Entries

山羊の乳と同級生と酒田の物語(4)



                山羊の乳と同級生と酒田の物語(4)

                   ☆戦後、再び酒田へ

 山形内陸には海がない。だから海を見たことがない子どももいた。それも理由の一つなのだろう、山形市の小学校6年生の修学旅行は日本海沿岸の湯野浜温泉一泊ということになっていた。
 戦後の混乱が少し落ち着き始めた1947(昭和22)年、修学旅行が復活し、私たちも湯野浜に行くことになった。陸羽西線で庄内平野に入ったとき田んぼが山形と違って長四角で大きいことに注意するようになどと先生から言われながら、まず酒田駅に着いた。しばらくぶりの酒田だった。
 駅を降りたら、カクライ君のお母さんが待っていてくれた。父が手紙で連絡しあっていたからだ。お母さんは私を見るなり、「大きくなったのう」と声をかけて私の頭をなでた。行列をつくって日和山公園にすぐに出発である。観光バスがあるわけではないので、当時は歩くしかなかった。カクライ君のお母さんもいっしょに歩いた。お母さんはその列の中にカクライ君と同じTT町で遊んだ近所の同級生を見つけ出した。お母さんがなつかしそうに声をかけた。
 「モリ君、ナカムラ君、しばらくぶりだの、覚えてる?」
 もちろん彼らもカクライ君のお母さんだと気が付いていた。2人はてれくさそうな顔をしていた。お母さんは4年ぶりで近所の友だちと会ったわけだが、もしもカクライ君が生きていればこれぐらい大きくなっていたのかと感無量だったのではなかろうか。
 駅からまっすぐ行ったところの私にとってなつかしい郵便局まで歩いてきたとき、お母さんは私たちに別れを告げた。しばらく歩いて振り向くと、まだこちらを見ている着物姿のお母さんの姿が遠くに小さく見えた。
 やがて私にとってはしばらくぶりの日和山公園に着いた。海を見たことのない同級生はそこで初めて海を見た。その公園にある日本最古の木造灯台などを見た後に家から持ってきたお昼ご飯を食べ、それからまた酒田駅に戻り、ふたたび列車に乗って湯野浜温泉に向かった。

 それから約2ヶ月後の夏休み、カクライ君のお父さんから戦後の列車の混雑も少しおさまったのでまた遊びに来いというお誘いがあった。それで出かけることになったが、まだ小学6年、しかも乗り換えはある、1人では心配だったのだろう、家によく来ていたおばさんに私を頼んだ。そのおばさんは酒田にない野菜や果物をかついで朝一番の列車で山形から酒田に行き、それを売った後に魚を買い、それをかついで山形に戻って売ることで生計をたてている「担ぎ屋」だった。当時はこうした担ぎ屋がたくさんいた。にぎやかな担ぎ屋のおばさんたちに囲まれ、退屈しないで酒田に着いた。
 しばらくぶりで家に着き、座敷にあがった。なつかしかった。聞いてはいたが、家族が2人増えていた。カクライ君の弟と妹である。前にいっしょに遊んだ妹のA子ちゃんは小学4年生、B子ちゃんは小学2年生になっていた。早速遊んだが、年代からして遊びはいつもこの3人だった。

