Entries

子どもの遊び・追記



                 続・今は昔、思いつくまま(17)

                   ☆子どもの遊び・追記

 春、暖かい日差しに誘われて、子どもたちが家の外に出てくる。誰かと遊びたい。近所の友だちの家に誘いに行く。
 「〇〇ちゃん あーそーべ(遊ぼう)」
 「えま んーぐ(今 行く)」
 外に出てくる。その声を聴きつけてまた近所の子どもたちも出てくる。 何をして遊ぶか、みんなで考える。春まだ早いと雪解けでぬかるみや水たまりがあったりするので、かくれんぼや「しぇめっこら」(鬼ごっこ)、「走りっこら」(かけっこ)など走り回る遊びはできない。日向に集まって相談しているうち、誰かが提案する。
 「王様ごっこ すんべ(しよう)」
 みんな賛成すると、まずキッキノキ(ジャンケン)をし、順位を決める。一番勝ったものは王様になり、以下は家来になって、勝った順番に縁石などに並んで座る。一番負けたものは座れない。そして一番末席の家来とジャンケンする。それで勝ったら次の上席の家来とジャンケン、こうやって勝ち上がっていき、王様に勝って自分が王様になるのが目標なのだが、もしも途中で負けたらそこでストップ、勝った人と交代して自分はそこに座り、勝った人はさらに上席のものとジャンケンする。こうして勝ちあがって最後に王様とジャンケンして勝ったら自分が王様になる、つまり政権交代をすることになる。負けた方は一番末席に座っているものとジャンケンしてまた順番に勝ち上がっていくしかなくなる。なお、王様とジャンケンする前には必ず王様におじぎをしなければならない。それを忘れてジャンケンすると王様が大きな声で「失敬」と怒る。するとジャンケンできずに末席へということになる。
 こうして王様が3回ジャンケンに勝って王位をまもると、王様は女王様を選ぶ権利を得る。ただし王様は自分の気に入ったものを女王にすることはできない。王様は後ろ向きになり、その間に座る順序をみんなで入れ替えた後、前から二番目とか四番目とか指名する(このへんが面白いところ、贔屓などしてお互いいやな気持にならないようにということからなのだろう、なお王様も女王も男女関係ない)。こうして指名されたものは女王として王様の隣に座る。それからまた末席から順番をしていくわけだが、勝ちあがって行ったものがもしも女王のところで負けたら王様とジャンケンする権利はなくなり、王様の地位はまもられ、負けたものは下に下がらされる。もしも女王に勝ったら今度は王様とジャンケンができる。勝ったら政権交代だが、女王と王様と2人に勝つ確率は低くなるので、王権はより安泰である。そしてまた勝ったら、つまり3回勝ったら今度は王子様を選ぶことができ、より強固になるわけだが、めったにこんなことはなかった。かわるがわる王様になり、家来になったものだった。
 この王様ごっこはジャンケンで順位を決めるわけだが、「手ぬぐい外し」(「手ぬぐい取り」と言ったかもしれない)の勝敗でもって順位、王様を決めると言う遊びもやった。もちろん、最初はジャンケンで王様、順位を決める。その後は手ぬぐい外しの勝敗で上にあがったり、下に下がったりするのである。
 と言ってもこの手ぬぐい外しがわからない方もいるかもしれないので、ちょっとだけ説明させてもらいたい。これは攻守2人で争う遊びだが、守る方は片手の親指と人差し指の間に手ぬぐいを垂らして持つ。攻める側はそれを引き抜いて手から外し取る。守る側はそのときに手を握って手ぬぐいが取られないようにする。もちろん守る側はいつも握っていてはだめ、握るのは相手が外しに来た瞬間だけである。もしも外して取ったら攻め手が勝ち、取れなかったら守り手が勝ちということになる。
 この手ぬぐい外しをジャンケンかわりにやるわけで、王様をはじめ座っているものは防ぎ手、立って上を狙うものは攻め手となって、ジャンケンのときと同じように勝ちあがり、王位を狙うのである。
 なお、手ぬぐい外しそれ自体が遊びであり、王様ごっこと関係なしでも、2人いればやったものだった。とくに戦前の子どもたちは外出時に必ず手ぬぐいを持って歩くよう学校から命じられていたので、いつでもそれで遊ぶことができたということもあった。

 ここまで書いてふと疑問になった。 遊びの専門家でもないのに、何でこんな幼いころの遊びを詳しく書いているのかと。
 でも書いておきたい。毎日のように記憶が薄れていくなかで、今記録しておかないともう書けなくなるし、もしかするとそのなかにまだきちんと記録されていない遊びもあるかもしれない、こう思うからである。そんなだいそれたことでなくとも、これを読んだ方がそういえばそんな遊びもやったことがあると思い出して楽しんでいただくなり、それ以外にこんな遊び方もあったと思い出して別途記録するなりしていただければと思うからでもある。もちろん私のボケ防止、記憶力の回復のためでもあるが。こんなことでもう少しつきあってもらいたい。
 話を戻そう。

