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雪と子どもの遊び・追記



                 続・今は昔、思いつくまま(16)

                  ☆雪と子どもの遊び・追記

 一昨日の土曜、仙台は大雪だった。まだ家の前には雪がうずたかく残っている。
 ちょうどその一週間前の土曜(2月8日)の午後から日曜の朝にかけても仙台は35㌢の大雪、1936(昭和11)年以来、78年ぶりの積雪量とのことだった。実はこの36年しかも2月に私は山形で生まれたのだが、ちょうどそのころ仙台は雪にうずもれていたことになる。なお、雪の中の二.二六事件はやはりこの年だった。今回も東京は大雪とのことだったが、またあんな事件が起きてあの暗い時代に戻るようなことはないように願いたいものである。
 この雪を見ていたら他にもいろんなことを連想してしまった。

 東京は大雪とのニュースがテレビで流れると、通勤途上の人が滑って転ぶ場面がよく映し出される。そのときにいつも考える、なぜ転ぶのだろうと。雪国の私たちにはよくわからない。もちろん私たちも滑って転ぶ。しかしあんな転び方はめったにしないし、あれほど転ばない。きっと靴の裏が雪国仕様になっていないのかもしれない。それならそれで歩き方を考えればいい。ところがその歩き方を見ていると、まあ何と下手なこと、あれでは転ぶのが当たり前である。
 それではどういう歩き方をすればいいのか。しかし、そう聞かれてもうまく言葉で説明できない。何度か転んでいるうちに知らず知らずのうちに身に付いてしまったものだからである。
 あるときテレビでロボットのアシモ君の歩き方を見ていてふと気が付いた、そうだ、あれだと滑らない、あれを真似ろと言えばいいのだと。歩幅を短く、膝を軽く曲げ、つま先からではなくてかかとから足を下ろすのである。ちょっとかっこ悪いが、転ぶよりはいい。さすがアシモ君、人間の安全な歩き方をよく知っている。よかったら雪の時ぜひ真似してもらいたい。
 ともかく意識して歩くことが肝要だ。ところがついつい油断して膝をまっすぐにして歩くときがある。それが並んで隣を歩いている子どもの狙い目だ。踏み出すために右足を上げ、左足だけでまっすぐに立っているとき、その左足をめがけて隣にいる子どもが自分の右足を横に滑らせる。当然ぶつかる。そしてぶつけられた方の左足は滑る。その足一本で立っていたのだから、滑ったら思いっきり転んでストンと路上に横に倒れてしまう。痛いの何のってない。転ばした方はうまく行ったと大喜び、転ばされた方は口惜しいけれども自分の油断、怒りながら今度は自分が滑らせて倒してやろうとすきをねらう。しかしこっちは油断しない、さっき言ったアシモ君の歩き方でしかも相手の出方を見ながら歩くのだから簡単にはひっかからない。
 冬の朝、よくこんないじわる遊びをしながら学校に通ったものだった。この遊びを何と呼んだか覚えていない。名前などなかったのではなかろうか。とりあえずここではそれを「滑らせ転ばし」とでもしておこう。
 なお、この遊びを氷の上でやったことはない。そもそも雪国の山形にはまともに氷で滑るようなところはなかった(すべて雪で覆われてしまう)からだが、たとえあったとしてもやらなかったろう。氷の上でこんなことをやったらあまりにも滑り過ぎ、固い氷に頭を打ったりしたら大変、滑らせた方も滑って危険だからである。私たちが滑り滑らせたのは、路上だった。道路に降り積もった雪が人の足やそりや自動車のタイヤに踏みしめられて硬く締まると、つまり圧雪状態になると、その表面が氷のようになり、つるつる滑るようになる(私たちはそれを「きろきろになる」と言った)ので、それで今言った「滑らせ転ばし」などの遊びができるようになるのである。
 なお、そのきろきろ道路ではスケートもやった(註1)。戦後二年目の冬からではなかったろうか、鋳物でつくられたスケート(今のように靴と一体になっておらず、長靴の底に皮ひもでつけて滑る)が子どもたちの間で大人気となったのである。
 それと関連して思い出したのは、同じころ鋳物製のキックスケーター(あのころ何と呼んだか思い出せない)も登場、もちろんこれは夏の遊具としてだが、これも大人気だった。
 このスケートもキックスケーターも、近所の子どもはほとんど持っていたので、かなり安価だったのではないかと思われる。
 なぜこんなものが戦後急に流行ったのだろうか。それは山形の鋳物生産との関連からではなかろうか。山形には昔から銅町(私たちは鋳物町とも呼んでいた)があり、鋳物生産が盛んだったのだが、軍需品としての鋳物需要がなくなったので、鋳物工場(戦災は全然受けなかった)がこうした遊具を生産し始めたのではないかと考えられるのである。この遊具のブームは2~3年で終わるのだが、それが日本の工業生産の復興が始まったころ、つまり鋳物の需要が増え始めたころと重なるのはそれを示しているのだろうと今は考えている。
 それはそれとして、冬の遊びには前に述べた(註2)もの以外にこんなものもあったのである。

