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戦前から戦後の写真事情


                 続・今は昔、思いつくまま(10)

                 ☆戦前から戦後の写真事情

 大津波で流された家の跡を訪ね、瓦礫のなかにたまたま残っていた写真を見つけた被災者が、大きな声をあげてそれを拾い、手でさすって汚れをとり、なつかしそうに見、頬ずりをして涙を流していた。
 ボランティアの人たちが瓦礫のなかから拾い出し、きれいにしてくれた写真を持ち主に渡す、持ち主はそこに写っている自分の家族、家屋敷などを見ながら、悲しみながらも喜びの声をあげていた。
 それらの映像を私もいっしょに涙を流して見ながら、しみじみ思った、写真って本当にいいものだと。
 写真のない時代では、亡くなった方や失った家屋敷、故郷の姿は知っている人の脳裏にしか残らなかった。しかし今は写真にして残せる。知らない人たちにも子孫にもその姿を教えてあげられる。
 もちろん教えてあげたい子どもや孫が亡くなられた方、一家すべて亡くなってしまわれた方もいるけれど。一枚の写真も残らなかった方も多くいたけれど。
 本当に言葉も出ないが、これからまた新しい写真を、すてきな思い出を、新しい歴史を積み上げていっていただくよう願うしかない。

 写真は、記憶しておきたいこと、思い出の一瞬、感動の一瞬を切り取って、形にして残してくれる。言葉ではなかなか言い表せない思い出を、情景を、二度と戻らないかけがえのない瞬間を、正確な画像として残してくれる。
 もちろん写真などなくとも記憶にきちんと残せばいい。しかし、頭の中の記憶は時が経つにつれて薄れ、消えてしまうことさえある。しかし、写真は変色したり、薄れたりすることはあっても、保存がよければ残すことができる。記憶は写真の中に保存され、その写真はまたいろいろな記憶をよみがえらせてくる。
 また写真は、実際に見た人の脳裏にしかない情景を他人と共有することを可能にする。もちろん言葉で表現して他人に理解してもらえばいい。しかし、人間の表情や情景を言葉ではなかなか言い表せない。しかも主観が入ってしまう。ところが、写真を見せればそれは客観的に、正確に伝えられ、他の人ともその情景等を共有することができる。
 さらにいえば、記憶している人がいなくなったら消えるしかないものを、写真は後々の世代まで残し、伝えてくれる。

 このように写真は本当にいいものなのだが、私の子どもの頃は、写真を撮ることなどなかなかできなかった。
 それでも、私の生家の仏間の長押のところには私の生まれる前に亡くなった曾祖父母の写真が額縁入りでかけてあるような時代になっていた。曽祖父のは写真屋さんで撮ってもらったもののようでかなり修正されていたが、曾祖母の写真は引き延ばしてもらったもののようでぼやけていた。
 このように、農家も先祖の写真を奥座敷の長押のところにかけるようになっていたが、同時に戦死した兄弟、子どもの写真もかけていた。戦争が激しくなるなかで、どこの家でも戦死者の写真がかけられるようになった。私の生家でも、戦後だが、二人の戦死した叔父の写真を仏間に飾った。
 私が農村調査に行くようになったころ、60年代以降ということになるが、農家におじゃましてふと気が付いたことがある。長押にかけられている額縁に入っているのが写真ではなくて肖像画である家がかなりあったことである。肖像画といっても、白黒の似顔絵と言った方がいいと思うが、かなり精密に模写されていた。誰が書いたのかわからないが、きっと近くにそういうことを商売にする人がいたのだろう。写真がなくて、写真屋さんが近くになくてそういう人に頼んで書いてもらったのか、写真よりは絵を飾った方がいいのだという考え方からだったのか、聞いたことはなかったのでいまだにわからない。でも、戦死者のはほとんど写真であり、しかも入営後に撮って家に送ったものだろうと思われる写真、つまり軍帽をかぶり、襟章をつけた軍服姿だったことからして、私は前者つまり写真屋さんが近くになかったせいで絵になったのではないかと考えている。写真は写真屋さんが撮ってくれるものだったからである。

