Entries

ひとときのゆとり(4)



        ☆二回あった正月―旧暦と新暦―

 かつてはこうした四季折々の地域の祭りや家々の伝統行事のほとんどが旧暦で行われた。
 正月は新暦でなされるようになっていたが、それでも旧暦のお正月も同じように餅をついて祝った。ただしそのときつく餅は保存食の「かき餅」(薄く四角に切って外に干し、からからに乾燥させた餅、焼くか油で揚げるかしてふくらまして食べる)が中心となっており、私の子どもの頃は副次的な行事になっていた。
 なお、この旧正月には、米選機で選別された屑米や砕米のうちの相対的に粒の大きいうるち米に餅米を少し入れて「くだけ餅」をつき、これもかき餅にした。色が黒くておいしくはないが、油で揚げたりすると香ばしくてうまかった。

 この旧正月と新正月のことで、山形の農民詩人真壁仁さんからこんな話を聞いたことがある。
 新暦施行以前の庄内地方では小作料は旧暦の年末までに納めることになっていた。ところが、新歴が施行されると、地主は新暦の大晦日までに納めろと言うようになった。早く小作料が手に入るので安心だし、早くお金を手に入れることもできるからである。しかし農家は困る。脱穀機や籾摺機もない手労働段階では、玄米にするまでにどうしても旧歴の年末までかかるからである。それでも言うことを聞かざるを得ない。農家の仕事はかなり大変になった。農家は地主を恨んだ。
 ところが、酒田の本間家は違った。いうまでもなく本間家は幕末に「本間さまには及びもないが せめてなりたや殿さまに」と謡われたほどの裕福な商人地主であり、明治末には一千町歩(㌶)をこす水田をもっていた日本一の大地主である。その本間家が、小作料の納入はこれまで通り旧暦の年末まででいいとしたのである。さすがは本間さま、農家のことを考えてくれる温情のある地主さまだと農家はありがたがった。
 しかし、実は農民のことを考えてそうしたわけではなかった、こう言って真壁さんは笑う。新暦の年末だと米粒はまだ多くの水分を含んでいる。これに対して、旧暦の年末ころになると、寒の時期を越しているので乾燥が進み、米粒が引き締まって小さくなる。それで、新暦よりも旧暦に納付させた方が、同じ一俵でも多くの米粒が入る。その米粒は暖かい季節になるとふたたび水分を含み、脹れてくる。つまり一俵以上に増える。その「水増し」された分だけ本間家はもうかる。だから旧の年末でいいと言ったのだ。他の地主よりも実質小作料が高いのであり、温情地主などというのはとんでもない話だと。
 真壁さんは若い頃米の検査にたずさわっていたのでこのへんの話はくわしかったのだが、私が戦前の小作争議、地主制のことを調査しているときに雑談の中で話してくれたものである。

 もう一つ 、この旧正月との関わりで触れておきたいのは「寒休み」についてである。
 私の小学校の頃は一月末から二月始めにかけて一週間くらいの寒休みというものがあり、旧正月一日がそのなかに入るときもあった。冬休み以外になぜ寒休みがあるのか、単に寒い時期だからなのか、それがよくわからなかった。いつの頃からだったろうか、次のように考えるようになった。これは旧正月との関係から来ているのではないかと。
 新暦採用当初の明治、大正期はやはり農家のお正月は旧暦中心だったろうと思う。今も述べたように当時は脱穀、籾すり、精米等すべて手労働だったので、いくら新暦で正月をやれと言われてもやるわけにはいかず、旧正月の直前まで働かなければならなかったからである。だから、カレンダーはどうあれ、本当のお正月は旧歴でやることになる。農家と取引している商人などもそれに合わせざるを得なかったろう。当然旧暦の大晦日直前は忙しく、お正月は家族全員ゆっくり休む。子どもも大晦日直前は学校を休んで手伝い、お正月は家族とともに祝い、ゆっくり休んだのではなかろうか。しかし学校を休まれては先生方は困る。だからといって学校に出てこいとはなかなか言えない。やはり正月なのだ。そこで考え出したのが新歴の正月の冬休みは短くし、旧正月の頃に休みを新たにつくることである。しかし、そんな「旧正月休み」などを新暦の採用を強要してきた政府が認めるわけはない。ところがいいことを思いついた。ちょうど旧正月のころは大寒などのもっとも寒い日、大雪の日が続く。そうした時期に子どもたちを学校に来させるのは大変なので、この時期に休ませる「寒休み」をつくりたい。こういう名目で実質旧正月休みの「寒休み」を認めさせたのではなかろうか。もちろん証拠も何もなく、私の勝手な憶測でしかないのだが。
 なお、私の小さい頃の寒休みは旧正月と必ずしも一致しなくなっていた。足踏み脱穀機の導入等、秋から冬にかけての作業体系はかなり変わっていたし、また新暦の正月も社会的に定着してきていたからだろう。こうして徐々に新暦の正月がメインとなり、旧正月はサブになってきた、そう考えたい。
 やがて寒休みはなくなった。戦後いつ頃からだったのか、記憶にない。

 私の小さい頃は、節句など家で行われる行事はほとんど旧暦でなされていた。ただし行政や地域の行事は新歴で行われた。それで、その新暦の行事にそれぞれの家の行事も合わせないわけにいかないものもあった。しかし旧暦の伝統はそう簡単に変えられない。そんなことから新と旧の両方でやられる行事も多かった。今述べた正月がそうだったし、山形伝統の初市もそうだった。
 初市とは、一月十日の日に市内の十日町を中心とする通りにさまざまな出店が並び、市内外の人たちがそこで買い物をするという市である。これは江戸時代からの市の伝統から生まれたものである。すなわち、山形の町ができたとき、九日を除く一日から十日までの名前のついた町、二日町とか三日町とかの名がついた町がつくられ、九の付く日を除く一から十の付く日にそれぞれの町で市が開かれたという。たとえば二日町では二日、十二日、二十二日に市が開かれる。ただし、正月だけは一日から九日まで休み、十日に十日町でその年の初めての市が開かれる。だからそれを初市と言い、町全体の市として、お祝いの意味も含めていろいろな店が出る。またたとえば旗飴のような祝いの菓子が売られる。これは白い半紙の上に黄色い水飴をさいころの六の目のようにぽつぽつと盛りつけてあるものであり、山形特産の紅花が豊作で花商いがうまくいくようにとの祈りをこめて、紅花からつくる紅餅(紅や染料の原料)を花むしろの上に並べて乾燥することを模してつくられたものと言われている。それから、長く伸びた白い根をつけたままのアサヅキ(浅葱をこう呼んだ)が「白髭(しらひげ)」という名前をつけて売られる。長寿の祝い、祈りの意味から、みんな必ずそれを買って食べる。さらに小正月用の団子の木・ミズキが売られる。こうしたお祝いや祈りの品よりも多いのは日用品である。太い木を切り出してつくった臼や杵、まないたなどの木工品、簑や笠、はけごなどの藁工品、ざる、かご、ほうきなどの竹細工等々を売る近郷近在の農家・林家が出す店が並ぶ。さきの白髭も近在の農家が雪の中から掘り起こしてきて売るのである。
 この初市が新と旧の両方開かれるのだが、新の初市は綿あめからおもちゃ、雑貨などの出店、商店街の売り出しなどもあっていわゆるお祭りに近い。旧になると、臼、杵、まないたなどの木工品、藁工品、竹細工などの農家や林家の手作りの品物が多く売られていた。要するに旧暦の初市が昔からの伝統を引き継いだ本物なのである。ただし今はどうなっているのかわからない。そもそも旧の初市が残っているのかどうかもわからない。

 国民学校(小学校のこと、これについては後に述べる)の音楽の教科書にあったこの歌を聞くと、五月の節句を思い浮かべる。
  「鮮やかな 緑よ 明るい 緑よ
   鳥居を包み わら屋をかくし
   かおる かおる 若葉がかおる」
 庭に揚げてくれた鯉のぼりがこのさわやかな緑と青い空のなかに舞う。そして近くから採ってきたみずみずしい菖蒲とよもぎの葉を束ねて屋根に投げ上げ、また病気に効きそうなきつい青くさい匂いに包まれた菖蒲湯に入る。萌える緑は男の子が元気に育つことを感じさせる。これが旧暦の五月の節句だった。
 こうした季節感が新暦にはない。ところが戦後いつのころからか新暦で節句の行事が行われるのが普通となった。しかし、東北の新暦の五月五日はまだ緑が濃くない。寒々とした空で震えている鯉のぼりなんて、とてもじゃないけど五月の節句などとはいえない。
 網走では五月の連休でも雪が降る。雪の中で垂れ下がっている鯉のぼりを見たとき、祝ってもらった子どもが鯉といっしょに風邪をひくのではないかとさえ思った。
 桃はもちろん梅も咲いていない新暦の三月三日のひな祭りなども、とてもじゃないけど季節など感じられない。それで家内は網走で絵手紙にこう書いた。
 『桃の節句は 雪のなか』
 それを見た絵手紙仲間が感心したように言った。
 「そう言えばそうだねえ」
 「なるほどねえ」
 そしてみんな顔を見合わせて大笑いしたと言う。網走では雪の中が当たり前なので、そういえば三月は「桃」の節句だったのだと家内の言葉を見て改めて思い起こしたのだろう。
 暖かい南国では新暦で祝ってもいいだろう。しかし雪国は新暦でいいのだろうか。全国画一の日時でなくともいいのではないか。

 小さい頃、少年雑誌の一月号を見たら、お正月はたこ揚げや羽根突きをして遊びましょうなどと挿絵つきで書いてある。それがよくわからなかった。山形内陸は、正月は雪の中だし、風も吹かないので、たこ揚げはできない。三月から四月にかけて雪が溶けて季節風が吹くときにたこ揚げをするのである。どこの国の話なのか、間違って書いたのかとそのときは不思議だった。
 最近はこうした各地の季節の違いがテレビなどで紹介されるので、そんなことを考える子どもはもういないだろう。しかしそれでもテレビ、ラジオ、新聞雑誌はすべて東京中心になっている。そしてそれに合わせなければ、合っていなければおかしいと感じさせるような雰囲気もある。しかし金子みすずの詩にあるように「みんなちがって みんないい」のではなかろうか。
 節句は旧暦にふさわしい。せめて月遅れにしてもらいたい。現にお盆などは月遅れになり、仙台七夕も月遅れでやっている。全国共通の行事であっても、新暦にこだわらず、地域に応じて、行事の性格に応じて、行事の日にちを変えるということがあってもいいのではなかろうか。

 それはそれとしてともかく農家、農村にはさまざまな楽しみがあった。しかし、こういう楽しみは戦争が始まるとなくなってしまった。
 戦争は、むらのまた家の伝統的な行事を、文化を失わせた。「ぜいたくは敵だ」と禁止され、禁止の命令がなくとも時局柄つつしもうと地域で自主規制した。戦争で大変なときにこんなことをやっていていいのかと忠義面をふりまわし、やめるべきだと居丈高に叫び、それに賛成しないものは非国民だなどというものが必ず地域に一人か二人いたのである。もちろん、やろうにも人もものもないのでやるわけにいかなかったこともあった。
 戦後、それらのいくつかは復活した。しかし消えたままになってしまったものも多かった。


img089_convert_20130126104820.jpg


スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR