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一億総カメラマンの時代へ



                 続・今は昔、思いつくまま(11)

                  ☆一億総カメラマンの時代へ

 私でさえまともなカメラを持つようになったのだから、70年代にはいかにカメラが普及していたかが推測できよう。
 そのころの私にとっての大きな問題は、現像、焼き付けをしてみないと写真の善し悪しがわからないことだった。焼き付けして初めてよくできた、失敗だったというのがわかるのである。だから必要のない失敗写真も焼き付けすることになり、その分お金を損することになる。しかもフィルム代、現像代、焼き付け代がきわめて高い。
 そうなると失敗しないように、無駄にならないように、シャッターチャンスを選んで撮らざるを得なくなる。しかしそんなにうまくいかない。バチバチ撮れるなら、そのなかにいい写真もあるかもしれないが、数少なく撮るものだから、なかなかいい写真が撮れない。プロのカメラマンがいい写真を撮れるのはたくさん撮る中から選ぶからではないのか。自分の腕を棚に上げてそんな風にひがんで考えてしまう。
 でも、ひがみではなさそうだった、やはり私の考えた通りだった。

 岩手県住田町、ここの複合経営はおもしろいという話をしたことがきっかけで、77年夏、日本農業新聞が取材し、連載で記事を掲載することになった。そのコメントをしてくれということで私もその取材旅行に同行した。そのとき、記者のSKさんばかりでなくカメラマンのTさんもいっしょに来てあちこち写真を撮っていた。帰り際、私の顔写真を載せるので撮らせてくれとTさんがいう。農協の事務室の椅子に座らせられ、撮影が始まった。1~2枚撮ったら終わるだろうと思ったら、あっちを向いて、こっちを向いて等いろいろ注文をつけながら、撮る方角や照明を変えながら、何枚も何枚もとる。36枚撮りフィルム一本使うのではないかと思うくらいだ。そこでTさんに聞いてみた、なぜそんなに撮るのかと。するとこう答えた。人間の表情というのは一瞬にしていろいろ変わる、照明の仕方でもどちらを向くかでもまた変わる、だからいろいろ撮ってみてそのなかからもっともいい写真を使うのだと。そんなものか、さすがプロと感心したが、ちょっと待てよとよけいなことまで考えてしまった。これだけ撮ればいい写真もできるはずだ、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」、プロの写真家の写真がいいのは腕のせいと言うよりもそのせいではないか、私だってそれくらいたくさん撮ればプロ並みのいい写真が一枚くらいあるはずだと。とは言っても、そんなに写真を撮ると金がかかる、もったいない、そういうケチ精神が働くので結局はできないのだが。
 この話を、取材でカメラを使う農業雑誌『家の光』の記者(当時)のSYさんにしたら、彼は笑って言う。そうやって日本人がたくさん写真を撮るから、現像のさいの廃液で日本の海は水銀だらけになりつつある、日本人は写真を撮りすぎていると。

 それはそれとして、カメラはさらに使いやすくなってきた。自動露出、オートフォーカスなどの電子技術が一眼レフカメラに搭載されるようになったからである。露出とピント合わせを自動的にやってくれるので、メカに弱いものでも簡単に、失敗の心配なく撮れるようになったのである。しかも低価格化した。それで1980年代には各家庭ほとんどがカメラをもつようになった。
 そこに先に述べた「使い切りカメラ」の登場である。年寄りはもちろん幼稚園の子どもでさえ写せる。そして安い。まさに日本人・一億総カメラマンの時代となった。
 こうなると写真屋さんに誰も写真を頼まなくなる。実際に、廃業した写真屋さんもたくさんあった。子どもの頃によく撮ってもらったなつかしい写真屋さんも高齢化を理由にやめてしまった。
 一方、子どもたちの卒業記念アルバム、何と豪華なこと、結婚式の写真、これもすごい、カメラブームのなかで写真屋さんが生き延びるためにはこんなことくらいしかないのかもしれない。
 それはそれとして、こんなにフィルムを使い、現像液、印画紙を使っていいのだろうか。そんな疑問を抱かせたのだが、そのうちのフィルム、現像液についてはもうそんな心配はしなくともよくなった。デジカメ、携帯はフィルムを不要にしたからである。
 それを痛感したのは、2006年、網走から仙台に帰ってきてからだった。