 ある日、お父さんが私たち3人を魚捕りに連れて行ってくれた。まず最上川を小さな渡し船で向こう岸に渡り、それから最上川に注ぐ小さな川のところまで歩いた。川の水はきれいだった。人はだれもいない。静かだった。その岸辺に荷物をおき、お父さんが網を取り出した。初めて見るきれいな網だった。細い白い糸で織られ、下に錘のようなものがついていた。後になってわかったがそれはかすみ網だった。その網を川の流れと直角に仕掛ける。引き上げるまで少し遊んでなさいとお父さんが言うので川岸でみんなで遊ぶ。そのうち網の引き上げが始まる。小さな魚が日光を受けてキラキラと輝きながらたくさん網に引っかかっている。みんなで網から外そうとする。すると指がチクッと痛い。背中にとげがあった。これはつい最近学校で連れて行って見せてくれた教育映画で見たトゲウオというのだろう。ともかくこんな体験は初めて、うれしくてしかたがない。全部とり終えるとお父さんがまた網を整えて川に仕掛ける。私たちはまた遊び始める。やがてまた網を引き上げる。これを何回繰り返したろう。やがて捕れる魚の数が少なくなってくる。そこで帰りの準備をし、また船に乗った。
 夜はその小魚が食べられるのだろうと期待した。しかし食卓に出てこない。翌日わらで何匹も結んで吊して乾かしているのを見た。もしかして干魚にして食べるのかもしれない。と思って期待したがやはり食卓には出てこなかった。それでだしとして使うのだろうということがわかったが、ちょっとがっかりした。何しろ山国育ち、捕まえた魚を食べるという体験をしてみたかったからだ。
 ところで、この小魚の名前だが、そのときにお父さんからこの地域での呼び名を聞いたはずなのに覚えていない。ともかくトゲウオの一種だろうとずっと思ってきたが、それからかなり経過したころ最上川周辺にイバラトミヨというトゲウオ科の魚がおり、絶滅も心配されているというような新聞記事を見た。その写真を見ると、あの時捕まえた魚とそっくりだった。あれはイバラトミヨだった、今はそう信じている。ともかく私はその貴重な魚を捕まえ、直接触れるという体験をさせてもらったことになる。
 最近になってA子ちゃんに聞いたら、私たちの行ったところは宮の浦というところだという。当時の川向こうは本当に静かな田園地帯だったが、今は開発が進み、あの当時とは大きく変わっている。また捕まえた魚はイトヨと呼んでいたとのことだった。写真を見てみると、そうも思える。しかし私はイバラトミヨだと思いたい。

 翌1948(昭和23)年、私の中学1年の夏も酒田に行った。
 カクライ君の弟のS雄君はもう3歳になっており、私を見て最初とまどっていたが、女だけの姉たちにあきていたのだろう、私がどこへ行くのにもついて歩き、話しかけ、遊んでもらおうとした。A子ちゃんやB子ちゃんの言うことはきかなくとも、私の言うことだけはきいた。男の私を兄貴分と思ったのかもしれない。
 家を継ぐ男子としてかなり大事に育てられているという感じだった。A子ちゃんやB子ちゃんに対する扱いとは違っていた。男女同権とはいいながらもまだ男尊女卑の時代、とくに長男が大事にされる時代、こんなことはどこの家でも普通だったし、とくにカクライ君の死があったからなおのことだったのだろう。
 そのとき感じた。もう私の役目は終わったと。お父さんたちは私を酒田に呼ぶことで酒田でいっしょに遊ぼうというカクライ君との約束を果たしてきた。また、もしもカクライ君が生きていたらこれくらい大きくなっていたのかを思い出させる役割を私は果たしてきた。しかしカクライ君の役割はすでにS雄君が果たしている。そんなときに今さら私がカクライ君を思い出させてどうなるのか。かえって思い出させない方がいいのではないか。酒田に来るのをやめるべき時期に来ている。こんなことを感じた夏だった。

