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家事と花嫁修業



                 続・今は昔、思いつくまま(12)

                   ☆家事と花嫁修業

 3回前掲載の本稿記事で述べた「使い切り」=使い捨ての話からカメラ、写真の話になってしまったが、もう一つ、使い捨てでいつも気になっていることがあった。それは紙コップ、紙皿、紙おむつである。ともに非常に便利だし、衛生的でいいのだが、やはり使い捨て、資源・環境問題が気になってしまうのである。
 紙おむつについてもう少し言うと、私に孫が授かったころ(90年代)には普通になっていた。それでも最初は子どもが生まれたころに使った布製のおむつ(註1)も準備してちょっとの間使った。しかし、産院では紙おむつだったし、それで蒸れたりもしないで使い心地もよさそうだし、洗濯もないので楽だと言うので紙おむつになってしまった。ただ心配したのは紙おむつの吸収がよくて快適であるためにおむつ外しが遅れるのではないかということである。しかし孫の場合にはそんな心配はなかった。
 本当に楽なものだとしみじみ思った。かつてのおむつ洗いは本当に大変な労働だったからである。子どもが生まれたとき私もおむつ洗いをした。家内が勤めていたからなおのことである。困ったのは梅雨のころだった。洗濯したおむつがなかなか乾かない。このままだと足りなくなるかもしれない。そこで火鉢に炭を熾し、そのまわりにおむつをかけて乾かす。冬のおむつの洗濯、これも乾燥で苦労した。でも、子どもが生まれたのをきっかけに当時普及し始めていた電気洗濯機を買ったので、洗濯それ自体は楽だった。とはいえ、当時は今のような「自動」洗濯機ではないので時間と手間がかなりかかり、それに大人の衣類の洗濯も加わるのだから、やはりおむつの洗濯は大変だった。洗濯機のできる前のおむつ洗いの大変さ、これはいうまでもない。とんでもない時間がかかる。しかも回数が多い。
 ところが紙おむつとなるとおむつ洗濯は一切不要となり、本当に楽である。乾燥で困ることなどもない。衛生的にもいい。
 ただ、お金がかかる。さらに、これまでの布製おむつは再利用だったのにこれは使い捨て、ゴミを増やしてしまう、何かひっかかる(註2)。
 それでも、よほどのことがないかぎり、もう昔に帰るわけにはいかないだろう。

 いうまでもなく洗濯は家事の重要な一部分である。しかもかつては大変な労働だった。
 たらいに家族の洗濯物を入れる。そこに井戸から汲んだ水を入れる。まず軽くもみ洗いをし、次にその洗濯物に洗濯石鹸(かつてはあまり汚れの落ちがよくなかった)をつけて洗濯板に押し付けながらごしごしと洗う。それが終わると何回も新しい水でゆすいで石鹸を落とし、洗濯ものに含まれる水をきつく絞って物干し竿にかけて乾かす(いくら力を入れて搾っても手では限度があり、水分が多く含まれているので乾きにくかった)。
 なお、井戸がない場合は川の水で洗濯をした。また石鹸がないときはもみ洗い、踏み洗いだけだった。

 戦時から戦後にかけての物資不足の時代、石鹸は配給制になり、かなり質の悪い洗濯石鹸がそれもたまに配給されるだけ、それで石鹸なしで洗うしかないときもあった。
 そのころ、近くでよく見るある木に生っている長さ20㌢くらいの豆の莢(さや)を友だちが指さし、あれは石鹸の代用になるのだ、実際に使っている家もあると教えてくれたことがあった。その木の名前は完全に失念してしまったが。そのことを家内に話したら、やはり同じころ、近くにあるお寺の前の木に生る長細い豆の茶色になった莢は石鹸として使える、ただし中の豆は使えないと言う話を近所の子どもたちから聞いたことがある、ただ何という木だったか忘れてしまったという。そこでインターネットで検索してみた。あった、サイカチというマメ科の木だった。家内にそれを教えたら、そうだった、思い出したという。葉はネムノキに似ており、鋭い棘がたくさん出ている木である。本当にその実の莢は石鹸としての効用があり、古くから使われていたとのことである。だけど生家で使ったという記憶はない。家内の実家でも使わなかったようである。

 石鹸の有無にも左右されるがいずれにせよ洗濯は時間はかかるし、天候を考えなければならないし、着替えもあまりなかったので、その昔は毎日洗濯するわけにもいかなかった(おしめ洗いだけは毎日必ずしなければならなかった、そうしないと足りなくなるからである)。こうして溜まった洗濯物、子どもがいたり家族が多かったりしたらなおのこと、これを始末するのは大変な労働だった。
 生家から離れていた学生時代、洗濯は自分一人でやらざるを得なくなった(もちろん毛糸洗いや洗い張りなどはできなかった)が、こんな洗濯はいやだった。水道があって便利なのにである。一週間に一度洗濯すればいい方、一ヶ月もため込んで生家に帰った時母に洗ってもらうなどという親不孝までしたものだった。よくもまあそんな汚い生活ができたものだと今になって思うが、私ばかりでなく友人のほとんどがそうだった。それでもともかく洗濯はやったし、できた。それほどの熟練がいらないからである。もちろん、手早く上手にできる人、私みたいに不器用で遅いもの、いろいろいるが、うまくいかなかったらもう一度やりなおせばいい。
 掃除も何とかやれる。戸障子にハタキをかけ、座敷箒で座敷を掃き、廊下などの床や柱、戸障子の桟などは雑巾で拭く、これは祖母と母の仕事だったが、私もやろうと思えばやれたし、廊下の雑巾がけなどは子どもの頃よく手伝わされた。井戸から汲んできた水の入っている手桶で雑巾を濡らして絞り、しゃがんでその雑巾で床を拭き、雑巾が汚れてきたらまた手桶の水に入れてすすぎ、また拭くということを繰り返しながらきれいにしていく。子どもにとっては長い廊下、大変だった(註3)。
 学校でも授業が終わった後交替で掃除をやらされたが、早く帰って遊びたい私などは掃除当番が大嫌いだった。それは大学に入ってからも同じ、めったに掃除しないものだから、寮の部屋は本当に汚かった。とくに3・4年のときの学生寮は木造畳敷きの古くて汚い部屋だったからなおのこと(もちろん当時は持ち物といえば布団、衣類の入った行李(こうり)、机と小さい本箱だけ、部屋も狭いので何とか暮らせたが、よくもまああんな汚い部屋で過ごしたものだと今考えるとぞっとする)、まさに汚い青春、まあこれでも何とか生きていけた。寮で食事を出してくれたからだ。

 掃除や洗濯、これは省略することはできても、食事はそういうわけにはいかない。一日たりとも食べるのを休むわけには行かない。そうすると毎日炊事をすることが必要となる。もちろん、女中さんでも雇って炊事してもらうとか、毎日外食をすれば炊事は必要ない。しかしそんなことは一般的にはできない。そうするとどうしても炊事をしなければならないことになる。
 この炊事は大変だ。一日3回、しかも主食=ご飯だけでなくおかずもつくらなければならない。それも毎日朝昼晩すべて同じというわけにはいかない。その上、季節を問わず全国各地からさまざまな食材が供給されている現在とは異なり、季節により地域により限られる食材を用い、健康も考えて、一定の金額の範囲内でどのような献立をつくり、どう料理していくかも考えなければならない。
 何とか考えがまとまれば、それに基づいて買い物をし(農家の場合にはそれに加えて畑から採ってきて)、煮炊きの準備をして炊事に取り掛かることになるが、これがまた大変な時間がかかる。かつては炊事のさいの燃料が薪、炭、稲わら等だったからだ。これをいかにうまく燃やして煮炊きをするかが大変である。失敗するわけにはいかないからだ。自分一人だけの食事なら失敗しても自己責任、しかし家族全員の食事づくりで失敗などしたら大変である。簡単にやり直せないし、やり直したら食事の時間が遅れるだけでなく、お金もかかる。
 食事が終わった後の後片付けも大変だ。こうした炊事全般に必要な水汲みや運搬の時間も必要となる。
 そうなると、食事の時間にあわせて段取りよくいかにてきぱきと仕事を片付けていくかも重要となる。
 いうまでもなく、こんなことが簡単にできるわけはない。かなり多様な知識、技術、熟練が必要となる。そのためには経験者から学習し、また自ら体験を積み重ねていくしかない。炊事は容易なものではなかったのである。

 針仕事と私たちが呼んだ裁縫、これもかつては家庭生活で欠かせない重要なものだった(註4)が、いうまでもなくこれも学習と経験が必要である。
 先に述べた洗濯や掃除も基本的には同じだった。たとえば衣類の種類によって洗い方は違えなければならないし、時間の節約からしてもやはり知識と熟練が必要だったからである。
 こうした炊事、掃除、洗濯、裁縫等々の家事、そして育児、しかもそれぞれ時間のかかるさまざまな仕事をいかに段取りよくこなしていくか、こうした一日の過ごし方も学び、経験しておかなければならなかった。

 いうまでもなく、こうした炊事、洗濯、掃除、裁縫等は、そして育児は、人間の生命・労働力の再生産に必要不可欠の作業であり、人間が家族という単位で集団生活を営んでいく限り,それらの作業は家族単位でなされるべきものとなる。したがって炊事、洗濯、掃除、裁縫等は家事と呼ばれることになる。そしてこの家事と育児は家族の全員が協力、分担して行うべきものということになる。
 実際に子どもも手伝うなどある程度家族が分担して家事をやってきた(註3)。しかし、前にも述べたように、かつては女性が家事・育児のほとんどを担い、そしてまた担うべきものとされてきた。それにはそれなりの理由があり、同時に問題点もあったのだが(註5)、ともかく女性にはこういった家事にかかわる技術の学習と訓練が必要不可欠とされた。
 そしてそれは可能だった。女性が学校を卒業しても今のように就職口があるわけでなく(註6)家にいなければならなかったので、十分に学習し、訓練する時間があったからである。
 かくして女性は義務教育を終えたら母親などのやる家事を手伝いながら学び、経験を積み、それから一定の年齢になったら嫁に行く、これがかつては普通だった。
 そして親はこうした家事手伝い・見習いを積極的にさせた。家事が何でもできるいい娘だ、嫁に欲しい、嫁に世話したいと言われるようにさせてやりたいと考えるからである。また娘に婚家で苦労させたくなかったからでもあった。舅姑、小姑などにいじめられないように、家事はもちろん家庭生活にかかわるいろんなことを何でもやれるように教えておこうとした。つまり家での家事手伝いは花嫁になるための準備であった。したがって、このように家の手伝いをしながら家事を学ぶことは「花嫁修業」と呼ばれた。

 さらに親は考える。できれば当時の女性としての教養をもたせてやりたいと。そして華道、茶道、行儀作法、和裁、日本舞踊、着付け等々、こうした教養を箪笥長持に加えての嫁入り道具として持たせてやろうとした。娘が暮らしに苦労しなくともすむような「いい家」から嫁に来てほしいと言われるようにしたかったからである。
 なお、こうした習い事などは、単なる教養としてでなく、何かあった時のために手に職をつけておくと言うことからも習わせようとした。私の父方の伯母などはその典型で、祖父母は結婚前の伯母に和裁を習わせた。今のように就職などほとんどない時代、何かあったときに食えるようにということもあったのだろう。実際にそれで助かった。サラリーマンだった伯父が終戦直後急死して収入源が断たれた後、和裁で食いつないだのである(もちろん実家である私の生家の援助が中心だったが)。
 こうした習い事をすることも「花嫁修業」と呼ばれたが、実は女学校も「花嫁修業」の場、そして嫁入り道具の一つとなった。当時の女学校は、「良妻賢母」になるための素養を積ませる、そのために優美高尚の気風、温良貞淑の資性を涵養するということに主目的があり、裁縫や手芸、家事、作法などの授業があったのだから、まさに「花嫁育成学校」だった。

 しかし、女学校に行かせるのは普通の家庭では無理だった。習い事をさせることも難しかった。そんなことができるのは親が裕福で子どもが働かなくとも生活できる「良家」のご令嬢だけ、一般庶民はそんな経済的ゆとりはなかった。
 農村部ではなおのことだった。農家の娘のほとんどは、女学校にはもちろん行かせてもらえず、習い事などもさせられなかった。農作業にも従事しなければならなかったからなおのことだが、そんな経済的時間的余裕がなかったのである。
 そして、農業に従事しながら家事にも従事して習得した農事・家事の二つの素養をもって、さらにその苦労の中で身に着けた忍耐心をもって、嫁に行ったものだった。
(ちょっと長くなったのでここでいったん切り、続きは次回の27日にする)。

(註)
1.私たちは「おしめ」と呼んだが、このおしめについては下記で述べている。
  12年7月25日掲載・本稿第四部「☆手縫い・手編み、ミシン・編み機、そして今」(7段落)
2.紙おむつは中途半端に快適なのでおむつ外しが遅れるという問題点を指摘する研究者もいるとのことである。
3.10年12月13日掲載・本稿第一部「☆家事の手伝い」参照
4.11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」(2段落)、
  前掲(註1)・12年7月25日掲載記事(1~7段落)参照。
5.10年12月20日掲載・本稿第一部「☆花嫁の涙」参照。
  なお、農家の場合についてはその後でその問題点を書いている。
  10年12月.21日掲載・本稿第一部「☆労働力としての嫁」
6.製糸女工や女中等の就職口はあったが、少ない上に、下記で述べたような身売り同様の低賃金長時間のきわめて厳しい労働、しかも就業先は遠隔地、それも若いうちだけ、いつかは引き取らなければならないので、貧しい家以外は勤めさせようとしなかった。
  10年12月4日掲載・本稿第一部「☆戦後東北農業の原点」(2段落)、
  11年4月11日掲載・本稿第二部「☆駅裏―さなぎ女学校―」(4~6段落)、
  13年7月4日掲載・本稿第六部「☆子守り・女中奉公」等参照

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コメント

[C51] 何かひっかかる。

>それでも、よほどのことがないかぎり、もう昔に帰るわけにはいかないだろう。
~この間の「使い捨て」から私も何かひっかかっていまして、それはなぜなのか考えていたところ、続編が出たのでうれしく思いました。
  • 2014-01-22 22:10
  • Shusaku Ito
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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