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熱源―電気と非更新資源へ―


                 続・今は昔、思いつくまま(3)

                 ☆熱源―電気と非更新資源へ―

 電熱器、今の若い人たちは知っているだろうか。ちょっと心配なので説明させてもらうが、直径30㌢くらいの丸い素焼きの陶器(大小、形状はいろいろあるが)に蚊取り線香のように渦巻状の溝が掘ってあり、その溝にコイル状のニクロム線が敷かれており、その線に電気を流すと赤く熱せられるので、その上に薬缶(やかん)をおいてお湯を沸かしたり、鍋をおいて煮たり、網をおいて焼いたりする、あるいはそれをそのまま暖房として利用するというものである。なお、当初私たちはそれを電熱器と呼んでいたが、やがて「電気コンロ」と呼ばれるようになった。
 私の中学、高校のころ(1950年以降)にそれを見たはずなのだが、生家では使わなかったので、いつどこで初めて見たか正確には覚えていない。強く印象に残っているのは、1954年、私の入った学生寮でのことである。
 その寮は新しくできたばかりの当時としてはきわめて近代的な建物で、2人1室の2段ベッド、暖房はスチームだった。しかし、燃料費節減で暖房は夜早く消すために部屋はいつも寒かった。そこで火鉢を買い、そこに炭を熾して手足を温め、部屋を暖めた。いうまでもなくこんなことではなかなか暖まらないので、服を着込んで寒さをしのぐより他なかった。布団の中に入っても当然寒い。私は生家から行火(あんか)をもってきてそれに火鉢から炭火を移して何とかしのいだ。
 なお、この火鉢でお湯を沸かして飲んだり、家から持ってきた餅を焼いたりもした。ただし、この火力では炊事はできない。それでもたきには炊事もしたかった。何しろ食糧難時代、一方私たちは食べ盛りの時期、寮の食事では不十分、外食をしようにも食堂もまともになし、あっても値段は高い、それで私たち貧乏学生はいつも腹をすかしていた。それでたまに家に帰ると米を持ち帰る(ただし少量、しかもこっそりとだった、当時は米の持ち運びはヤミ米として禁止されていたからである)。しかし、火鉢でご飯を炊こうと思っても無理である。そこで七輪を買った。そして炭火を熾し、飯盒(はんごう)でご飯を炊く。サンマの季節などはバケツ一杯20円と言う安さなので、魚屋さんから買ってきて焼く。その匂いをかぎつけてみんな集まってきて食べる。かわりに自分もよそで焼いていると食べに行く。あるとき、山形出身の友人と3人で仙台は豚肉が安いという話になり、豚肉ですき焼きをしようということになった。それはいいのだが、鍋がない。やむを得ず洗面器(当時はアルミ製が普通だった)を鍋代わりにして七輪にかけてつくった。ちょっと洗面器は汚かったが、熱を通すから大丈夫、味は変わらないなどと言って食べた。ともかくうまかった。そこまではよかったのだが、アルミの洗面器に油がべったりつき、顔を洗うのにその後かなり苦労をした。
 こんなことで火鉢、七輪で暖房・炊事をしたのだが、もっと便利なものができた。電熱器=電気コンロである。火鉢などと比べると格段の熱、しかもすぐに熱くなり、火を点けたり炭を熾したりする苦労はない、一酸化炭素中毒はない、燃料費はただ(寮の電気を使うのだから)とくる。それでそれを買って使う寮生が現れた。当時の貧乏学生には高価でなかなか買えなかったが、使いたくなる気持ちはよくわかった。
 しかし、寮の役員としてはそれは困る。発熱で使う電力の量は発光とは比べ物にならず、メーターがどんどんあがり、寮の電気代があがるからだ。しかも火事の心配が増える、火鉢の炭火どころではない。ショートして停電する危険もある。
 それで電気コンロ禁止令が出され、私が寮に入ったのはその賛否の騒動のさなかだった。

 この電気コンロに続いて熱源としての電気を認識したのはトースターだった。コンロと同じく電気を通したニクロム線を熱源としているのだが、銀色に輝くトースターに上からスライスした2枚の食パンを入れ、スイッチを入れるとこんがりと焼ける、当時の若い人たちには「文化生活」を象徴するあこがれの電化製品だった。
 このトースターは私たちの結婚祝いとして家内の妹がくれたが、同じく結婚記念として私の父方の叔母が電気釜を贈ってくれた。これは正月の福引の一等賞品で当たったもの、自分の家では使わないからとくれたのである。2人とも勤め、家内の勤務時間は不規則長時間だったので、これは便利と遠慮なくもらった。当時は開発されたばかりでまだ珍しくかなり高価だったのだが、何とそれを利用することになった(炊いたご飯はあまりおいしくなかったが)。
 60年代、こうして私は熱源としての電気を利用することになった(ご飯好きの私のこと、トースターはあまり使わなかったが)。
 もう年代は追わないことにするが(忘れてしまったからでもあるが)、そのころから現在までの約50年間、さまざまな電気製品が家庭に入り込んだ。私の場合、洗濯機など動力源として電気を使った電気製品を除いて、つまり熱源として電気を利用した製品についてだけ見れば、電気こたつ、電気あんか、電気毛布を入れている。こうして炭火を利用したこたつ・あんかは電気製品に変わってしまった(註1)。
 しかし、「火」つまり物質の燃焼を利用した暖房、炊事、給湯は続けてきた。
 まず、かつての囲炉裏、火鉢に代わったのは石油ストーブで、電気ストーブは使わなかった。今も電気での冷暖房はほとんど使っていない(何かの時のために一応備えてあるだけである)。
 炊事用としての熱源は、最初は石油で石油コンロを使ったが、後にプロパンガスでのガスコンロ、現在都市ガスでのガスレンジに変わり、電気を利用しているのはさきほど述べた電気釜、電子レンジ、電気パン焼き器だけである。
 風呂のお湯は最初は鉄砲風呂で薪、亜炭を使って沸かしていたが、やがて石油釜となり、現在はユニットバス・都市ガスに変わってしまった。
 このように、一部火は使っているといっても、暖房・炊事等家庭生活に必要な熱エネルギーは電気、石油、ガスになり、薪炭を利用するのはちゃんちゃん焼き(註2)やバーベキューをしたり、おいしく食べようとたまに七輪で炭を熾して魚を焼いたりするだけになってしまった。
 私の家だけではない、町場にある家のほとんどがそうなってしまった。農家もそれに近くなってきた。それでも薪ストーブを使ったり、かまどを利用したりしている家がたまにあるが、その火を見るとほっとしたものだった。

 90年代になってからではなかろうか、オール電化住宅が華やかに宣伝されるようになった。照明はもちろん炊事、給湯、暖房等々、家庭生活にかかわる光源、熱源、動力源はすべて電気にしようというのである。そして直接火を使わないので「安全」、「クリーン」、「省エネ」だと言う。たしかに火事をおこしたり、火傷したり、一酸化炭素中毒を起こしたりしないし、前々回述べた煤が出たりもしないという面ではいいかもしれない。住宅の気密性が高まっているからなおのことだ。「省エネ」かどうかここで問題としないことにすれば、「安全」、「クリーン」という面ではまさにその通りであり、便利、手軽でもある。
 しかし、「火」のない生活、本当にそれでいいのだろうか。人間は火を使うことによって人間となったのだが、その火を使わなくなることは人間としての退化ではなかろうか。火に触れば火傷をするし、火事すら引き起こす、火は便利であると同時に危険なもの、こわいものであることがわからない子どもたち、火を使いこなせない子どもたち、こんな子どもたちが大きくなって世の中の大半をしめるようになったら、世の中どうなるのだろうか。
 前に『あぶる』という言葉には二つの意味があると述べた(註3)が、私たちは日常の暮らしの中で、とくに教わりもせずに、それを学んでいた。その他、『煤』はもちろんのこと、『いる』、『ほうじる』、『いぶす』、『こがす』、『火をおこす』、『火を通す』、『火の粉』、『火だね』、『たき火』、『消し炭』、『燠(おき)』などという言葉をしょっちゅう使っていた。
 今の子どもたちはこういう言葉を知っているのだろうか。とくにオール電化の家の子どもたちはわかるだろうか。これらの言葉は料理人などの特殊な用語となり、やがては死語になるのだろうか。そのうち、『焼く』、『燃やす』、『火にあたる』、こんな基本的な言葉まで死語になってしまうのだろうか。

 もう一つの問題は停電になったときだ。
 ただしこれはオール電化住宅だけの問題ではない。私の家だって、ガスや石油を使っている風呂、コンロ、ストーブはすべて電気による点火・調節となっており、停電になったらどうしようもなくなる。便利な生活と言うのは不便なものだ。
 戦中戦後のことを知っているからましてや今の便利な生活は不安になる。電気ばかりではない、ガスや石油が不足し、さらに水道が来なくなったらどうするかまで考えてしまう。備えをしておけばいいといっても、長期にわたったらそれだけではどうしようもなくなる。よその地域から援助がくるまでの我慢だと言っても日本中が不足していればどこからもくるわけはない。被害妄想かもしれないが、何かあったらと考えてしまうのである。
 そこで考えたのが、定年になって通勤の必要がなくなったら山奥の方に引っ越して生活するということだった。
 山奥なら水道が断水しても川の水がきれいなので、生活用水は何とかなる。ガスや石油が来なくなっても、薪ストーブを日常使っていれば、薪の備蓄はあり、いざとなれば野山に落ちている落ち葉や枯れ木を拾ってきて燃やせばいいので、煮炊き、暖房は何とかなる。食べられる山野草も多く、おかずがなかったら採ってくればいい。春秋に採って干すなり漬けるなりして大量に保存しておけばいい。
 しかし、結局はやめた。山奥では車がないと生きていけなくなっているのに、車なし・運転免許なしだったからだ。かつてと違ってバスの路線、本数は激減しており、店も医者も近くになくなっている。とくに高齢化したときの医者通いが心配だ。車を買えばいい、免許をとればいいといっても年をとって乗れなくなったらどうするか。そんなことで悩んでいるうちに、東北大定年、網走移住となり、山奥移住は構想だけで終わってしまった。

 そこで考えたのが、現居住地で薪炭も使う生活、井戸を使う生活をすることである。
 たとえば前々回の記事で述べた網走在住のWMさんのように薪ストーブを家の中におけばいい。しかし、仙台の町の中ではそれはなかなかできない。家々が密集しているので、煙突から出る煙や煤で、さらには火の粉が飛んだりして隣近所に迷惑をかける危険性があるからだ。大きな屋敷にでも住めば別なのだが、もちろんそんな金はない。
 井戸は、かつて家の前にその残骸があったことが示すようにいい水脈があり、実際に最近まで水が湧いていたので、掘ればいい。ところが近くの山の宅地化が進む中で水脈は枯れてしまった。これも無理である。
 やむを得ない、何か起きたらあきらめて死ぬのを待つしかない、年寄りだからそれでいいではないか。

 しかし、私たちの子孫にはそんな思いはさせたくない。何かうまい工夫をして、石油・ガス・電気等の使用エネルギーを減らしながら、火と水をまともに使いながら、便利な安全なしかも人間らしい生活ができるように、人間のまた日本人のつくりあげてきた文化が引き継がれていくように、できないものだろうか。
 原始時代から使われた火、「原始の火」が電気に変わっていく、それはそれでいい。しかしオール電化を大宣伝して火を使わないようにし、多くの電力を使わせ、その電力を得るために禁断の「原子の火」を使う、これだけは勘弁してもらいたいものだ。原発は人間を人間でなくしてしまう危険性があるからだ。
 また、「火」の材料は再生可能な植物資源から石油、石炭、ガス、ウランなどの非更新・鉱物資源に変わってきた。それがどんな問題を引き起こしているか、もういうまでもないだろうが、はたしてそれでいいのだろうか。
 先年の大震災はそんなことをまた考えさせた。だからといって、囲炉裏・火鉢・こたつ・かまどの時代に帰れなどというつもりは、もちろんないが。
(次回以降は毎週月曜掲載とする)

(註)
1.12年7月11日掲載・本稿第四部「☆冬の寒さ対策の今昔」(5~6段落参照)
2.11年10月7日掲載・本稿第三部「☆北海道の食文化」(1段落)参照
3.13年8月12日掲載・本稿第六部「☆冬と野菜」(2段落)、
  13年8月26日掲載・  同 上 「☆かまぼこ、スルメ、塩辛、切りいか」(2段落)参照
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コメント

[C48]

休日には薪を焚きながら、平日もこういう暮らしがしたいと、願っています。時間がないと難しいものです。
  • 2013-11-14 19:31
  • Shusaku Ito
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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