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寝押し、洗い張り、着物、足袋


                  続・今は昔、思いつくまま(7)

                 ☆寝押し、洗い張り、着物、足袋

 前に熱を発する電気製品について述べたが、書き忘れたものがある。それは電気アイロンだ。
 私の子どもの頃のアイロンはその熱源が炭火だった。今のアイロンを一回り大きくしたような鉄製の容器のなかに炭火を入れ、その熱でその容器の底を熱して衣服をプレスするもので、上に煙突がついているという代物である。蒸気船か蒸気機関車のミニチュアのように私には見えたものだったが、このアイロンをよく覚えているのはすぐ近くに分家した祖父の弟が仕立て屋をいとなんでいて大きな仕立て台(というのだろうか)に仕立てた衣服をおいてアイロンかけをしているのをよく見たものだからである。
 この炭火アイロンはきわめて高価、だから仕立て屋、洋服屋、洗濯屋などの商売人か金持ちの家しか持っていなかった。
 一般家庭には和裁で使う「火のし」があったが、一々炭火を熾さなければならず、終わったらそれを片付けるのが大変、家事はたくさんあって忙しいので、よほどのことがないかぎり「火のし」を使うことはなかった。
 そうなると衣服のしわを伸ばせない。とくにズボンは立ったり座ったりするので、すぐにしわが寄ってしまうし、折り目なども消えてしまうが、それが直せない。それでも男はまだいい。困るのは女性だ。ひだのついたスカートを一日中はいていたら、ひだ(プリーツというのだそうだ)が消えたり、しわくちゃになってしまう。とくに女子高生の制服がそうなるとみっともないし、先生から怒られてしまう。だからといって毎日「火のし」をあてるわけにはいかない。ましてやクリーニング屋に出すわけにもいかない。
 そこでやったのが、「寝押し」だった。寝る前に、形を整えたズボンやスカートを布団の下に敷き、寝ている間にその人間の体重の圧力で、自然のうちにしわをのばし、折り目をつけるのである。寝ながらにしてやれるのだからこんな楽なことはない。
 問題は、二重線や、変な折り目ができることがあることだ。失敗した時は簡単に修正できない。不器用な私などは失敗が多かった。だからというわけではないのだが、私はあまり寝押しなどしたことがなかった。高校の時の同級生も大半がそうだった。みんなあまりしゃれっ気はなし、当時の衣料事情からして替えの制服などなし、いつも同じよれよれの制服を着ているのが普通だった。だから私のズボンもいつもしわくちゃのまま、折れ線がどこにあるのかわからず、膝頭は丸くなっていた。ピシッと折り目をつけてくる同級生もいたが数は少なく、硬派だった私などはそれを軽蔑すらしていた。大学に入ってからもそうだったが、あまりにもズボンがよれよれになるとしかたがなく寝押しをした程度だった。
 しかし、もう今はそんな寝押しなど必要はなくなっている。
 電気アイロンという便利なものが安く手に入るようになったからだ。1970年代ではなかったろうか、ほとんどの家庭にあるようになった。簡単に熱くなるし、火の始末も必要なし、そのうち温度調節があっていろんな種類の衣服に対応でき、だれでも簡単にかけることができるようになり、寝押しなどしなくともよくなったのである。
 そればかりではない。いつまでもとれない折目をつける加工(ウールプリーツ加工というらしい)がなされた衣服が供給されるようになった。しかもそれはとくに値段が高いわけでもなさそうである。こうなるとアイロンかけも必要ない。
 どうしても自分でやれないような場合はクリーニング屋に頼めばいい。今のクリーニング屋は以前と比べたらきわめて速く仕上げてくれる。
 だから今の若い人は寝押しなどしたことがないのではなかろうか。もしかするとその言葉すら知らないかもしれない。「寝押し」、やがて死語になってしまうのだろうか。

