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山羊の乳と同級生と酒田の物語(3)



              山羊の乳と同級生と酒田の物語(3)

                  ☆酒田の街と海

 カクライ君の亡くなった1943(昭18)年、その夏休みにまた私は酒田に行った。今度は本当に遊びのためだったが、もちろん入院中の約束とは違ってカクライ君といっしょではなかった。お母さんたちは先に酒田に行っていて、お父さんが私を汽車に乗せて連れて行ってくれたような気がする。
 酒田に着いた日の夕方、お祖父さんが私を自転車の後ろに乗せ、海に連れて行ってくれた。海水浴場になっている酒田の港で、お祖父さんは私の服を脱がせ、だっこして海のなかに入った。ところが、身体がぶるぶる震える。だっこしているのだからこわくはないはずだ。海水がとくに冷たいわけでもない。なぜだかわからない。歯ががちがち鳴る。こわくないんだと自分で自分にいかに言い聞かせても震えは止まらない。かなり深いところまで行く。私はしっかりお祖父さんにしがみつく。お祖父さんは笑いながらすぐに引き返してくれた。これが海に入った生まれて初めての経験だった。
 次の日だったかどうか覚えていないが、お母さんが私を連れて外出した。よく見ると道路は砂でできている。小石もない。当時は舗装されている道路など少なかったからほとんどそういう道路である。砂利道や土の道路でないのが珍しかった。どこをどう歩いたのかわからない。ともかく暑い日だった。やがて坂道になった。下の方に川と海が見える。この川は最上川だった。赤ちゃんのC子ちゃんをおんぶして日傘をさしていたお母さんは私の手を引いてその坂道を下りた。
 その坂道の途中にある家に入った。お母さんとそっくりの美しい女の人がいた。親戚の家なのだろうと思ったが、何か冷たい飲み物をごちそうになり、本当においしく飲んだ記憶がある。最近A子ちゃんに聞いたら、そこはお母さんのお姉さんの嫁ぎ先ではなかったかと言う。
 その帰り道、お母さんは私の手をひいて坂を上ってくれた。お母さんの手は白くやわらかかった。しかし、私の小さい手はカクライ君の手ではなかった。お母さんはどんな気持ちだったのだろうか。もちろんこんなことは私の勝手な推測でしかないのだが。
 A子ちゃんとも仲良くなり、何か忘れたが、いろいろおしゃべりしたり、遊んだりした。近くの遊び場も案内してくれた。遊びに家の庭に出ると、固い土ではなく、やわらかい砂だった。砂の庭、これも珍しかった。考えて見たら酒田は砂丘の上にできた街、庭も道路も砂、これは当然のことだったのだが。
 夜は、お祖父さんとお祖母さんといっしょに庭に面した部屋で寝た。市役所に勤めていたお祖父さんは大柄で痩せており、眼鏡をかけて難しそうな顔をしていたが、とっても優しかった。お祖母さんはとっても小柄で丸顔、いつもにこにこ優しくしてくれた。
 山形に帰る日の前の夜だったと思う、夜中急にお腹の調子がおかしくなって便所に行きたくなった。でも暗くてよくわからない。蚊帳を出てうろうろしていたら、二人が起きてくれた。しかし便所に連れて行ってくれない。お祖父さんが何か抱えてきた。そしてこのなかにしなさいという。それは木製で黒塗りの「おまる」だった。しかし私は見たこともないもの(おまるという名前も後で知った)、とまどった。こんなものに、しかも普通の部屋のなかで、大便などしていいのか、私の聞き違いではないか。寝ぼけた頭で必死になって考えるが混乱するだけ、でもがまんできない、とうとうその上にまたがってやった。すごい下痢だった。しかも高熱が出ていたようだ。それで翌日は一日中うつらうつらしながら寝ていた。医者が来てくれたような気がするが、はっきり覚えていない。疲労が原因だったのか、あまりにも初めてのことが多いことからくるカルチュアショックによる知恵熱だったのか、食中毒だったのかもよくわからない。ともかくそれで帰るのを遅らせることになった。山形の私の家とその連絡をどうやってとったのかわからない。電話などない時代だから、電報でも打ったのではなかろうか。ともかく一日遅れで帰ったはずである。
 やかでお母さんたちも山形に帰り、また日常に戻った。月命日の私の加倉井家訪問はその後も続き、それ以外にもときどきお互いに行ったり来たりしていた。

 翌1944(昭19)年の何月だったろうか。転勤で酒田に戻ることになったとカクライ君のお父さんが私の家にあいさつに来た。転勤を強く希望していたらしい。子どもを亡くしていい思い出のない山形を早く去りたかったのだろう。山形に転勤してきたことそれ自体を後悔していたようだ。カクライ君が瀕死の床で酒田に帰りたいと繰り返し繰り返し言っていたからだ。私が行ったときは我慢したのだろう、そんなことはなかったが、カクライ君は「足が痛い、痛い」とうめきながら、「死んでもいいから酒田に帰りたい」と泣いたと言う。おんぶしてそれをなだめると「酒田はどっち?そちらを向いてくれ」とせがんだとも聞いた。しかし酒田に帰ることなく亡くなってしまった。子どもがそんな思いをもっていた酒田からなぜ転勤などしたのか、お父さんが悔やむのは当然のことだったろう。
 酒田にいたお祖父さんやお祖母さんの嘆きは言うまでもないだろう。A子ちゃんがこんな話をしてくれた。亡くなった年の夏にもう使うことのなくなったカクライ君の衣類が山形から送られてきた。お祖母さんは荷をほどきながらその衣類一つ一つに頬ずりをして泣き続けた。涙は手ぬぐいからしたたり落ち、それをしぼって泣いていたと。
 こうしたカクライ君の思いのこもる酒田にご両親と妹さんたちは戻って行かれた。その後お父さんは酒田から絶対に転勤しなかった。そのために本来つくべき地位につけず、定年を迎えることになったようである。