 1999年、縁あって網走の東京農大オホーツクキャンパスに勤務することになった。雄大な北海道の景観、どこかに出かけるたびに写真を撮った。何しろ初めての町、どこで現像・焼き付けをやってもらうか、本来なら迷うはずだが、そのころはDPEの看板をかかげた店があちこちできており、探すのに苦労しなかった。家の近くのDPEの店、普通の住宅をちょっと改造したような小さな店に頼みに行った。定年を過ぎたようなお齢のご夫婦二人でやっていた。いつもそこに頼んでいたが、行くたびにフイルムもしくは使い切りカメラをサービスしてくれる。何とサービスがいいのだろうと感激していたが、考えて見たら仙台の近所の写真店でも現像を頼むとやはりサービスしてくれていた。たまにしか行かなかったので、あまり感じなかっただけだった。
 家内がなぜだろうと聞く。私はフィルムや使い捨てカメラで損しても現像と焼き付けを増やすことでもうければいいということなのだろうなどと答えていた。家内は家内で、量販店などにある大きなDPE店の低料金に対抗するためかもしれないと考えていたようである。
 しかし、今になって考えてみると、そろそろデジカメ・携帯の時代、フィルムの要らなくなる時代になっている、今のうちにフィルムや使い捨てカメラを処分してしまおう、そのために無料サービスして現像・焼き付けだけで利益を上げることにしようというメーカーの深謀遠慮ではなかったのだろうか。それは裏の読み過ぎかもしれないが、ともかく私が網走にいるころからデジカメは爆発的に普及した。何しろ私でさえもつようになったのである。
 デジカメで撮って見て、その映像の鮮明なことにまず驚いた。フィルムは要らず、CFメモリーカードを記録媒体としてそれから直接印画紙に焼き付け、またパソコンやCD・DVDに記録、保存しておくことができる。さらにメモリーカードに記録した画像は不要であれば簡単に消すことができ、メモリーカードはその後も繰り返し利用できる。また、撮った画像はフィルムでは確かめることができなかったが、デジカメでは確かめることができるので、失敗作は焼き付けなければいい。これまでのカメラだと、焼き付けしないとよく撮れたかどうかわからず、フィルム代、現像・焼き付け代が気になってバチバチ撮れず、選びに選んで撮るがそれでうまくいくとは限らない、ということだったが、そんな心配は一切ない。さらに、量販店に設置されるようになったデジカメ現像機やパソコンのプリンターを使えば自分で現像できるようにさえなった。これだけ性能がよく、便利なのに、値段はこれまでのカメラとそれほど変わりない(といっても、私の場合息子が買ってくれたのでわからなかったが)。これではデジカメの時代になるはずである。
 それでも私は、普通のカメラや使い切りカメラもいっしょに使った。DPE店に焼き付けを頼みに行くたびにサービスにくれるからである。

 06年、仙台に帰ってきてからも両方のカメラを使った。でももらったフィルムは徐々に使い終わり、デジカメでの撮影が中心になった。それでも使い切りカメラは車の中に入れておいた。デジカメを忘れたり、何かどうしても撮りたいものが出て来たりしたときにと考えてである。09年ではなかったろうか、使い切りカメラが撮り終わったので、いつも頼んでいる近くのDPE店にその現像を頼みに行った。そしたら何と、現像に一週間かかるという。今は仙台に現像するところがなくなり、東京に送って現像してもらうようになったからだという。これでは使い切りカメラなど使いたくなくなる。
 普通のフィルムの現像はどうなのだろうか。やはり東京に頼んでいるのだろうか。そうなるときわめて不便、もう普通のカメラは使わなくなる。それは今どうなっているのだろう。私のカメラはこの数年机のなかで眠っている。もったいないと思ってもどうしようもない。みんなもきっと同じだろう。そのうち廃棄の運命をたどることになろう。何千万のカメラの廃棄となるだろうが、何ともったいないことだろう。
 ところで、あちこちにあったDPE店さんはどうなったのだろうか、改めて町の中を見回してみた。やはり思った透りだった、もうまったくなくなっていた。
 使い切りカメラを売っている店もなくなった。先日量販店に行ったら、文房具のところにいくつかおいてあるのを見つけたが、本当にしばらくぶりで見た。

 こうした状況を引き起こしたのはデジカメの普及だけではない。デジカメと同じ機能=画像撮影・保存機能がつき、さらには画像送受信機能までついた「カメラ付き携帯電話」の開発普及がそれを決定的なものにした。
 この携帯が開発されたのは99年、そして03年にはカメラのついていない携帯はもう発売されなくなったとのこと、いかに「カメラ付き携帯電話」の普及が早かったかわかろう。もうほとんどの人が携帯を持つ時代、当然「使い切りカメラ」など買う必要はなくなる。そのうち、携帯のカメラ機能はどんどんよくなる。持ち運びの大変なフィルムカメラなどはましてや使わなくなる。
 この時代についていくのは我々にとっては大変だ。私が携帯電話を買ったのは02年春、家内は00年春だったが(註)、ともに持ち運びできる電話として買ったので、カメラ機能はもちろんついておらず、メール機能もつけようとも考えなかった。それも震災の年までそのままだった。いかに私たちが時代の変化についていけなくなっているか、しみじみ感じる。
 それはそれとして、私にとってさらに驚きだったのは写真だけでなく、映画(動画と言うべきなのだろうが)まで携帯電話で撮影できるようになったことだ。
 そもそも映画を自分で撮るなどというのはその昔は夢のまた夢、それがあの小さな携帯で簡単に撮影できる、もう言葉もない。

 みんなで記念写真を撮るとき誰かがおもしろいことを言う。みんなどっと笑う。非常にいい雰囲気、誰かがいう、「写真に声が入れられたらなあ」。声の出る写真、こんなものがあればいい、だけど撮った瞬間におならをし、その音が入っていたりしたら困るなどと友だちと笑いあったものだった。
 子どもが動き回る、その可愛い姿をそのまま映して残しておきたい、親になればこんなこともみんな考えた。
 もちろん、私の子どものころは動きの写る写真、いわゆる活動写真はあったし、音の入るトーキー映画が普通の時代になっていた。だけど撮影機を始めとするあんな大がかりな装置の必要な映画を個人で撮るなどというのはそもそも無理、映画は映画会社が撮るものでしかなかった。しかも映写機まで必要、こんなのは映画館しか持てない。一銭店屋(駄菓子屋)でたまに売っている時代劇映画のポジフィルムの5㌢くらいの切れ端、それを買ってこれがフィルムというものかと触って透かして見る、それで満足するより他なかった時代だった。だから映画を個人で撮るなどと言うのはまさに夢のまた夢だったのである。
 ところが何と、1960年代になると8ミリカメラが普及し始め、高価とはいえ個人でも購入できるようになつた。やがて、テレビCMで8ミリカメラを持った女優が「私にも映せます」と耳にタコができるくらい繰り返すようになった。こうしたなかで、子どもの運動会で必死になって8ミリを回している親がよくみられるようになった。しかし、音声が入らない、カメラの他に映写機が必要である、撮影可能時間が短い等々いろいろな短所があった。
 そうこうしているうちに普及し始めたのが、ビデオカメラである。これは音声も入り、ほとんどどの家庭で持っているビデオデッキにつなげばテレビで見ることができる、さらにデジタルビデオカメラができる、それらは90年代には8ミリにとってかわるようになった。
 そしてその機能が携帯に付加されるようになったのである。
 その携帯は今やガラケーと呼ばれるようになり、スマホが急速に普及しつつある。何ともすさまじい変化である。

 携帯、スマホで写真が撮れる、動画も撮れる、しかもそれを瞬時に他人に送ることができる、保存は場所もとらずに簡単にできる、パソコン、テレビでもみることができる、私が(私たちの世代がといってもいいだろう)幼いころ夢にも考えられなかった時代になった。そしてみんながカメラマン、一億総カメラマンの時代になった。
 この変化のなかで、たくさんの写真、動画が撮られるようになった。
 ところが、大震災で、大津波でこの大事な写真やフィルム、ビデオテープなどを失った方がたくさんいた。
 しかし、もう一方で貴重な写真や動画がまた増えた。この地震、津波の状況をカメラや携帯、スマホなどにおさめた方がたくさんいたからである。これは地震や津波の恐ろしさを後世に伝え、津波などの研究、分析の資料として、これからの対策のあり方を考えさせる資料としてもきわめて貴重なものとなった。それがせめてもの救いであろう。そしてそれは科学技術の進歩の成果として評価してもいいだろう。
 ただし、こうした映像機器の生産や使用に当たって資源・環境問題を引き起こさないような研究開発にさらに取り組む必要があろう。

 何かおもしろそうなことがあったり、事件があったりすると、みんな一斉に携帯・スマホで写真を撮りあるいは動画を写し、それを友人に送ったり、ネットで公表したりする。これで貴重な映像が遺せ、多くの人がそれを見ることができる、こんないいことはない。
 しかし、これで被写体になった人を傷つけてしまったり、個人情報を洩らしてしまったりする。また、事故で被害に遭っている人を助けようともしないでみんな携帯で事故を撮影し、友人やネットに送ったりしている、こんな話も最近よく聞く。情報化社会での一億総カメラマン、悪いことではないのだが、それが一億総傍観者、一億総情報屋(パパラッチ)、一億総加害者などになったりしないようにどうしていくかも考えていく必要があるだろう。

 私の子どもの頃、今のように写真が撮れていたら、もっといろいろなことが思い出されたことだろうと思う。
 生家の近くのかつての古い町並みや家々の姿、当時の不整形の田畑、細い農道、くねくねと曲がりながら流れていた小川(今は住宅地になり、家々が建ってしまってその当時の面影は一切ないが)、それを映像で残しておきたかった。前にも書いた子どもの遊び、今は消えてしまったあの遊びや唄、さらに当時の農作業や農業技術、生活の知恵等々も映像で残しておきたかった。
 タイムトンネルであの時代に行って映像が撮れるようにドラえもんに頼みたいのだが、これは無理な注文、何とか自分の記憶を振り絞って書き残す努力をするより他なさそうだ。

(註) 12年6月15日掲載・本稿第四部「☆携帯電話の『ケータイ』化」参照



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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