 さらに暖かくなってくると行動範囲が広がってくる。私たちの場合は、家の近くにある小学校のグランドの土も乾くので、そこに放課後や休みの日に出掛けて行って砂場やブランコ、シーソー(私たちはギッコンバッタンと呼んでいた)、鉄棒、登り棒で遊ぶのが手っ取り早かった。学校では授業時間以外はそこで遊んでも怒らなかった。今のように児童公園など整備されておらず、幼稚園もなくて(註1)遊具は小学校にしかなかったこと、地域と学校が密着していたことなどからだろうか。
 ここでの砂場遊び、海も川原もなく砂遊びをする機会のない私たちにとってこれは本当に魅力的だった。砂で山をつくってトンネルを掘り、道路や線路をつくったりする遊び、砂山のてっぺんに小さな棒を立て、それを崩さないようにいかに砂を多く取るかの競争をし、順にそれをやっていく途中で棒を倒したものが負けとする遊び(砂取りと呼んだような気がする)、さらに地雷遊びでも楽しんだ。
 この地雷遊びはまさに時代の反映だったのだろうが、こんなものだった。「田」の字に砂を盛り上げ、その四隅のいずれかを自分の陣地とし、そこに小さな棒(数㌢の小枝)を3本たてる。さらに各人1本ずつ小さな棒を持ち、それを地雷とする。そしてそれを他の人にわからないように「田」のどこかに埋める。それからいよいよ勝負となるわけだが、順番を決めて自分の陣地にある棒を「田」の上を動かす。途中で誰かが敷設した地雷の上を通ったらそれはバン、爆発で終わり、棒は取り上げられてしまう。うまくぶつからずに相手の陣地まで行ったら、相手の棒一本が自分のものとなる。一巡したらまた地雷を隠しなおす。これを繰り返し、陣地の棒がなくなったものから順に負けとなる。

 もう夏近いとなるとさらに遠出だ。田畑や線路のところに出かける。でも子どもの足では遠い。もう飽きて疲れてしまう。帰り道などましてやだ。すると始まるのが「ジャンケン歩き」である。みんなでジャンケンし、石で勝ったら3歩、鋏で勝ったら5歩、紙の場合は8歩、負けたものは歩けないと決め、勝ったものがその歩数だけ進む。できるだけ遠くまで進めるように思いっきり歩幅をひろげる。こんな遊びで、疲れを忘れて距離を稼ごうとしたものだった。
 そのうち、もっと遠くまで行ってみよう、どこか知らないところに行ってみようなどという話にもなる。今のように車社会ではないので交通事故の心配などなかったが、遠くまで行くのは子どもにとっては探検、こうした冒険遊びが大好きである。
 冒険どころか危険な遊び、禁じられている遊びをするのも好きである。
 生家の田んぼの近くに泳ぐのは危険と禁じられていた灌漑用の小さな沼があった。何度も述べたように、近所に泳ぐ場所がない(註2)。そこでその沼でこっそり泳ぐやつもいた。私もみんなと沼に入って見た。胸くらいの深さのところまで行って泳いで見ようと思ったが、汚れた水、何かぬるぬるする感じ、気持ちが悪くてすぐにあがってしまった。だから水浴びともいえないかもしれない。
 でも、一度だけまともに水浴びをしたことがある。ただしこれは冒険ではなく、まさに水遊びだった。それは母の実家に疎開したときのことである。実家の前を幅1.5㍍くらいのきれいな小川が流れており、そこに堰があって水が溜まるので、そこで泳ぐのである。もっとも深いところで子どもの胸くらいまで、泳げる距離はせいぜい4~5㍍、だから安全、大人は泳いでも何も言わなかった。近所の子どもみんな集まり、男も女もノッパ(素っ裸)、それでも何とも思わず、2~3㍍くらい浮かんで流されてみたり、犬かきで泳いでみたり、手足でぱちゃぱちゃやったりして楽しんだものだった。でもすぐに敗戦、夏休みの最中に生家に帰ったので、水浴びらしい水浴びをしたのはその年の夏の一回だけだった。

 危険な遊びといえば吹き矢があった。これは駄菓子屋で売っているものだが、長さ30㌢、直径2㌢くらいの紙製の中空の筒に、紙を曲げてつくった円錐(私たちは矢と呼んだ)を入れ、その入れた筒先から口で思いっきり息を吹き込み、その空気圧によって矢を飛ばすのである。これを買いたいというと絶対に人がいる方向には飛ばさないという厳しい条件つきで許可された。それは吹き矢が当たって片目が失明した上級生が近所に実際にいたからでもあろう。それは私が物心つく前のこと、そんなことはまったく知らず、その上級生からいっしょに遊んでもらったのだが、いつごろ誰が失明させたのか、どのように決着したのか誰も教えてくれず、だからそうした事件があったのを知ったのは大人になってからだった。
 同じようにきつく注意されたのが、ゴムパチンコだった。駄菓子屋からそれを購入する場合、ゴムだけ買って自分で二股の木の枝を探してつくる場合とがあった。それで小さな石を打ってスズメを捕まえようとするのだが、どうしても力が弱く、当たっても何の打撃を受けないようなもの、それでも親からは人に向けて撃つなときつく言われた。
 なお、石投げだけは人がいなくともやってはだめと固く禁止された。田畑にも投げてならないときつく言われた。耕すのに差支えるからである。と言われてもやはり投げたくなったものだった。
 ただし、同じ石投げでも石飛ばし(川の水面に水平に石を投げ、水面に石をはねさせ、いくつ跳ねさせたかを競う遊び)は何も言われなかった。