 それで思い出した、「洗い張り」という言葉、これはどうだろうか、若い人たちはわからないのではなかろうか。一般家庭でももう死語となりつつあるのではなかろうか。
 これは、着物の洗濯のさいにやるもので、着物を反物状態にほどいて水洗いし、それにのりをつけ、しわを伸ばして張り板(反物の幅に合わせた大きさの板、2㍍×40㌢くらいだったと思う)に張り、乾かすことをいう。もう一つ、張り板ではなくて、両端を尖らせた折り曲げることができる程度に細い竹の棒(長さは40㌢弱くらいではなかったろうか)、これを伸子(しんし)というのだそうだが、これを何十本か使って干す伸子張(しんしはり)というやり方がある。つまり、洗濯してのりをつけた布の左右両端に、伸子の尖らせた両端を刺して、布が縮まないようにぴんと張ってしわを伸ばし、その布の前後を柱などに吊るして乾かす。うまく説明できないが、そうして乾かした布をまた着物に仕立て直して着るのである。
 私の小さいころ、祖母や母が農作業の暇を見て天気のいい日によくこの洗い張りをやっていた。もちろん私の生家だけではない、どこの家でも庭によく干していたが、なぜかこの洗い張りの光景が私は好きだった。
 しかし、もうこんな光景は見たことがない。着物を着ることがほとんどなくなったせいだろう。

 私の小さいころ(昭和の初期)は、着物が普通だった。洋服を着ている大人は役所などに勤めている人たちで、それも外出のときだけ、家の中では着物だった。
 でも、前にも書いたが(註1)、着物を着て学校に行ったり、外で遊んだりする子どもはほとんどいなかった。
 ただし、赤ん坊のころは着物だった。私の1歳のときの写真はみんな着物だし(註2)、弟妹たちもそうだった。これはおしめを取り替える時の利便性からかもしれない。
 しかし、外に出て遊ぶころになるとみんな洋服になった。
 ここまで書いてふと思い出した、道路を挟んで2軒隣りの畳屋のケンちゃん、私と同い年だったが、着物を着て遊んでいた。でも、それを何も変に思わずいっしょに遊んでいたことからして着物を着ている子どもも少なくはなってもまだかなりいたということなのだろう。山形市の郊外にある母の実家に遊びに行くと、周辺の子どもたちの多くは着物を着ており、とくにそれを奇妙にも思わなかったことを覚えている。しかも、夜の寝巻は着物だったからなおのことだろう。
 なお、寝巻の下は裸だった。寝るときは下着を全部脱ぎ、当然パンツも脱ぎ、素っ裸になって着物を着た。真冬でもそうで、綿入れの寝巻の下は裸だった。なぜだったのかわからない。
 そういえば、いっしょに遊んでいるときの畳屋のケンちゃんは着物の下にパンツをはいていなかった。立小便をするときに着物をまくってそのままおしっこをしていたのを思い出す。

 ちょっとここで横道にそれるが、このケンちゃん、小学2年のとき(もうそのころは洋服で学校に通っていたが)、自分の家の裏庭にあるサクランボの木に登って落ち、内臓がおかしくなったとかで1ヶ月ぐらい家で寝て亡くなってしまった。お見舞いに行ったとき、病的に腫れ上がった顔で、乳歯の生え換えで欠けた二本の前歯の見える口を開けて、私に笑いかけたのを思い出す。今の医学水準なら当然治っただろうが、そのときに会ったのが最後となった。その後、私も含めて近所の子どもたちは親などから厳しく言われた、サクランボの枝は折れやすいから気をつけろと(登るな、実を採るななどとは言われなかったが)。なお、先生に言われてケンちゃんの葬式の時に弔辞を読まされた(大半は先生が書いてくれたものだが)。弔辞を読むのは私にとってこれが最初だった。

 話は戻るが、なぜ着物の下にパンツをはかなかったのだろう。大人の男は着物の下にふんどしをつけていたのだが、でも大人の女は腰巻のみ、その下には何もなしだった。子どもは女並み、それで寝巻=着物を着たときは下に何もはかなかったのだろうか。パンツを買うのには金がかかる、洗濯も大変、洋服を着るときにはパンツもしかたがないが、着物の時にはそんなものなくともいいだろう、こんなことからなのだろうか。
 ここでまた思い出した、昔はパンツとは言わなかった、「猿股」と言った。それから女の子の場合は「ズロース」と呼んでいた。いつごろから、どうして、パンツに変わったのだろう、パンツ、猿股、ズロース、それぞれどこか違うのだろうか、考えて見れば不思議である。
 ついでに言うと、祖父や父はふんどしをしていたが、私がまともにふんどしをしたのは大学の体育実習で海に水泳に行ったとき、六尺ふんどしをするようにと言われたときだけだった。これをすると、溺れた場合助けるのに楽だからだそうである。私の若いころにはもうパンツが普通になりつつあった。
 このふんどしと言う言葉は相撲などもあって使われているが、猿股、ズロースなどはもはや死語となってしまったのではなかろうか。

 そういえば、今の若い人たちは足袋を履いたことがあるのだろうか。
 足袋は着物を着るさいに履くものだが、私たちの子どもの頃は洋服を着ても足袋を履いていた。ただし、夏は素足で過ごした、いや春から秋にかけて素足でと言った方がいいだろう。家の中でも外でも同じだった。足袋は冬だけ履くものだった。つまり足袋は暖房のためであり、だから冬のもの、家の内でも外でも履いているもの、寝るときだけ脱ぐものだった。なぜ靴下でなかったのかわからないが、足袋の方が温かかったからだろう。当時は室内でも素足などでいられたものではなかった。寒くて冷たくて、床板はもちろん畳も素足では飛び上がるくらい冷たかった。厚地の足袋でないと耐えられなかった。もちろん毛糸の靴下など厚地の靴下もないわけではない。しかし当時普通だった下駄や足駄は靴下では履けない。足袋なら下駄・足駄はもちろん長靴もはける。ただし、革靴を履けば足袋と言うわけにはいかない。それで靴下ということになったろうが、子どもたちは革靴など持っているものはほとんどいなかった。もちろんズックは買ってもらった。小学校入学のときズック袋を持って行った記憶があることはそれを示している。つまり校内の内履きはズックだった。しかしそのときに靴下をはいた記憶はない。素足にズックだった。靴下はすぐに切れたし、洗濯も大変だったからだろう。なお2年生ころはズック袋などもっていかなくてよくなった。戦争激化によるもの不足でズックがなくなったのである。だから校内は素足だった。そうなると冬は足が冷たい。そこで履いたのがわら草履だった。当然素足で履いたが、それでは真冬は寒い。そこで足袋を履く。草履に靴下というわけにはいかないからだ。通学のときは足駄か長靴(雪国であるためにズックなど履いて外に出るわけにはいかない)だったが、足駄は足袋でなければならないし、長靴は足袋でもちろん履ける。このように足袋は便利な上に丈夫、しかも暖かい。そんなことからだろうと思うのだが、ともかく私は高校のときまで足袋で過ごした。そしてときどき足袋の爪がとれたり、穴があいてしまうと、母に頼んで直してもらったものだった。
 洋服に足袋、私たちには何の違和感もなかった。洋服に下駄もそうだった。
 まさに私たちは衣類、履物に関しては和洋折衷だったということができよう。もちろん、どちらかといえば洋風になっていたが。

(註)
1.戦前の衣服、履物については下記記事でも述べているので参照されたい。
  11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」
  11年1月21日掲載・ 同 上  「☆機能的かつ貧困の象徴だった野良着姿」
2.と言っても3枚しかない。それでも当時としてはこれで多い方だったようだ。小さいころの写真のない子もいた。このことについてはまた後で述べたいと思っている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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