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搾乳と震災―電力の地産地消を―



               続・今は昔、思いつくまま(5)

              ☆搾乳と震災―電力の地産地消を―

 岩手県葛巻町で酪農をいとなむNさんご夫婦、本稿第五部でご登場いただいたが(註1)、このお宅でも1971年にミルカーを導入した。20歳代だったお二人は旧来の自給的畑作経営から脱却し、山間地に適した酪農経営を発展させようとしてきたのだが、時代の変化に対応して多頭化すべく導入したのである。そしてこのミルカー導入を契機にこれまでの3頭(うち搾乳2頭)飼育から5頭(うち搾乳3頭)に拡大(註2)した。さらに、78年には近隣の意欲ある酪農家5戸と共同で大型トラクターなどの飼料作物にかかわる機械を導入し、作業も共同で行うことにした。こうして飼料作にかかわる経費節減と省力化も図り、やがて80年ころには約60頭(うち搾乳約30頭)を飼育するにいたった。
 しかし、労働力は二人だけ、やはり限界、60歳を過ぎるころから徐々に頭数を減らしてきたが、それでもあの日、2011年3月11日には、経産牛37頭(うち搾乳牛28頭)、育成牛10頭、合計47頭を飼育していた。これだけの頭数だと仕事が大変なのだが、3月はいまだ寒い葛巻、畑や草地など外での仕事もないので、朝の搾乳を終えた後夕方の搾乳までの時間、二人はゆっくり家の中で休んでいた。
 14時46分、突然葛巻の土地は大きく揺れた。これまで経験したことのない揺れだった。しかも長かった。
 テレビの音が消えた。停電だ。かわって畜舎から牛の鳴き声が大きく聞こえてきた。今まで聞いたことのないような声で泣き叫んでいた。
 揺れが一段落してすぐに牛を見に行ったが、とくに被害もなく、まず一安心である。少しずつ牛は落ち着いてきた。そのうち電気も点くだろう。揺れはたしかに大きかったが、それほどでもないからだ。そう思って家に戻った。
 葛巻は震度4とのことだった。震源地が近いのだが地盤がよかったせいだろう。ただしそれは後でわかったこと、情報源は完全に断たれているので、まわりのことはまったくわからない。だから、あんな被害が出るような大地震だったとはまったく思わず、そのうち停電も解決するだろうと安心していた。
 しかし、午後4時を過ぎても電気はつかない。搾乳、飼料給与の時間だが、電気が来ないので搾乳はできない。やがて暗くなり始めた。放っておくわけにはいかないので、ともかく餌やりに畜舎に行った。餌は人手でやっているので与えることはできた。
 問題は給水だ。いうまでもなく水は不可欠である。餌はなくとも水があれば生きていけるくらい大事なものだ。ところがこれも電気なしで与えることができない。水はポンプで、つまり電気で地下水を汲み上げて飲み水として与え、また畜舎の洗浄等をしていたのだが、それができないのである。
 そこでNさんは考えた、自然の力、落水の力を利用しようと。畜舎の裏側の高台にある小川から畜舎までの間に約50㍍のホースを通し、その高低差つまり水圧(サイホンの原理)を利用して、川から水を持って来ることにした。これで給水は大丈夫となった。
 しかしもっと大きな問題は解決できない。搾乳ができないのだ、電気が来なければ。乳搾りという酪農の根幹の作業ができないのである。それに加えて、畜舎内の電灯が点かないので真っ暗で何もできない。牛は早く絞れと大騒ぎする。乳房が張って痛むからだ。餌を与えない、腹が減ったよりも牛にとっては大きな問題なのだ。
 それでもどうしようもない。明朝になれば電気が来るだろう、それまでがまんさせるより他ない、そう思って耳をふさいで布団に入った。寒い夜だった。

 翌12日、朝早く起きた。寝ていられなかった。やはり電気は来ていない。牛は悲鳴をあげている。放っておくわけにはいかない。手で搾るより他ない。そうしなければ牛の苦痛を解決できないし、病気にもなってしまう。
 そこで朝6時から手で絞り始めた。ミルカーを導入して以来だから42年ぶりとなる。とはいっても身体が覚えているので手搾りは簡単にできる。しかし牛にとっては生まれて初めての経験だ。手搾りをいやがり、暴れる牛もある。それで搾りやすい牛から搾り始めた。
 ところが、1頭搾り終るのに約30分かかる。その昔はもっと短い時間ですんだのだが。1頭当たりの泌乳量がかつてとは比較にならないほど多くなっているからだ。つまり牛の品種改良が進み、乳を出す能力が大幅に高まっているのである。それに加えて前夜搾らなかったので貯まっている。
 夫婦二人で搾るのだが、これではとんでもなく時間がかかる。
 ふと思いついた、乳頭が怪我をしたときに使う「導乳管」(註3)というのがあるではないか、これだと10分くらいで搾り終えることができる。問題はこれを使うと乳房炎になりやすいことだ。できれば使いたくない。でもやむを得ない、町の農業共済組合の事務所に4~5本おいてあるのでそれを借りよう、そう思ってすぐに車を飛ばした。しかし考えることはみんな同じ、他の酪農家も借りに来ていて、もうない。
 結局夕方まで手搾りを続けた。暴れてどうしても搾乳できない牛4~5頭はやむを得ず残して終わりにした。
 24頭を二人で朝から晩まで約12時間かけて搾ったことになる。しかし、その苦労も水の泡、いや乳の泡、苦労して搾った牛乳はすべて畜舎内の通路に流して捨てるより他なかった。パイプラインが、バルククーラーが動かないからだ。貯蔵しておけないので捨てざるを得ない。朝早くから1日稼いで1銭にもならなかった。