 こうして加倉井家と私は遠く離れることになったが、付き合いはまだ続いた。父同士の手紙のやりとりがあり、当時酒田と山形が同じ鉄道管理局に属していたこともあってカクライ君のお父さんの山形出張が時々あってそのたびに家に立ち寄ってくれた。
 なお、この年の夏、つまり私の小学3年の夏休みに酒田に行ったかどうかはっきり記憶していない。そのころは戦況が厳しくなり、簡単に旅行などできる時代ではなくなっているから行っていないかもしれない。
 しかし、そうした時代であってやはり行ったのではなかったろうか。A子ちゃんやB子ちゃんと日和山公園や近所の松林、港駅に行く線路の上の陸橋などあちこち歩き、おしゃべりをし、すっかり仲良くなって、いつの間にか私の呼び名は「サカイ君」から「ジュンイチ君」に変わっていた記憶があるからである。
 また、秋田との県境の吹浦海岸に連れて行ってもらったのもその年ではなかったかと思う。羽越線の吹浦の駅を降りてゆっくり十六羅漢の方に向かってA子ちゃん、B子ちゃんといっしょに国道を歩いた。戦時中ということもあったのだろう、人っ子一人通らない静かな道だった。景色は本当によかったが、何しろ未舗装の狭い国道、今のようにガードレールもないので、下の海を見ると引き込まれて落ちそうでこわかった。たまたまそこを小さな船が通りかかり、その船頭さんがいくらいくらで乗らないかと上にいるお父さんに声をかけてきた。乗ってみたかった。小舟などに乗ったことがないからだ。何回か大きな声で値段の交渉をしていたが、まとまらなかったらしい。また歩きはじめた。がっかりだった。やがて細い道を下に降り、岩の間にある十六羅漢を数えて歩いた。
 こんな記憶があるのだが、それはもっと後の年のことかもしれない。でも、A子ちゃんは吹浦に行ったときの記憶があまりないというし、B子ちゃんは吹浦の道を歩いたことをうっすら覚えているだけだということは、二人ともまだ幼かったころに行ったこと、つまり私がその年に酒田に行ったことを示しているのではなかろうか。
 その年のいつごろだったろうか、カクライ君のお父さんから男の子が生まれたとの手紙が来た。名前はカクライ君の名前のうちの一字をとったとのことだった。当時は男の子の誕生を望む時代だったし、カクライ君の生まれ変わりだと酒田の家では大喜びしたようだった。

 1945(昭20)年には、東北地方の都市も空襲を受けるようになった。酒田も空襲を受けた。その話は後でカクライ君のお父さんから聞いた。米軍機が2機酒田上空を通った、港にある日本軍の高射砲陣地がそれをめがけて高射砲を撃った、そしたら突然米軍機が引き返してきて爆撃を始めた、何しろ高度が違うのだから高射砲の弾が当たるわけはない、なのにそんなことをするから、そのまま通り過ぎる予定だったのかもしれないのに、酒田は空襲を受けることになったのだなどと話をしてくれた。私も母の実家のある山寺村に疎開させられ、そこで空襲を受けるなどひどい時代になった。加倉井家と私の家とのつきあいも手紙のやりとり程度になった。
 戦後はさらに混乱が激しくなり、交通事情、食糧事情から旅行になどいけなかった。山形と酒田の距離はさらに遠くなった。
 にもかかわらず、そうしたなかの1946(昭21)年に、私の父が酒田に行ったらしい。それを知ったのはカクライ君のお父さんから、それも50年以上過ぎてからのことだった。
 初夏のころだったようだが、突然私の父が一人で酒田駅に現れたと言うのである(註1)。列車の本数も少なく、時間がものすごくかかるときだからカクライ君のお父さんは驚いたらしい。海を見に来たので行き方を教えてくれという。勤務中だから案内するわけにもいかない。家に寄れといっても一人で海に行きたいという。それで道路を教えてあげた。何時間か過ぎて戻ってきた。そして、気持ちの整理がついたからとお礼を言い、その日の夕方の列車でまた山形に帰った。こう言うのである。
 そんなことはまったく知らなかった。私にはもちろん祖父母にも酒田に行くとも行ったとも言わなかったからだ。
 しかし、そのことをお聞きしたときにすぐにその事情が飲み込めた。
 その年の4月初め、私の母が死んだ。このことについては前に述べた(註2)が、その後父は母の妹、つまり私にとっての叔母を後添いにもらえと周囲から迫られた。このときの父の苦しみについても前に述べた(註3)が、考えて見たら父が酒田に行ったのはちょうどそのころだった。もしかすると自分の気持ちを決めるために行ったのかもしれない。一人黙って日本海を見ながら、父は何を考えていたのだろうか。しかし父にそれを確かめるわけにもいかなかった。
 その後もいろいろあったようだが、母の死後1年経って父は再婚し、私は叔母を母として迎えることとなった。
 カクライ君のお父さんが私の母の死を知ったのはその後だった。そのときに何で父が一人で酒田に来たのかを察知したようである。それでその後、仕事中で案内も話を聞いてやることもできなかったことをずーっと悔やんでいたという。
 酒田とは、カクライ君の家とは、こんな関わりもあったのである。
(この続きは21日・月曜に掲載する)

(註)
1.このことについては下記の本稿記事でもでも述べている。
  10年12月24日掲載・本稿第一部「☆男の涙」(3段落)
2.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」参照
3.10年12月24日掲載・本稿第一部「☆男の涙」(1~2段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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