 なお、前に述べなかったものとしてスキー遊びがあった。ただし、当時としては高価、持っている子どもは少なかった。ただ私の場合祖父が子ども用のスキーを買ってくれたので遊ぶことができた。といっても、私のところには山がない。それで雪を集めて1㍍くらいの高さの坂をつくって滑り降りるか、道路や家の前の畑つまり平らなところでストックを使って滑るしかなかった。一度だけ、約2㌔くらい離れている山にある本当に小さなスキー場に学校で雪中行軍(冬の遠足を軍事訓練の一つとして位置付け、このように称した)で連れて行ってくれたときにスキーを持っていき、そこで初めてまともなスキーをした。ただしそれは一度だけだった。スキーの留め具もこわれ、戦時中のことで修理もできず、そのうち私にはスキーが小さくなってしまったからである。

 氷はできないが、つらら(註3)はできる。雪が積もり、寒さが厳しくなるころ、軒下にできたつららを初めて見つけたとき、本当にうれしい。初霜も初雪も初氷もうれしいが、これもうれしい。
 5㌢くらいの小さな細いつららが朝日を受けてきらきら光るとき、まさに宝石(と言っても宝石など見たことはないのだが)みたいである。折って見たくなる。だけど背が低くて届かない。やがて気温が高くなると、ちょっと丸まっているつららの先からぽたぽたと雫が落ち始めて徐々に小さくなり、夕方にはなくなってしまう。だけど翌朝またできている。このように毎日毎日少しずつ溶けては伸び、溶けては伸びしているうちに長く太くなってくる。30㌢くらいに伸び、表面のしわしわ=横縞もくっきりと見え始めるころ手で折るか棒などをもってきて叩き落とす。いかにこわさずに上手に長いつつらを取るかの競争になる。うまく途中で折れないでそのままの大きさで折れると、あるいは落ちて下の雪にささると大喜び、それを雪のなかから手で抜く。こわれてなくて長いままだと大喜び、長いかどうかで勝った負けたと大騒ぎだ。
 つららの下の方は鋭く尖っている。「剣」のようだ。早速みんなでそれをふりかざしながらチャンバラごっこだ。当然すぐに折れてしまう。そこでまた新しいつららを落として遊ぶ。そのうち手が冷たくなってやめ、別の遊びに移る。
 透き通ったつららは本当にきれいだ。夏の氷水(かき氷)を思い出す。食べたくなる。でも、汚いから食べてはだめだということは古い藁屋根、茅葺き屋根から下がる大小さまざまのつららを見ればよくわかる。藁や茅の色が入って大半が黄色もしくは茶色になっており、さすがにそれはいかにきれいに見えても食べたいとは思わない。それを見ているから、一見無色透明できれいでもその中に屋根の上にあるゴミなどが入っているかもしれないということがわかり、つららは食べないのである(でも食べる奴はいた、私も誘惑にかられてなめたことがある)。
 ただし、新雪はもちろん食べる。手でそのふわふわ雪を取ってあるいは雪に顔を突っ込んで顔中白くしながら口に入れる。顔も口の中も冷たい。何もおいしくないし歯ごたえもない。それでも楽しい。
 一番うれしいのは初雪のときだ。顔を空に向けて口を大きく開き、降ってくる雪を食べようとする。数えきれないほど空が隠れるほどたくさん降っているのに、おかしなことになかなか口に入らない。たまに入ってもあっという間に溶け、ちょっと冷たかったなと思うだけである。それでもうれしい。これから雪の季節、この時期にしかできない遊びができる、早くこの雪が積もらないか、根雪にならないかと期待して待つ。

 雪遊びは前にも詳しく述べたように(註2)本当に楽しい。
 家の前の畑に降り積もった一面の雪に長靴で迷路のように細い道をつくり、そこで鬼ごっこをしたりもする。このときだけは畑に入っても大人に怒られない。
 だけどいつまでも外で遊んでいるわけには行かない。30分もすれば濡れた手袋が凍ってきて手がすさまじく冷たくなり、痛くさえなってくる。耳たぶも赤く膨れ、痛くなってくる。泣きたくなる。小さいころはあまりの痛さに泣いて帰ったこともあった。
 だからどうしても家の中での遊びが多くなる。正月などはとくに双六、カルタ、福笑いで遊んだ。またこたつに入ってトランプをする。ただし、百人一首はやらなかった。札は押し入れにあったが、絵合わせすらやらなかった。なぜだかわからない。家内はよくやったようだ。だから歌はすべて暗記している。意味もわからずだったと笑うが。
 他にやったことといえば、積み木、だるま落とし、輪投げがある。もちろんこれは冬だけやるわけではないが、もう何年も使って古びたこうした木製のおもちゃを押し入れから出して遊んだものだった。
 こんな遊びもあきてくる。それでたまにやるのが指相撲、腕相撲、相撲だ。家の中にじっとしているものだから力があり余っている。弟とドタンバタンと相撲である。そのうち障子を破ったりけんかになったりしてよく祖母に怒られたものだった。学校でもそれで遊んだ。
 なお、相撲は外に出て雪の上でもやった。負けて転んでも雪の上、痛くないし、怪我をしないので安心だ。考えて見たら、雪が積もっている時以外、外ではあまり相撲をしなかった。まともな土俵などなし、道路などでやればけがをする危険性があったからだろう。
 相撲といえば「手合せ相撲」(たしかこう呼んだと思う)があった。これは、二人が「気を付け」の姿勢で30㌢くらい離れて向かい合って立ち、それぞれ両手を開き、その両手を突き合って相手を動かした方が勝ち、ただしそのさい手が相手の身体に触ったり、自分で動いてしまったら負けという遊びである。これは簡単にやれ、また二人だけでも遊べるので、屋内外、季節を問わず、退屈するとやったものだった。
 二人で手を合わせて遊ぶと言えば「せっせっせ」という遊びがあった。まず、お互いに向き合い、自分の右手と相手の左手、自分の左手と相手の右手をつなぐ。次に「せっせっせー ぱらりとせ」と両手を振ってリズムをとりながら歌い、続けて『茶摘み』の歌を歌いながら、それに合わせてお互いに相手の手のひらと自分の手のひらを拍手のように打ち合う。そのさい、各フレーズの後ろに「トントン」とつける、これは調子がいい。
  「せっせっせー ぱらりとせ
   夏も近づく 八十八夜 トントン
   野にも山にも 若葉が茂る トントン……」
 誰がこの『茶摘み』の前に「せっせっせー ぱらりとせ」をつけ、さらに「トントン」をつけたのか知らないが、よくも上手につけたものである。なお、家内に言わせると「ぱらりとせ」ではなくて「よいよいよい」だというが、全国的には家内の言う通りのようである。この『茶摘み』は文部省唱歌で明治末に教科書に掲載されたものとのこと、ということはこの「せっせっせ」の遊びは大正以降に流行ったものということになるが、だれがつくりまた流行らせたのかわからない。
 この手の合わせ方、打ち方には複雑な決まりがあり、それを間違わずにいかに早くやるかを競う。これはけっこう難しいが、運動能力を高めるうえでは非常にいい遊びである。
 これは男の子も女の子もやったが、どちらかといえば女の子の遊びだった。そういう女の子中心の遊びで冬に家の中でよくやったのは綾取り、お手玉、おはじき、塗り絵、絵描きだった。私もよくそれで遊んだが、平たくて小さな透き通ったガラスにいろいろな色の模様がちょっぴり入っているかわいくてきれいなおはじき、その冷たい手触り、何個か手に握って畳の上に散らばしときの畳の感触、爪ではじいてカチンと当てたときのあの小さな音、とってもなつかしい。
 やがて雪が消えてくる。うれしい。今度は外で思いっきり遊ぶことができる。雪遊びはできなくなるが、そんなことはもうどうでもいい、ともかく春はうれしい。

 こんな冬の遊びを前に書いたものに付け加えようと書いていたらまた思い出した遊びがある。そこで次回もう少し補足させてもらいたい。

(註)
1.12年7月9日掲載・本稿第四部「☆スガ、氷、霜柱、雪、氷割り」(2段落)参照
2.11年2月1日掲載・本稿第一部「☆水浴びと冬の遊び」(2段落)参照
3.前にも触れたが、私たちはつららのことを「ぼんだら」と呼んだ。それは干魚の棒鱈(ぼうだら)=ぼんだらから来ているのではなかろうか。下記の本稿掲載記事で述べたように、棒鱈は長細くてきわめて固く、色以外はつららと似ているので、子どもたちがつららをぼんだらと呼び、それが定着したのではなかろうか。こう私は思っている。
  11年3月31日掲載・本稿第一部「☆塩魚、干魚から生魚へ」(3段落)
  11年9月28日掲載・本稿第三部「☆食の格差の変化」(3段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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