 私の幼いころ、つまり昭和の初めころ、写真は写真屋さんに行ってマグネシウムの光と音に驚きながら撮ってもらうものだった。私の赤ん坊のときの写真3枚も写真屋さんで撮ったものだった。家が町場なので写真屋さんがけっこうあって簡単に撮りに行けたこと、初めての子どもの生まれたことが両親によほどうれしかったことなどからなのだろう。
 もちろん、出張写真もあった。写真屋さんが撮影場所に来て撮ってくれるのである。学校の記念写真などがそうである。先生を中心にクラスの生徒全員が写真屋さんと大きな写真機の前に整列する。写真屋さんが写真機の上にかけてある表が黒、裏が赤の風呂敷のようなものをかぶり、ときどきそこから顔を出して、私たちの場所や姿勢などをいろいろ注意する。いよいよ撮影である。写真屋さんから写真機のレンズを見るように、動かないようにきつく言われる。みんな緊張する。写真屋さんは金属製の発光器(と呼ぶのだろう)を片手に持って高く上げ、「はい、撮ります」、写真屋さんの合図と同時に、カシャッとシャッターの音がする。とたんに、発光器のマグネシウムの燃えたまぶしい光が目を射し、同時にボッとすさまじい音がして青白い煙が立ち上がる。みんなびっくりしながらもほっとして身体の緊張を解き、独特の臭いを放つ煙が薄らいでいくのを見ながら、あの光で目をつぶってしまった、動いてしまったと大騒ぎしながら、列を解く。こんなことが毎年一回あった。ただし、終戦前後の混乱期の3年間を除いてだが。
 写真屋さんが家に来て撮ってくれることもあった。たとえば私の生家では、1944(昭和19)年、K叔父とM叔父の二人が出征すると決まった時、家族全員の記念写真を家の籾戸の前で撮ってもらっている。すでに出征していたT叔父については、上の方に一人で撮った軍服姿の写真を小さく入れてくれた。この写真をもって叔父2人は出征し、また戦地にいたT叔父にはそれを送った。戦後、このうちの1枚しか戻ってこなかった。M叔父が復員して持ち帰ったが、後の2枚は戦死したT、Kの二人の叔父とともに中国の地に消えてしまったからである。
 このように写真は写真屋さんが撮ってくれるものであり、しかも写真は高価だった。だから、写真屋のない農村には入学前に撮った写真がないという子どももいた。戦中の混乱期だったということもあったが、幼いころに亡くなった私の妹の写真もなかった(註1)。
 その一方で、金持ちの中には個人で写真機を持っている人もいた。私の生家のすぐ近くの旧商人+小地主の家などがそうで、同級生の友だちがそこにいたために三脚に大きな写真機をつけて何回か撮ってもらっている。
 それでも小型のカメラが庶民の間に普及し始めていたようである。徴兵のために北海道から帰ってきたK叔父(註2)が、友人から借りてきたのだろう、カメラで私たちを撮影してくれたことがあったからである。なお、私をかわいがってくれたK叔父は、出征の直前に私一人だけを連れて写真屋さんに行き、いっしょに写真を撮った。きっと戦地に持って行きたかったのだろう。こんなこともあって戦時中の私の写真は多かった。K叔父がもう少し早く北海道から家に帰ってきていたら亡くなった幼い妹も写真を撮ってもらえたかもしれないのだが。

 戦後、世の中が落ち着き始めたころ、細長い四角の箱にレンズが二つ付いた二眼レフというカメラが庶民の間に普及し始めた。近所の若者もそれを買い、見せてくれた。カメラの箱の上から写す対象を見るのだが、これまでのカメラのように片目で覗く小さい像と違って摺りガラスに大きく映る被写体の色が幻想的で好きだった。このように庶民もカメラが持てるようになっていたが、持てる者はまだ少なかった。だから、中学校の修学旅行の時にはやはり写真屋さんに集合写真をとってもらうだけ、スナップ写真などは一切なかった。私が高校の頃(1950年代前半)でもまだカメラを持っている人は少なく、同級生の何人かが自慢そうに持って歩くだけ、それがしゃくにさわり、生意気な彼らがつくっている写真部などぶっつぶせなどと騒いだりしたものだった。
 それでも50年代後半には相対的に安価となったさまざまな種類のカメラが普及し始め、多くの人がもつようになり、何かあると写真を撮るようになってきた。そのころには二眼レフは主流でなくなっていたような気がする。

 カラー写真も出現した。ただし、当初は印画紙に焼き付けるのではなく、フィルムにポジ画像(陽画)を写したものだった。厚紙で囲まれた小さな四角のポジフィルムを明かりですかして、あるいは幻灯機で映して見るしかなかった。
 1958年だったと思う、当時研究室の助手をしていたMIさん(後の高名な林業経済学者)が北海道日高地方の軽種馬(競走馬)の調査に行くことになり、当時はまだ珍しかったカラー写真で調査地を写してくると張り切って出かけた。初めて軽種馬生産とその経営を見たMIさんは驚いていた、とくに牧場主の生活の豪華さ、娘さんが外車に乗って町に遊びに行っていると。当時は農家が乗用車を持つなどまだ考えられなかったころだったからだ。そんな土産話をカラー写真で説明しながらするというので楽しみにしていたが、すぐにはそれができない。何しろ東京まで送って現像する必要があり、2週間くらいかかったのではないかと思う。ようやく届き、暗室に入って幻灯機で大きくして見せてもらった。きれいでよかったのだが、何とも不便、しかも高価だった。
 なお、そのころは印画紙に焼き付けたカラー写真も見られるようになっていた。私の最初のカラー写真は1959年に和歌山で勤めていた母方のH叔父(註3)を訪ねたときに撮ってもらったものだったが、それはもう印画紙に焼き付けされていた。後で送ってくれたのだが、かなり高価、時間もかかったのではないかと思う。
 しかし、こんな不便はそれから数年もしないうちになくなった。カラー写真は印画紙で見るのが普通になり、現像・焼き付けは地方でもできるようになった。でも、まだ主流は白黒写真だった。

 一方、カメラ、白黒フィルムは相対的に安価になってきた。カメラは多くの家庭に普及し、若者はほとんど持つようになった。
 私も買った。それまでは研究室や弟のカメラを借りて撮っていたのだが、自動的にピントを合わせてくれ、しかも1本のフィルムで2本分撮れ、さらに相対的に安価というハーフサイズカメラを63年に買った。これは便利だったが、やはり写りが悪い。家族で登山するときなどは、こんなカメラではどうしようもない。それで、とうとう76年、一眼レフを買うことになった。
 そのころにはカラー写真が主流になっていた。明治以降の白黒写真の時代は終わり、カラー(戦後は天然色と言っていたのだが)の時代となったのである。

(註)
1.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」(4段落)参照
2.10年12月27日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(2段落)参照
3. 同 上(3段落)、
  11年2月14日掲載・本稿第一部「☆里の秋」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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