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動力源としての電気―脱穀と搾乳を例に―



               続・今は昔、思いつくまま(4)

             ☆動力源としての電気―脱穀と搾乳を例に―

 人間は人間となって以来その生存と繁殖のために必要な物財を生産してきた。
 そのために人間はそのもつ肉体的・精神的能力を発揮してきたが、最初の頃は手足など自分の身体の能力=人力を直接の動力とし、また作業手段として用いて人間に必要なものを作り出してきた。
 やがて人間はそれをさらに効率よく遂行し、生産の能力を高めるために「道具」(tool)つまり人間の手足の延長としての器具を開発し、それを必要な物財をつくりだす手段として用いるようになった。
 さらに人間は、人力、畜力、水力・風力等の自然力を直接の動力として仕事をする器具もしくは装置=「器械」(instrument)を作り出し、それをも用いるようになってきた(註1)。
 こうして人間はより豊かにより容易に必要な物財を生産できるように努力してきたのだが、19世紀に入って、自然界に存在するエネルギーを機械的エネルギーに変換し、それを動力として目的に応じた一定の仕事をする「機械」(machine)を開発した。これは社会の生産力を大きく高めた。
 農業もこのような段階を経て生産力を発展させてきたのだが、それを米の脱穀作業と牛の搾乳作業を例にして見てみよう。

 いうまでもないが、米を食べるためには稲の茎の上部についている穂から穀粒=米粒の入った籾=籾米を取り離すこと、つまり「稲を扱(こ)く」作業が必要となる。これを「稲扱(こ)き」または「脱穀」というのだが、人間が稲作を始めた最初の頃はきっと左手で稲の穂をもち、右手の指で籾米をむしりとったのではなかろうか。指がかなり痛く、能率も低かったろう。
 それを解決するためにさまざまな工夫がなされたと思うのだが、その一つに「扱箸(こきばし)」という道具の開発があった。私は見たことがないが、竹を割ってつくった2本の棒を手に持ち、その間に乾燥した稲穂をはさんで引いて籾を落としたとのことである。なお、2本の棒を手に持たないで土に刺して扱いたところもあり、棒の長さも地域によりさまざまとのことだが、いずれにせよ手で扱くよりは身体は楽、能率もよかったろう。とは言ってもその能率の低さは説明するまでもない。
 これを飛躍的に向上させたのが「千歯扱き」だった。これは写真等で見たことのある方も多いと思うのだが、槍のように尖らせた細い竹もしくは鉄の棒を何本か櫛の歯のように水平に並べて木の台に取り付け、その歯の部分に稲穂をひっかけて手前に引き、籾米をしごいて取り離すというものである。この千歯扱きは江戸時代後期に発明され、当時は「後家殺し」と言われたと学校で教わったが、稲束のまま一気に脱穀できるので非常に能率がよく、おかげで後家さんの稲扱きの雇われ仕事がなくなり、暮らしが成り立たなくなった、それでこのあだ名がついたと聞いたことを覚えている。
 この千歯扱きを用いて脱穀したのを私は見たことがない。私の子どもの頃、昭和の初めにはもう「足踏み脱穀機」が使われていたからだ。これは明治末に開発されたもので、実物は博物館等で見たことがおありだろうし、本稿第一部でも述べている(註2)ので説明を省略するが、要するに逆V字型の針金を埋め込んだ回転胴を人力=人間の脚の力で回し、そこに手で稲束を差し込んで籾米を稲わらから落とす器械である。「千歯扱き」にくらべたらこの能率のよさは比較にならないことはいうまでもない。
さらに戦後は、この人力の代わりに電気や石油の力で動かす原動機の力で脱穀をする「動力脱穀機」が一斉に普及した。
 私の生家でもそれを導入したが、原動機は電動機(「モーター」と呼んでいたのでこれからそう呼ぶ)なので、足踏みの時代のように田んぼでではなくて電気の通じている家で脱穀をするようになった。
 このことについては前にも述べたが(註3)、棒掛けした稲が乾燥し終わったころ稲束を田んぼから家の作業小屋に運んでくる。小屋に山のように積み重ねられたころ、足踏み脱穀機を大型化したような脱穀機を小屋の戸口の前に据え付ける。それから3~4㍍くらい離れたところにモーターをおく。そしてそのモーターのわきについている直径20㌢くらいの鉄製の車輪(動輪と呼ぶのだろうか)に輪になっているゴムベルトをかけ、さらにそのベルトを脱穀機のわきについている同じく鉄製の車輪にまたかけてモーターと脱穀機をつなぐ。この準備が終わるとモーターについている電線を伸ばし、その先頭にある挿し込みをコンセントに挿し込む。するとモーターの動輪が回転し始め、それがベルトを回して脱穀機の車輪を回転させ、さらにそれが脱穀機の回転胴を回転させ、そこに突っ込まれた稲わらから籾米を叩き落とす。同時にそのさい起きる風の勢いで稲わらのごみ等を開いている戸口から屋外に吹き飛ばす。
 このように動力脱穀機は、モーター、ベルト、それで結ばれた脱穀機、この三つから成り立っていた。だから、機械とは原動機、伝導装置(伝導機と習ったような気がするのだが、これが正しいらしい)、作業機の三つの部分から成ると中学(だと思う)で習ったときはすぐに理解できた。モーターが原動機、ベルトなどが伝導装置、それで動かされる脱穀機が作業機と、見てすぐにわかるからである。まさに動力脱穀機は機械だった。ということは脱穀作業が機械化されたことを示す。つまり、水の流れのエネルギーを電気エネルギーに変え(つまり発電し)、さらにそれをモーターで機械を動かすエネルギーに変え、それをベルトを通じて脱穀機に伝え、脱穀がなされるようになったのである。その結果脱穀作業の能率は人間の脚力に制約されることがなくなったので非常に高まった。
 なお、この農業の機械化はすでに戦前から籾摺り、精米で始まっていた(註2)。ともにモーターが原動機だったが、それ以外にも石油発動機という原動機があることは知っていた。家内の生家の地域(宮城県)ではモーターではなくて発動機を動力にした籾摺り機が使われていたとのことである(註4)。
 もう一つ、原動機として蒸気機関があることは蒸気機関車で知っており、この蒸気機関と紡績機の発明、つまり機械の発明が産業革命を引き起こし、資本主義を成立させた原動力となったこと、そして工業の機械化を急激に進めたことも中学、高校の歴史で習った。
 しかし、農業における機械化はなかなか進まなかった。これは農業が高等生物を対象にしていること、土地を作業の場にしていること、移動作業が多いこと、季節性のあること等々からである。19世紀末に蒸気犂などがドイツの大農経営に取り入れられたこともあったようだが、あまり普及しなかった。
 しかし、ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンの開発と改良は圃場での移動作業の機械化を可能にした。それはまず、耕運機やトラクターの導入を可能にした。さらに、このような原動機(註5)の開発改良と同時に作業機の開発も進み、たとえば田植えや稲刈りまで機械でやれるようになった。かくして20世紀後半から農業の機械化が急激に進んだ(註6)。
 いうまでもなく機械は、人力=人間の肉体的制約を超え、また畜力や自然の水力・風力などの限界を超えた強い力で、また速さで、しかも精確に仕事をするものであり、つまり生産力を飛躍的に高めるものであり、これは社会の進歩であった。
 しかし、1950年以前の私はこんな風に機械化が急速に進むなどとは考えもしなかった。子どものころから農業の機械化を望んでいたのだが、それは無理だろうと思っていた。ましてや家畜の乳搾りなどの微妙な手作業の機械化は無理だろう、手作業しかないだろうと思っていた。

 前に書いたが、山羊の乳搾りは私たち子どもの仕事だった(註7)。
 慣れるまでが大変だった。下手に搾ると山羊はいやがって暴れ、乳を入れる鍋を足で蹴飛ばしたり、それどころか私まで後ろ足で蹴飛ばされたりした。当たり前である。乳は本来子山羊が口で吸うべきもの、それを人間が手指で絞るのだから、そもそもいやがるはずである。何回か失敗しながら、少しずつ覚えるより他ない。
 まず、二つの乳頭のつけねのところを左右それぞれの手の親指と人差し指でおさえ、最初にその右手の両指をぎゅっと締め、それから順次中指、薬指、小指と上から指を閉じていく。そのさいには下に置いた鍋にうまく入るように乳頭の方向を定めておく。すると乳がシューッと細い線状になって下に出る。すべての指を閉じ終ると出なくなるので、次はもう片方の乳頭をつかんでいる左手の指を同じように閉じて行って搾る。それが終わったらまた右手に移る。そんなに強くなく、だからといって弱くなく、それが微妙なのだが(慣れてしまえば何ということはない)、両手両指で代わる代わるこの搾りを繰り返す(うまく言葉で説明できないが)。何回かやっているうちに両方とも出なくなってくる。そこで搾るのをやめて乳の入った鍋をこぼさないように家に運ぶ。
 これで終わりなのだが、山羊でさえ大変なのだから、あの大きな牛の乳を搾るなど、こわいだろうと子どものころは思っていた。ところが、大学の農場実習で初めて搾った時、さすがである、山羊で慣れていたためだろう、ひとりでに指が動き、うまく搾れた。それでも牛はやはり大きい、下手な搾り方をしてもしかして暴れられたらと恐る恐るだった。
 子牛の飲み方を真似たあの乳搾りの微妙な力の入れ方、こんなことは人間の手指でしかできないだろう、まさに手仕事、そう思っていた。だから1頭当たり1回20分から30分の搾乳、それも朝晩、いかに酪農家が大変であろうとも、これはやむを得ないことだった。それに牛の管理や飼料作物の栽培に時間がかかる。だからいかにたくさん牛を飼いたくとも、一人当たり2~3頭飼うのがせいいっぱいだった。
 この乳搾りを機械がやる、それを聞いたときは驚いた。あの微妙な指の動き、それを機械がやれるだろうか、牛が嫌がらないだろうか、傷ついたり乳房炎になったりしないだろうか。そんな疑問をもったのだが、まったくの杞憂だった。やはり大学の川渡農場で初めてその搾乳機、通称ミルカーを見たのだが、牛はおとなしく搾られていた。内側にゴム製のチューブがついた四本のステンレス製の細い管(カップ)を乳頭につけ、カップの内部を電気の力で真空にし、また乳頭を圧迫して乳を吸い出す、その乳をカップの先についたホースで乳の貯留器具に送るのだというのだが、よくもまあ考えたものである。衛生面でも大丈夫とのことだ。しかも1頭当たり5分で絞れるという。これなら飼育頭数を増やすことができる。低乳価を補うための多頭化を迫られていた酪農家は政府の勧めに応じてこのミルカー導入を考えざるを得なくなってきた。
 一方、乳業会社は、牛乳の細菌数など乳質を厳しく言うようになり、牛乳の貯蔵タンクと冷却機を組み合わせたバルククーラーの導入を半ば強要した。
 そこで酪農家はミルカーとバルククーラー、それをつないで乳を自動的に送るパイプラインを導入せざるを得なくなった。
 つまり畜舎にあるミルカーと貯蔵施設にあるバルククーラーをパイプでつなぎ、やはり電力でパイプを真空にして搾った牛乳をバルククーラーに送り、そこで急速に冷却して乳質の劣化を防ぎ、貯蔵して、それを乳業メーカーの集乳車に引き渡すようにせざるを得なくなったのである。
 こうして1970年前後からこのパイプラインミルカーが急速に普及し、搾乳にかかわる作業は道具、器械の段階を経ることなく手作業から一気に機械段階へと進むことになったのだが、それと同時に牧草等飼料作物の栽培にかかわる機械化も進展した。そしてそれらは大幅な省力化を可能にし、一戸当たり飼育頭数の多頭化を可能にした。実際にそれは急速に進んだ(註8)。

 農業の機械化自体は大きな進歩だった。
 しかしそれは農業の資源環境保全的性格が弱まり、農業が地球温暖化を始めとする環境問題の加害者の一員となったことを意味するものでもあった。
 さらに、それは意外な弱点をもっていた。電気などの動力源がなければ農業ができなくさせられたのである。前回と前々回で光源、熱源としての電気について述べてきたが、動力源としての電気も不可欠となってきたのである。酪農における搾乳などはその典型であり、その問題点が明らかになるのは大震災のときだった。それを次に見て見よう。

(註)
1.本稿の下記掲載記事①で述べた唐臼(人力)、バッタリー・水車(水力)による製粉や籾摺り、②で述べた大八車(人力)、・牛馬車(畜力)による運搬などを考えてもらえばわかろう。
  ①12年12月13日掲載・本稿第五部「☆鹿威し、ばったり、水車、踏み車」
  ②12年5月18日掲載・本稿第四部「☆戦前戦後の大八車、牛馬車」
2.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化(1段落目)参照
3.11年4月26日掲載・本稿第二部「☆夏から秋の稲作技術の変化」(4段落目)参照
4.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(2段落目)参照
5.原動機とは「水、風、火、熱、気圧、電気等々の自然界に存在するエネルギーを機械を動かす力(運動エネルギーと位置エネルギー)に変換する機器」のことで、今述べたものの他にタービン(水力、蒸気、ガス)などが開発、利用されている。
6.もちろん、これには下記の記事で述べたような社会的経済的背景もあった。
  11年6月22日掲載・本稿第二部「☆水田の基盤整備の進展」
7.下記の記事で述べたように、戦前から戦後にかけてのことだが。
  10年12月15日掲載・本稿第一部「☆家畜の世話」(3段落目)、
  11年5月23日掲載・本稿第二部「☆自給生産の壊滅」(6段落目)
8.酪農にかかわる機械化については下記の記事でも述べている。そのもたらした影の面についてもそこで述べているが、とりわけ資金面等からそうした機械施設を導入できなかった農家が酪農をやめざるを得なくなり、酪農戸数は激減し、過疎化を進めたことが問題となろう。
  11年7月4日掲載・本稿第二部「☆大家畜生産の発展」(1段落目)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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