 その夜(12日)10時ころ、何と電気が点いた。そこですぐに畜舎に行き、搾りきれなかった牛の搾乳をした。すべて終わったのが11時だった。
 翌13日朝、いつものように搾乳し、バルククーラーに入れた。しかし、今度は乳業会社の集乳車・タンクローリーが来ない。停電の影響で工場が動かないからだという。また牛乳を捨てるより他なかった。
 何とか正常に戻ったのは14日だった。11日の午後から13日までの2日半の苦労でともかくすんだ。

 しかし、これだけではすまなかった。
 それから約1ヶ月後の4月7日の夜中、3月の本震の揺れと同じくらいの余震が襲った。また電気が消えた。翌8日朝、また搾乳できなくなった。
 しかし、前の事態に懲りて集落の酪農家が協力して対策を立てておいた。 町内の電気屋さんから自家発電機を借りて酪農家が持ち回りで搾乳することにしていたのである。それで搾乳は開始時間が遅れただけで何とかできた。しかし発電の時間は搾乳時だけ、バルククーラーは搾乳時にパイプラインでの集乳と一時貯蔵のために使えるだけ、クーラーとして使えない、つまり冷蔵・貯蔵ができない。しかもタンクローリーは来ない。結局、その日搾った牛乳もバーンクリーナーから捨てる他なかった。
 でも、翌8日には電気が通じた。タンクローリーも来た。幸いなことに1日で正常に戻った。

 こうして本震と余震で3日間の牛乳すべて廃棄せざるを得なかった。しかも本震のときには、やはり無理をかけたからだろう、乳房炎等の病気になった牛も出た。
 でも、2日+1日程度の停電ですんでよかった。もしもこれ以上長く続いたら、人間も牛も倒れてしまったろう。
 また夏でなくてよかった。寒さには強いが暑さに弱い牛のこと、夏ならば扇風機もストップするので暑さで牛が熱射病になってやられていたろう。
 Nさんはこう述懐する。

 実は本震のとき、福島の原発事故で葛巻の牧草地も放射能汚染の被害を受けていた。原発から300㌔も離れているのにである。しかしNさんたちはまだ知らなかった。後で知ってそれでまた苦労することになるのだが、このように東北の酪農家は震災による停電と原発事故、つまり電力にかかわる問題で苦しむことになったのである。

 この苦労話(註4)を聞きながら考えた。
 酪農の基幹作業である搾乳の動力源がかつての人力から電力に変わった、本当に楽になった。しかし、落とし穴があった。何かの拍子に停電したら、電気が電力会社から来なくなったら、どうしようもなくなる。一週間も停電が続いたら、牛は苦しみ、病気になり、最悪の場合死んでしまう。脱穀や籾摺りの停電も問題だが、質的に違う。
 人力、手による搾乳のときには考えもしなかった問題が起きるのである。
 だからといって、今さらミルカー、バルククーラーをやめるわけにはいかない。
 そうなると停電対策、動力源の確保を考えることが必要となる。たとえば自家用ディーゼル発電機を備えておくことが必要となる。今回もそれである程度助かった。
 しかし、水、風、薪炭等々自然エネルギーのたくさんある葛巻町でなぜ石油による発電を行う必要があるのだろうか。また不時の事態のためにディーゼル燃料を大量に備蓄しておくわけにもいかない。
 しかも葛巻町では前にも触れたように(註5)風力・太陽光・バイオマス発電などのクリーンエネルギー発電を行っている。そして電力自給率160%を誇っている(註6)。
 この町内の自家発電、地域内発電、これをつまり町内で生産したものを町内で直接利用すればいい。
 ところが、この電力を今回は利用できなかった。電気は東北電力に売られており、東北電力のものだからだ。自給率160%といっても計算上だけ、自分でつくったものを自分で使っているわけではない。つまり地産地消ではないのである。自分でつくったものを東北電力に売り、それを誰かよその人が使い、町民は原発がつくったかもしれない電力を買っている可能性もある。もちろんこれがまったくだめと言っているわけではない。ともかくクリーンエネルギーで電力を生産し、世界的な資源環境問題の解決に寄与し、しかも町全体としては電力の売買を相殺するとプラスになっているからだ。これはこれで今後さらに努力してもらわなければならない。しかし、やはりこれだけでは本当の自給と言えないのではなかろうか。
 もしも本当に自給していたら、自分たちの地域でつくった電気を自分たちの地域で使っていたなら、東北電力の電気が来なくとも電気を使えたかもしれない。震度が相対的に弱かったからだ。地震で一時停電しても町内のこと、故障の修理は容易にできる。そのためには町独自の自家(いや自町)発電・蓄電・送電・配電の体制の構築が必要となる。こうして自分で生産したものはまず自分が使い、余剰は電力会社等に販売し、何かで不足するときは電力会社から購入する、当然そのさいには電力会社の今持っている送電等の施設は相互利用する、こういう体制をつくる必要があるのではなかろうか(私の専門ではないのでこういう発送配電システムでいいのかどうかわからないが)。
 葛巻はそれができる。もうクリーンエネルギー生産は始まっており、大きな成果をあげているのだから。また豊富に存在する急流の河川を利用した小水力発電、森林資源の一層の活用によるバイオマス発電、太陽光発電の可能性もまだまだある。その可能性を生かし、もう一段飛躍した「クリーンエネルギーの町」としてさらに発展させていく必要があるのではなかろうか。
 そして停電など心配せずに安心して機械化・電化・情報化時代を享受し、酪農はもちろん農林業、地域の商工業、観光産業が発展していけるようにするのである。

 もうテレビ時代に入っていた1962(昭和37)年、電気の来ていなかった葛巻町の一地域にようやく電気が通った(追記)。そしてそれは「日本で一番最後に電灯がついた村」と全国に報道された(註7)。
 それからもう半世紀、今度は「日本で一番初めに自分の地域で生産した電力で生産と生活を支えられるようにした町」、「日本で最初に自町発電で電力自給をした町」、「日本初のクリーンエネルギー地産地消の町」と全国に報道される町にしていく必要があるのではなかろうか。そして全国のいや全世界のクリーンエネルギー生産の牽引車となっていく、こんなことは夢物語なのだろうか。

 電気がこなくて、石油がなくて作物や家畜に悲鳴をあげさせてはならない。原発の事故で作物や家畜を死なせてはならない。これは葛巻町だけの課題ではない。農山村はもちろんのこと、すべての地域で電力の自給・地産地消を考えていく必要があろう。生産に生活に光源、熱源、動力源としての電気は不可欠になっている、これを否定するわけにはいかなくなっているからだ。
 もちろん、電力だけではない、多様な動力源の、クリーンエネルギー生産の拡大・開発、地産地消を進めていく必要がある。省エネを図っていくのはいうまでもないが。

(註)
1.13年3月8日掲載・本稿第五部「☆地頭・雇い・名子―ヒエ飯の一背景―」、
  13年3月11日掲載・本稿第五部「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」 (8段落)参照
2.当時は農業構造政策が展開されたころ、農政は5頭飼えば家族労働力で他産業並みの所得が得られる自立経営になれると、規模拡大を指導した。
  11年5月20日掲載・本稿第二部「☆選択的赤字拡大」(4段落)参照
3.私は見たことも聞いたこともなかったのだが、葛巻出身の農経研究者NK君に聞いたら、「乳房炎などで乳頭内の乳管が細くなってしまった牛に,治療の前処理として乳管に差し込んで通りを良くする細い管のこと」で、大きな注射器のような形をしているとのことである。これを健全な牛の乳管に差し込むとそこから細菌が侵入し乳房炎になってしまうリスクがあるのだそうだ。

4.この調査は前の註に出てきたNK君(これまで何度も本稿に登場してもらっている)の協力を得て行ったものである。
5.13年3月11日掲載・本稿第五部「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」(10段落)
6.180%とも言われているが、どちらが正しいのか、わからない。前の註5の項ではこの数字を用いた。
7.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差是正の進展」(1段落)参照

(追記) 
 この年次を1962(昭和37)年と記憶していたので最初そのように書いたが、葛巻村の旧江刈小学校の年表には「昭和32年電気導入」とあったので、私の記憶違いだったかもしれないと思い、いったん訂正しておいた(14.04.23)。しかし、葛巻出身の研究者NK君がその後調べてくれて町のすべての集落に電灯がついたのはやはり1962年であるとわかった。そこでまたもとに戻させていただく(14.05.03)。二度にわたる訂正、お許し願いたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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