 その帰りにこんな事件があった。
 もう中学生だからと1人で酒田に来たのだが、帰りも1人で帰ることになった。カクライ君のお父さんが切符を買ってくれ、列車のなかに入ったら、たまたまお父さんの友人で山形駅に勤務している方が座っていた。そこでお父さんは私を山形まで連れて行ってくれとその方に頼んだ。やはり1人では心配、これで一安心という顔をしているお父さんと酒田駅のホームで別れた。
 清川駅を過ぎて最上川の景色が左手に見えるようになったころである。車掌さんが検札に来た。切符を出そうとポケットをさぐった。ない。背負っていったリュックを開けてもない。いつどこでお父さんから切符を受け取り、どこにそれを入れたのか、思い出せない。もしかしたら受け取らなかったのではないか。車掌さんは近づいてくる。どうしようか、お父さんの友人の方もさがしてくれた。見つからない。困りに困ってしまった。そしたら、その友人の方が黙って座っていなさいと言う。心臓はドキドキする。いよいよ私たちの席のところに来た。私は知らぬふりをして窓の外を見る。車掌さんは友人の方の切符を切り、そのわきに座っている私に気が付かないようにして通り過ぎた。ほっとした。しかしどうして私の検札を見逃したのか、いまだにわからない。もしかして車掌さんは友人の方と顔見知りで、私をその方の連れと見て検札しなかったのかもしれない。
 これで助かったが、次の問題は山形駅の改札口を出るときである。ここではどう言えばいいのだろうか、また難題にぶつかることになる。困ったなと思っていたら、その友人の方は、私の後についてきなさいという。そして山形駅に着いたら駅の裏の方に歩き出した。少し行ったらそこに職員の方だけの通用口があった。そしていっしょにそこから駅の外に出た。こうして切符なしで出られた。その友人の方にお礼を言って別れ、無事に家に着いた。
 一方、カクライ君のお父さんは、切符を私に渡すのを忘れたことに、出発した後気が付いた。慌てて国鉄電話で新庄駅に電話して事情を話し、さらに山形駅にも連絡し、切符をもっていない子どもがいたら、事情はこうなので、山形駅でおろしてくれと頼んだ。ところが無賃乗車の子どもはいなかったという。山形駅でも、切符をもたない子どもが改札口を通らなかったという。どうしたのだろう。今のように電話のない時代だ、私の家に連絡しようがない。家に帰ってこないと言う電報も私の家から届かない。ということは無事に着いたのだろうが、どうしたのか心配していた。そしたら四日ほど過ぎて私の父から葉書が着いた。当時は郵便が届くのもかなり時間がかかった。その葉書には、無事着いたという知らせと御礼しか書いていない。これで安心はしたものの、切符なしでどうして行ったのかは書いていないので、一体どうしたのか不思議でしかたがなかったと言う。後でお会いしたときにそのときの話をし、それで事情がわかったとみんなで大笑いをしたものだった。

 1949(昭和24)年は春に酒田に行った。つくしを見たのだから、4月の末か5月初めだったのではなかろうか。カクライ君の七回忌の法要で呼ばれたのかもしれないのだが、記憶がさだかではない。もしもそうだとすると1948(昭和23)年の春になるはずだが、私は49年の春と記憶している。
 何でだったかわからないが、A子ちゃん、B子ちゃんと田んぼの中の線路のところまで散歩をした。線路わきにつくしがたくさん生えていた。山形なら放っておかない、すぐに採って食べてしまう。ところが誰も採っていないようすである。もったいない、採って食べたいというようなことを言ったら、2人が笑う、つくしを食べるなんてと。逆に私は驚いた。酒田の人はつくしを食べないのだ。つくしは全国的に食べられているはずだが、食べない地域もあるのだということをこのとき初めて知った。
 それはそれとして、ともかくカクライ君が亡くなって7年目、そろそろ区切りのころになっていた。そして私が今までのように夏に遊びに行くことはなくなった。けれども付き合いはその後も続いた。

 その年の秋遅くだったと思う、小学校6年のA子ちゃんが山形県庁で表彰されることになったというので、お父さんが付き添ってA子ちゃんが山形に来た。そして一晩私の家に泊まっていった。
 翌朝、早い時間の列車で帰るというので、まだ暗いうちに私の家を出て駅に向かった。父と私が見送りのためにいっしょについていった。近くの八幡神社のなかを通ろうとしたとき、山形駅から汽笛が鋭く大きく響いた。父が何か事故でも起きたのかとカクライ君のお父さんに聞いた。するとこんなことを教えてくれた。何か危険が迫ると、ポッポッポッと短く何回も鳴らす。それで終われば何のことはないが、その後にポーッと長く鳴ったら事故が起きたという知らせだと。その他、汽笛についていろいろ教わったが、それ以外忘れてしまった。
 その後もA子ちゃんは何回か山形に来ており、私が大学に入ってからは仙台にも一度来ている。また私も大学時代に一度酒田におじゃましている。
 こんなことで、ときどき往き来はしていたが、前のようにはなくなった。私の父とカクライ君のお父さんとの葉書のやりとりはあった。しかし徐々にそうした連絡も少なくなってきた。
(24日・木曜に続く)
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR