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山羊の乳と同級生と酒田の物語(5)


                山羊の乳と同級生と酒田の物語(5)

                  ☆まだ続いている「物語」

 東北大の教員になり、調査や講演で酒田を何十回となく訪ねた。でも、1960年以降はカクライ君の家に立ち寄ることはしなかった。もうカクライ君のことは遠い昔のことになっているし、A子ちゃんやB子ちゃん、みんな大人になってもう家にいないかもしれないし、私のことをよく知らないS雄君に世代交代しているかもしれないし、もう私は過去の人間、私などが行くべき時は過ぎたと考えたからである。やがてカクライ君の家からの便りも途絶えた。
 でも、酒田に来るたびにカクライ君のこと、酒田の家やみんなのことを思い出し、胸が痛くなったものだった。いつごろだったろうか、一度だけ家の前を通ったことがあった。県庁の車に乗ったときちょうどそこを通ったのである。速度を緩めてもらって、黒い塀と玄関をなつかしく見た。

 後でB子ちゃんから聞いた、山形を列車などで通るたびに昔のことを思い出して胸がキュンとなり、涙が出てきたものだったと。また、私がNHKのテレビなどに出ているのを見つけると「ジュンイチ君がテレビに出ている」とお父さん、お母さんに電話してくれたとのことだった。私のこと、山形のことを忘れてしまっていたわけではなかった。私と同じように考えていてくれていた。
 A子ちゃんは、山形大学に入学した娘さんを訪ねて行ったときに私とカクライ君の通った〇〇小学校に行ってみたという。亡くなった兄がここに通っていたと言ったら、校長室に通してくれた。そこで校長に話した。
 「兄は二年生で亡くなり、その時学校近くの級友が病院まで毎日山羊の乳を運んで飲ませてくれた」
 こう話しているうちに涙が止まらなくなったという。
 校長は校舎の中を案内してくれ、スロープ階段のところに行ったとき、この階段と女性校長は日本初だったと教えてくれたという。私と加倉井家をつないだスロープ階段、もう今はないそこを、A子ちゃんは歩いてくれた。

 それから長い時を経た1993(平成5)年、山形の私の父から電話があった。カクライ君のお父さんから電話があった、カクライ君の五十回忌の法要をいとなむので来てくれとのことだったと。そうだった、もうそんなに月日が経っていたのだ。改めて時の流れを感じながら、もちろん行く、日程も大丈夫だと伝えた。私の父もいっしょにとのお話だったようだが、父は脳梗塞の後遺症が出始め、旅行も大変になっていたので、私一人で行くことにした。
 法要の日、酒田駅から家までゆっくり歩いてみた。もう舗装されて砂の道ではなくなった道路を歩きながら、カクライ君の家に着いた。
 お父さん、お母さんは私を見るとすぐわかってくれた。お父さんは前から見ると痩せていた。お母さんは美人の面影を残しながらもやはり年を感じさせた。当たり前だ、私だってもう60歳近いのだから、とは思いながらもちょっと淋しかった。
 A子ちゃん、B子ちゃんもすぐにわかってくれた。私もすぐにわかった、二人とも結婚もしてそれなりに年はとっていたが。
 玄関は変わっていた。表の塀も桐の木もなくなっていた。砂の庭もなくなっていた。座敷も昔の面影はなかった。でも、仏壇は昔のまま、あの当時のことを知っているみんなは昔と変わりなく私を迎えてくれ、家を継いだS雄君夫妻も暖かく迎えてくれた。
 法要の後の会席でのお父さんのあのころの話を初めとするみんなの話は胸を打つものだった。連絡が途絶えて以降の加倉井家のみんなの変化もわかった。しばらくぶりでのみんなとのおしゃべりは本当になつかしかった。

 その後、酒田に用事があっていくと、ときどき家に立ち寄らせてもらった。そのときには先にも述べたような私が忘れていたことや知らなかったことなどお父さんとお母さんからいろいろ教えてもらい、またS雄君には小さかった頃のことなどを私から話させてもらった。
 A子ちゃん、B子ちゃん、S雄君とは年賀状のやりとりもするようになった。仙台にも遊びにきてくれた。
 1998年の暮れ、A子ちゃんたちから喪中の葉書が届いた。お父さんが亡くなったというのである。驚いた。と同時に怒った。なぜ私にすぐに教えてくれなかったのか、遠慮されたのかもしれないが、私は遠慮しなければならないような仲だったのかと。結局、お父さんの葬儀には参列できなかった。後でおじゃましてお詣りさせてもらうしかなかった。
 翌99年、私は東北大を定年退職して北海道網走にある東京農大に勤めることになり、また酒田から遠くなった。つい最近B子ちゃんから聞いたのだが、02年の夏にツアーで網走に行った、観光バスでここが農大だと教えられ、さらにその夜ホテルで何の気なしにテレビをつけたらたまたまサハリンに調査に行っていた私がNHKのニュースに出ていた、その偶然に驚いたという。
 2010年、お父さんの十三回忌を親戚縁者だけでやるが、そこに出てくれという案内があった。しばらくぶりでまた加倉井家の皆さん方と会うことができた。その夜は思い出の吹浦にある旅館でみんなといっしょに泊まり、また昔の話をさせてもらった。そのとき、こうした加倉井家と私の物語を記録に残しておこうと心に決めた。

 加倉井家と私とは「物語」としか言いようのない不思議な縁で結ばれてきた。
 小学2年で亡くなった同級生の家を酒田に訪ねていくなどというと、みんな驚く。何でそんな昔のしかも今はいない同級生の家、さらに山形ならまだわかるが酒田にある家といまだに関わりがあるのかと。説明するのはきわめて大変だ。しかも、カクライ君と私がたまたま友だちになったことをはじめ、カクライ君の発病、私の父の発案、カクライ君のご両親の思い等々、さまざまな偶然、必然が重なっている。こうして加倉井家と私の物語ができたことを説明しても、他の人には複雑すぎてなかなかわかってもらえない。たとえば私の父の発案がどうして出てきたのか、カクライ君のご両親がどうして私にそこまでしてくれたのかなどうまく説明できない。それで他人に話したことはなかった。
 しかし、こんなこともあったのだと書き残しておきたいとはかねがね考えてきた。いや、書かなければならないと思ってきた。もちろんこんな私的なことを書いて何の役に立つのかと言われると答えようもない。しかし誰かが読んだときこんな一庶民の歴史もあったのかと何かを感じてくれることもあるかもしれない。また、カクライ君という7歳で逝った子どもがその昔いたこと、その短い人生が多くの人にいろいろな影響を与えたこと、こんなこともあるのだということなどを、一瞬でも考えてもらうだけでもいいではないか。こんなだいそれたことなど考えなくとももちろんいい、私的な思い出としても書いておこう。
 もちろんこれは私から見た物語である。加倉井家からすればまた違った見方があるかもしれない。しかも70年近く経っているので記憶はかなり不鮮明になっており、誤りも多々あるだろう。さらに登場する方に失礼に当たることを書くことになるかもしれない。しかし時間が経てば経つほど記憶は薄れていく。書くのは今しかないかもしれない。
 こんな思いでともかく書いてみた。

 山羊、かつてはどこの農家にもいたのだが、もうほとんど見られなくなった。私の生家でも1963年に飼うのをやめてしまった。それ以降山羊の乳を飲む機会はなくなってしまった。もう飲むことなしに一生を終わるのだろうと思っていたら、何と2003年、網走のある店で、本当に40年ぶりでごちそうになった。なつかしかった。うまかった。きっとあれが最後、もう飲むことはないだろう。
 でも、山羊の乳を飲んて育ち、山羊に餌を食べさせ、乳を搾って家の仕事を手伝い、山羊の乳でここで書いたような「物語」(「優しく、悲しく、温かい物語」と自称したいのだが)を紡いだ子ども時代は、きっと死ぬまで山羊の乳を私の脳裏から離れさせないことだろう。

 今から15年ほど前、私の卒業した山形市立〇〇小学校の建物は老朽化を理由に解体されてしまった。かつて小学校としてはもっとも近代的と言われた鉄筋コンクリートの建物それ自体はもちろん、そうした建物をつくった教育行政、疎開の受け入れと送り出し、軍需工場への転換や米軍による接収(註)等々の戦前戦後の歴史の生き証人としても文化財的価値があると思えるので、何とか保存してもらいたかったのだが。
 あのスロープ階段はもうなくなった。カクライ君のお父さんも、私の父もいなくなった。世の中は大きく大きく変わってしまった。
 私も75歳を過ぎ、校舎と同じく老朽化し、解体寸前となってしまった。しかし、そうなっても私の脳裏にはあのスロープ階段が、クリーム色の三階建ての建物が鮮明に残っている。そして酒田と聞くと、酒田駅に着くと、以前と同じように一瞬胸がキュンとする。酒田にはカクライ君の年老いたお母さんとS雄君夫妻が住んでおられるだけとなってしまったが、この酒田を思う気持ちはこれからも死ぬまで変わることはないだろう。
(この章はこれで終わり、次回からは別のテーマで、28日・月曜より掲載する)

(註)
11年2月9日掲載・本稿第一部「☆国民学校、そして疎開」、
11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」、
11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」参照

(追記・13年10月27日)
 このブログを読んだ大阪に住むH叔父から、カクライ君のお父さんにお世話になった記憶があるとの連絡があった。下記の本稿記事で前に述べたように、母方のH叔父は次三男の宿命と当時の社会情勢から戦争さなかの1943(昭18)年16歳で満州に技術工として送られたのだが、44(昭19)年 新京工業大学に推薦入学したのを契機に一時帰国、山形にしばらくぶりで帰ってきた、ところが帰りの汽車の切符が当時の交通事情からとれない、困っていたところ酒田に戻って酒田駅に勤めていたカクライ君のお父さんに私の父が頼んでくれ、「酒田駅経由日本海周りで帰れるように手配してもらった、それで帰ることができ、本当に助かった、カクライ君のお父さんから切符を受け取ったときの酒田駅のホームの光景、いまだに記憶に鮮明に残っている」、こういうのである。驚いた、まったく私は知らなかった。戦時中満州にいたH叔父はカクライ君のことなど知っているはずはないと思っていたのだが、こんなことでお世話になっていたのである。こんな縁もあったのだ、また改めてその縁の深さに驚き、ここに付記しておくことにした。
(記)
10年12月27日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(3段落目)
11年2月14日掲載・本稿第一部「☆里の秋」(2段落目)

                                                
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コメント

[C46] ほっとしました

縁は異なもの…を読み通させていただきました。
  • 2013-10-24 20:47
  • Shusaku Ito
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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