で私の父が突然山羊の乳をあげることにしたのかわからない。カクライ君のことも、そのご両親のこともまったく知らないのに、あげても何の得にもならないのにである。ともかく当時の栄養事情のもとでの子どもの病気はかわいそうだ、自分の子どもがそうなったときのことを考えたらということで、何とかしてやりたいと思ったのかもしれない。
 父には何か感じることがあるととことん親切を尽くす性格があるようだ。親戚や父の友人などに対してそのようなことをしたことが何回となくあった。にもかかわらず後に裏切られたことも少なからずあったようだが。ともかくこの父の気質が加倉井家と私のつきあいを始めさせたのだった。
 ついでに言うと、祖母についてもよくわからない。大家族の炊事や洗濯、日中野良に出ている母にかわっての子守り、家のまわりの畑や家畜の管理等々で忙しい毎日を送っているにもかかわらず、何の文句も言わず見知らぬ人のために毎日山羊の乳を煮沸消毒して瓶に詰め、風呂敷に包んで私に持たせてくれたのである。家の実権を握っていた祖父も何も言わなかった。他人であっても子どもの病気は放っておけないと考えたからなのか、かわいい後継ぎ孫の友だちだったからなのか、ともかくこれが今でも不思議でならない。当時のこと、嫁の立場にある母はもちろん何の発言権もなし、どう思っていたのかよくわからないが、祖母の用事のある時は当然のことのように私に乳を準備してくれた。

 それはそれとして、次の日学校から帰ると、祖母が二合瓶に山羊の乳を詰めておいてくれ、それを風呂敷で結んで手で持てるようにしてくれて、私を病院に送り出した。
 道路は簡単だった。家の前の国道(当時の13号線)を県庁に向かって北にまっすぐ行き、カクライ君の家のすぐ近くを通り過ぎ、やがて左折してまたまっすぐ歩くとその突き当たりが至誠堂病院で、その近くには香澄町の叔母の家もあり、よく知っている道路だったので何の心配もなかった。満七歳になったばかりの私の足で急ぎ足で30分、ゆっくりで40分かかった。
 帰りは、お母さんが洗っておいてくれた前の日の瓶を風呂敷に包んでくれ、それを持ってまた家に向かって帰る。また、40分近く歩く。
 大変だったが、最初は楽しかった。街のなかをいろいろと見て歩けたからである。
 しかし毎日となると飽きてくる。しかも往復1時間以上となると、歩くのがいやになってくる。あのころの子どもの身体は今と違って小さかったからなおのことだったろうと思う。

 それから50年も過ぎて、しばらくぶりで会ったカクライ君のお母さんが、山羊の乳を入れた瓶を途中で割ったことがあるのを覚えているかと、笑いながら私に聞いた。すぐには思い出せなかった。
 そうだった、忘れていた、そんなことがあった。病院の近くまできて退屈まぎれに風呂敷に包んだ瓶をぐるぐる回しながら歩いていたら、手が滑って瓶を落としてしまったのである。当然の事ながら、ぐしゃぐしゃにガラス瓶はこわれ、乳は全部道路に白く流れてしまった。家に帰ってもう一度持ってくるわけにもいかない。泣きそうになりながらガラスのかけらの入った濡れた風呂敷を拾って病室に持って行き、事情を話したことがあった。だからカクライ君はその日乳を飲めなかった。お母さんは気にしなくともいいと私を慰めながら、こわれたガラスを捨て、風呂敷を洗ってくれた。
 帰ってきた私からそれを聞いた祖母は、次の日から、落とさないようにと風呂敷に包んだ瓶を背中に背負わせることにし、そうやって毎日通った。その格好が何ともおかしくかわいかったとお母さんは笑うのである。

 病室に行くとカクライ君が待っている。話をする。しかしそのうち彼は話をしなくなった。苦しかったのだろう、痛かったのだろう。何しろ氷嚢でしか痛みを抑えることができない時代だった。
 するとお母さんが酒田のことを2人に話してくれた。海のこと、砂丘のこと、街のこと、家のこと、山国育ちの私には初めて聞くことばかりだった。病気が治ったらサカイ君もいっしょに行こうね、必ず2人で行こうねとお母さんは繰り返し繰り返し言った。
 後でお父さんから聞いた、カクライ君は苦しい息の中で酒田に帰りたいといつも言っていたことを。お母さんは、酒田のことを私に話すことで、がんばって治して酒田に帰ろうと彼を励ましていたのだった。そして彼が元気になって、私も連れて、酒田に行ける日のことをお母さんは心の底から願っていたのだろう。
 しかし私にとっては、酒田に行くなどと言うことは夢のまた夢、話だけのこととして聞いていた。
 ところがそれは実現した。私は酒田に、カクライ君の家に何回か行くことになった。ただしカクライ君といっしょにではなかった。

 病院に通い出してから約1ヶ月過ぎた5月14日のことである。授業が終わった後担任の先生が私に教壇のところに来るようにと呼んだ。何の気なしに行ったら、今日から病院に行かなくともよいという。何のことなのかわからずきょとんとして先生の顔を見ていたら、先生は私の目をじっと見つめながら、カクライ君が亡くなったのだと伝えた。言葉が出なかった。病気が重くなっていることはもちろん知ってはいたが、死ぬなどと言うことは考えもしなかったからだ。
 病気は破傷風だった。今なら抗生物質で簡単に治るが、当時は不治の病だった。当然のことながらお父さんお母さんはそれを知っていた。しかし私はそんなことは知らず、いつかは治るものと思っていた。山羊の乳がその役に立つと思っていた。しかしそうはならなかった。
 何かぽっかりと心に穴があいたような気がしながら家に帰った。そしてそのことを祖母に伝え、夜になって農作業から帰ってきた父や母、祖父に伝えた。

 翌日かその翌日なのかわからない、授業中に私一人が先生に連れられてカクライ君の家に行った。しばらくぶりに訪ねた家はごった返していた。酒田の親戚の方なのだろう、言葉の違う人がたくさんいた。先生といっしょに仏壇の前に行って手を合わせた。お父さんとお母さんがどこにいるのかわからなかった。立ち上がって部屋を出ようとしたとき、突然頭の上に手がかぶさってきた。思わず肩をすくめたら、
 「この子なのよう、毎日乳をもって通ってきてくれたのは」
 悲鳴のような声が頭の上から降ってきた。お母さんの声だった。親戚や知り合いの人に私のことを教えたかったようだ。
 帰った後で先生が笑いながら他の先生に言っていた、せっかくお母さんがみんなに酒井のことを教えようとしてくれているのに逃げるように外に出たと。そんなつもりはなく、ただ瞬間的にびっくりしただけなのだが。
 その後葬儀などをどうしたのかわからない。酒田からご家族が見えられたのかどうかも知らない。私の家がどう対処したのかも記憶していない。
 ともかくこうしてカクライ君と別れることとなった。だからこれ以上仲良くなることもなく、呼び名もその後変わることはなかった。今でも「カクライ君」だし、思い出す顔も小学1年のときの元気な顔と2年のときの病気でやせ細っていた病院での顔だ。カクライ君との時間はそのときで、彼が満7歳になったばかりのときで、止まっている。
 だから70歳を過ぎた今でも彼はカクライ君であり、ご両親についてもいまだにカクライ君のお父さん、お母さんなのである。

 その後少し落ち着いてからカクライ君のご両親が改めて私の家に挨拶にきたらしい。そして三十五日の法要(だったと思う、もしかすると四十九日かもしれない)を酒田でやるので私にぜひ来てもらいたいと言ったようである。もちろん私はまだ2年生、しかも早生まれ、一人で行けるわけがない。それで祖母がついて行くことになった。
 こうして生まれて初めて酒田に行った。
 このときカクライ君のお祖父さんとお祖母さんに初めて会った。優しく迎えてくれた。私の祖母に繰り返し繰り返しお礼の言葉を述べていた。その言葉は山形と違って柔らかだった。
 私より2歳下でまだ就学前だった妹のA子ちゃんとも初めて会った。長女のA子ちゃんはお祖父さん、お祖母さんと3人で酒田で暮らしていたので山形で会うことはなかったからだ。お父さんの転勤でいっしょに山形に来たのは、お母さんとカクライ君、そして次女のB子ちゃん、赤ちゃんだった三女のC子ちゃんだけだったのである。A子ちゃんはもの珍しそうにちょっと恥ずかしそうに私を見ていた。
 2晩泊めていただいたのではなかったかと思う、3日目の朝早く酒田駅から山形に向かった。新庄で奥羽線に乗り換え、三つ目の大石田駅で途中下車した。そして尾花沢に行く列車に乗り換えた。祖母は最初からそう予定していたのか、突然思いついたのかわからないが、尾花沢の知り合いの家に立ち寄り、ふたたびその日の午後大石田から奥羽線に乗り換えて山形に帰った。
 そうなのである、その当時は大石田―尾花沢間の線路(尾花沢鉄道)があったのである。1970年に廃線になったのだが、小さな蒸気機関車に牽かれて走る列車、鉄道好きの私としてはその時乗っておいてよかったと思う。これもカクライ君のおかげ、国鉄マンのカクライ君のお父さんとの縁がそうさせてくれたのかもしれない。
 そればかりではなかった。それ以後、山形に住む普通の子どもでは味わうことのできないたくさんの体験をさせてもらった。だからその頃の記憶の一部がいまだに鮮明に残っているのだろうと思う。

 それから毎月、月命日の14日になると、カクライ君の家に行ってお詣りした。祖母はその日になると必ず家の前の畑から花を採って束ねてくれ、それを持って行くようにと言った。しかしついつい子どもだからその日を忘れてしまう。すると祖母が今日はお詣りに行く日だと教えてくれた。
 また、カクライ君の家族も私の家を訪ねて来るようになった。B子ちゃんは、家で飼っている山羊や鶏、牛、また農家としての家のたたずまい等を今でも覚えているという。長い縁側に座ってナスの漬物を食べ、それがとってもおいしかったこと、私の祖父は丸顔、父は面長だったことまで覚えていた。まだ3歳だったはずだが、よほど印象深かったのだろう。また印象が記憶として残るくらいその後何回も私の家に遊びにきたのかもしれない。カクライ君が生きているうちにB子ちゃんは来たことがないし、酒田に帰ってからはA子ちゃんと違って私の家に来ていないはずだから。
(17日・木曜に続く)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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