 危険といえば当時身の回りに危険なものがたくさんあり、子どもが犠牲になることが多々あった。
 たとえば、近くの公的機関がその敷地内に掘った大きな穴(何で掘ったのか聞いた記憶がない)に雨水が溜まってため池になり、私と同学年の男の子がその辺に遊びに行き、そこに落ちて死ぬと言う事件があった。これは戦中のことだったが、戦後すぐのころにはこんなこともあった。近くの八幡神社の前に大きな杉の木の丸太が何本か積み重ねられており、その上で子どもたちが遊んでいたら突然崩れ、女の子が一人その下敷きになって死んだのである。その小さな遺骸を父親が泣きながら抱き抱えて家に帰っていく姿を遠くから見たとき何とも言えない気持ちだった。
 戦中戦後、食うのがせいいっぱいのころ、子どもの安全などに備える社会的な余裕などなく、気を付けろと大人や年上の子が口を酸っぱくして注意するしかない時代だった。

 私の小学6年(戦後の1947年)の冬だったと思う、「こっくりさん」という不気味な占いがあり、大人もよくやっており、非常によく当たるのだそうだという話が教室内でまた近所の子どもたちの間でひろまった。そして誰だったか忘れたが、それを教室でやってみせた。白紙にアイウエオの五十音と0から9までの数字、それに鳥居(神社の地図記号)を書き、その上に3本組みわせて結んだ割り箸の先端を置き、「こっくりさん おいでください」と3回みんなで唱える(だったと思う)と、箸を持っている人の手がひとりでに動く(これはこっくりさんが乗り移っているからだという)。そして割り箸の先端が触った字を順に追っていくと、意味のある言葉になる。それがこっくりさんのお告げ、探し人がどうなっているかなどはとくによく当たり、何か命じられた場合には必ずそうしないと祟りがあるというのである。一時期ちょっと流行ったが、なかなかうまく言葉にならないこと、気味が悪いこともあってあっという間に廃ってしまった。
 こんな占い遊び、きっと戦後の混乱のなかでの不安から流行ったものだろう(註3)。
 これは別にしても、占い遊びは子どもたちは好きだった。もみじの葉っぱを適当に1枚とって「ベ・ン・キョ・ウ・モ・ミ・ジ」と言いながらその葉先に順に指を当て往復してぴったり終われば、つまり葉が四つに分かれていれば、通信簿がよくなるなどという占い遊びもあった。
 もっと簡単な占い遊びは、「あーした てんきに なあーれ」と歌いながら履いている下駄の片方を足から飛ばし、遠くに落ちた下駄が表か裏かで翌日の天気を占うものだ。表なら晴れ、裏なら曇り、何とか表が出ないか、夕方家に帰る途中、それを願いながら大きな声で歌って下駄を飛ばす。表が出たら万歳、明日はまちがいなく晴れ、裸足にならないように片足でケンケンしながら飛ばした下駄のところに近づき、足に入れて、元気よく家に帰る。

 こうして考えていくと、遊びはまだまだ思い出させそうである。そう言っている間にも石鹸を溶かして麦わらで飛ばそうとしたシャボン玉遊び(なかなか泡ができなかった、石鹸の質が悪かったのだろう)を言うのを忘れていたことに気が付いた。
 しかし、思い出せないものもかなりあるはずだ。それはおいても、今まで述べただけでもかなりの数の遊びを経験しているはずである。
 いったい私はどのくらいの数の遊びをやったのだろう。頭の体操のためにいつかちょっと整理してみようかと思っている。

(註)
1.12年1月23日掲載・本稿第三部「☆『ポストの数ほど保育所を』」(2段落)参照
2.11年2月1日掲載・本稿第一部「☆水浴びと冬の遊び」(1段落)、
  13年5月23日掲載・本稿第五部「☆ニカメイチュウ、ホタル、水生動物」(4段落)参照
3.この話を若い友人にしたら、自分たちも記憶があるという。1970年ころにもこっくりさんが流行ったらしい。ただ、割り箸ではなく10円硬貨を使ったと言う。
スポンサーサイト

コメント

[C53]

想像を絶する悲しさ悔しさ等は、同時代の同じ境遇をくぐった人でないと共感できないのでしょう。ふだん同じ悲しい悔しいという言葉を使っても、全然感じが違うような気がします。・・・もしかすると楽しい思いも最近の人と比べて何倍も楽しんでいらっしゃるような気になりました。(想像を絶する悲しさ悔しさだけでなくてよかったとちょっと安心しますが)このふれ幅の違いをもう少し考えてみます。
  • 2014-02-25 20:32
  • shusaku Ito
  • URL
  • 編集

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR