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大震災から満三年



                 大震災から満三年

 明日(3月11日)であの大震災から満3年になる。遠い昔であったような、つい最近だったような、ときどきわからなくなる。私の住む住宅地の約3割の住宅が解体、新築もしくは駐車場化され、さらに3割が改築され、いまだにそうした工事が続いていることが、そして風景がちょっと変わってしまったことが、震災があったことを改めて思い起こさせてくれる。

 震災から2週間くらい過ぎてからではなかったろうか、何とかちょっと落ち着いたので、家内が友人の一人に電話してみた。以前私の家の1軒隣りに住んでおり、子どもたちも仲良く、78年の宮城沖地震の時にはお互いに助け合ったりしていたのだが、後にちょっと遠くの団地に引っ越したので、震災で大丈夫だったかを確かめるためである。しかも彼女は津波で大きな被害を受けた岩手県の陸前高田生まれ、彼女の実家がどうなったかも気になった。
 一言二言お互いに無事を確かめ合ってから、家内が高田の実家はどうだったかを聞いてみた。
 「あっはっは みーんなだめだったの、父も母も、家を継いだ兄の家族も、家も。高台だから大丈夫だと思っていたけどぜーんぶ、あっはっはっは」
 その声は明るかった。続けて言った。
 「実家の近くに住む兄や姉の家族で助かったのはいたけど、それ以外はぜーんぶやられちゃった、友だちもみーんないなくなっちゃった」
 家内は返す言葉が見つからなかった。慰めの言葉など探そうにも探せなかった。
 泣かれるより辛かった、と家内は言う。彼女は家内に気を遣って明るく話してくれたのだろうが。
 もしかして、生まれ育った時からいっしょにいた人々が一度にいなくなってしまう、自分を育ててくれた故郷が突然なくなってしまう、あまりにも失うものが大きすぎ、もう笑うしかなかったのかもしれない。あまりのショックで涙も出なかったのかもしれない。絞り出す涙がなくなるほど、もう泣くだけ泣いてしまっていたのだろうか。
 泣けるというのは幸せなことなのかもしれない。被災した方々が素直に泣ける日が早く来ることを祈るしかなかった(註1)。

 この歌をご存じだろうか。
  「花摘む野辺に 日は落ちて
   みんなで肩を 組みながら
   歌を歌った 帰り道
   幼なじみの あの顔この声
   ああ 誰か故郷を 思わざる」
 私と同じ世代の人までは覚えているかもしれないが、『誰か故郷を思わざる』(註2)という歌である。
 戦後、満州からの引揚者が引き揚げ船のデッキの上で遠く日本の方を見ながら、そしてみんな泣きながら、この歌を合唱したという。東京都で生まれ育った人たちもやはりその歌で泣いたのではなかろうか。そのころはまだすぐ近くに農村、田畑、雑木林があったからだ。「花摘む野辺」は日本人みんなの故郷だった。
 しかし、彼らはこの故郷から国策によって満州に追いやられた。そして敗戦と引き揚げで多くの家族を失った。その家族とともに帰りたかった故郷を思いながら、歌ったのだろう。涙が出てくるのは当たり前だった。
 引揚者には東北出身者が多かった。『誰か故郷を思わざる』はまさに自分の歌だった。

 あのころからもう60年、故郷は、農山漁村は、東北は大きく変わった。
 戦後の一時期あれほど賑わった農山漁村は徐々にさびれはじめ、故郷から人がいなくなり、荒れ果てるようになってきた。それでも、何とか故郷をまもりたい、発展させたいとみんな懸命になって努力してきた。
 今回被災した地域もそうだった。そこにあの大津波だった。人々も、家々も、豊かな自然も津波は破壊して行った。一挙に故郷はなくなってしまった。ただもう唖然とするだけだった。福島ではさらに原発事故が重なった。今の今まで住んでいたところが帰れないところ、遠くの避難先から思い出すしかできない故郷になってしまった。まさに『誰か故郷を思わざる』にさせられてしまった。

 震災直後から被災地に全国各地からたくさんの人々がボランティアとして入り、被災者をさまざまな面から手助けしてくれた。被災者は泣きたいほどうれしかった、でも最初は涙が出なかったと言う。
 3~4ヶ月くらいしてからではなかろうか、音楽家の人たちがボランティアで被災地を訪れ、音楽会を開いてくれた。会の最後に演奏し、歌ってくれたのはほとんどが『故郷』(註3)だったという。
  「兎追ひし 彼の山
   小鮒釣りし 彼の川
   夢は今も 巡りて
   忘れ難き 故郷」
 被災者はみんなみんな涙しながらこの歌を聞いたという、しかし、いっしょに歌おうといわれても最初の頃は歌えなかったと言う。涙で声が出なかったのだ。それを見て演奏した人たちもまた涙したと言う。
 被災地はそのほとんどが農山漁村だった。まさに緑豊かな山川、田畑に囲まれた故郷だった。だからましてやこの歌は被災者の心に響いた。そして失われた故郷を、その故郷でともに過ごした人々を思い出して涙したのだろう。原発で避難していた人たちは帰れない故郷を思い出して泣いてしまったのだろう。ようやく涙の熱さがわかるようになっていたころだった。

 震災から一年くらい経ってからではなかったろうか、NHKテレビで『花は咲く』という歌(註4)を繰り返し流すようになった。東北に縁のある著名人がリレー形式で歌う、心のこもったいい歌だった。そして被害を受けた故郷に早く花を咲かせてもらいたい、こんな願いを込めながら聞いていた。同時に、本当に花を咲かせることができるのだろうか、とくに原発の被害を受けた地域はどうなるのかなどと考えさせられながら聞いてもいた。
 どのくらいの回数聞いたころだったろう、あるときふと最後の歌詞が耳に残った。
  「花は 花は 花は咲く
   いつか恋する 君のために」
 とたんに涙があふれた。なぜか孫のことが、被災地の子どもたちのことが頭に浮かんだのである。花開いた故郷で、緑なす故郷で、被災地の子どもたちが恋をささやけるようにしてあげたい、私の孫が、世のすべての子どもたちが、安心してすてきな恋ができるようないい世の中にしてあげたい、そんな気持ちからだったのだろうか、よくわからない。
 ともかくそのときからこの歌を聞くたびに、条件反射のように、目が潤むようになってしまった。

 被災した土地に草花が芽生え始めた。そうなのである、「花は咲く」のだ、「いつか恋する 君のために」。希望をもとう、こう若者たちに言ってあげたい。
 しかし、花が咲いても、若者たちがその土地に住んで恋をすることができないところがある。原発の被災地だ。まさに故郷は失われた。
 原発被災地ばかりではない。TPPで農林水産物が全面輸入自由化されれば若者は故郷で生きていくことはますますできなくなる。東北の普通の農山漁村でさえ大変なのに地震・津波の被害を受けた地域などましてやそうだ。
 東北だけではない。私が第三の故郷と思っている北海道などはTPPでまともに関税が撤廃されればもう壊滅である。故郷の風景の重要な一部をなす田畑は荒廃するしかない、人はもう住めない。
 その北海道と反対側にある沖縄もそうだ。

 沖縄のサトウキビ畑、沖縄戦で焼き尽くされ、踏みにじられたが、沖縄県民の努力でよみがえらせてきた。そしてサトウキビ畑はまたもとのように沖縄の人たちの故郷の風景となった。もちろん米軍の基地として接収され、滑走路などとしていまだにむき出しの更地に、あるいは荒野の演習地にさせられたりしている土地が多々あるが。
 この沖縄のサトウキビ畑を歌った歌がある。この歌『さとうきび畑』(註5)も聴くたびに涙が流れる。ただし、全曲が歌われるときだけだ。ご存じだろうが、この曲はきわめて長く、途中が省略されて歌われる場合が多い。私としては省略してもらいたくないのだが、この省略しているところあたりから私の目がうるんでくるのである。
 そしてここまで来ると涙が止まらなくなる。
  「お父さんて 呼んでみたい お父さん どこにいるの
   このまま 緑の波に おぼれてしまいそう
   夏の ひざしの中で」
 それから最後のところまでくるとしゃくりあげてしまう。
  「ざわわ ざわわ ざわわ 風に涙は かわいても
   ざわわ ざわわ ざわわ この悲しみは 消えない」
 そしていつも思う、こんな気持ちを、孫に、すべての子どもたちに味あわせたくない、こんな涙を流させたくないと。震災であろうと、戦争であろうと、子どもたちに大きな悲しみを与えるようなことはさせたくない。
 このサトウキビ畑がTPPによる関税撤廃で消滅してしまう。故郷の風景が破壊されてしまう。そして戦争を二度と起こさないようにしようと考えさせるこの歌を実感として感じなくさせてしまう。
 こうしたなかで「戦争ができる国」に再び日本が戻ってしまう、そして日本が戦争で他国のあるいは自国の故郷をまた破壊する。そんな国になってしまうことは何としても阻止したいものだ。

 自然の猛威、これには逆らえない。しかしそれによる被害は人間の知恵で避けることができる。
 原発、TPP、戦争、格差の拡大、これらは私たちが逆らって止めさせることができる。
 故郷はまもることができるのだ。

 昨年の11月3日(註6)、プロ野球日本シリーズで東北楽天(註7)が優勝し、日本一となった。その瞬間、ファンはみんなみんな涙した。私も涙が出た。こんなにファンが涙を流した優勝、これまでなかったのではなかろうか。プロ野球史上初めてだったのではなかろうか。
 あの日、楽天以外のチームのファンの人もかなり野球中継を見た、そして楽天を応援し、喜んでくれたという。巨人ファンも負けたのを口惜しがりながらも楽天ならまあしかたがないと祝意を表してくれたらしい。こんなに全国のプロ野球ファンが一つのチームを応援してくれたことはなかったのではないかとも言われている。それを聞いたときうれしかった。みんな東北のこと、震災のことを忘れてはいなかったのだ。その優しさ、涙がこぼれるほどうれしかった。
 仙台での優勝パレードのとき、集まったファンは選手に向かって「ありがとう」と声をかけた。「おめでとう」ではなかった。選手もファンに「ありがとう」と叫んだ。こんな優勝もプロ野球史上初めてではなかったろうか。また私は涙を流してしまった。
 震災のときとはもちろん違った涙だった。人の優しさに触れたときの涙だった。喜びと感謝の涙だった。こんな涙は何回流してもいい。泣き虫と言われてもいい。
 人々の優しさに、思いやりに目を潤ませる、こんな優しい、思いやりのある世の中になってもらいたいものだ。

 津波に襲われた田んぼに何年ぶりかで稲穂がたわわに実る、漁港が復活して市場が魚介類と人々で沸き返る、家の新改築でしばらくぶりで故郷に家に戻る、そのときに人々の浮かべるあの笑顔、こうした笑顔が全国にいや全世界に満ちあふれる世の中になってもらいたいのはもちろんのことだが。

 3年も過ぎると徐々に徐々に記憶が薄れてくる。これは自然のことだし、いいことでもある。
 問題は政府がそれを利用して被災地に対する支援を怠るようになり、原発の再開をまた輸出を積極的に推進するようになっていることだ。
 戦後すぐ、大人気を博したラジオドラマ『君の名は』(註8)は、古関裕而のひくハモンドオルガンをバックにした次のようなナレーションから始まった。
  「忘却とは 忘れ去ることなり
   忘れえずして 忘却を誓う心の 悲しさよ」
 この言葉は戦争の傷跡のまだ癒えなかった人々の心に深く刻まれた。
 でもやはり忘れた方がいいことがある。忘れねばならないこともある。忘れなければ人間は生きていけない。いつまでも辛さ、悲しさをひきずっているわけにはいかない。
 しかし決して忘れてはならないこともある。どんなに辛いことでもいやなことでも事実は事実として伝えていかなければならない。それは戦争についても震災に関しても同じだ。そして二度と悲劇を繰り返さないようにしようという気持ちを伝えていかなければならない。

 3月11日を忘れないでほしい。東北を、被災地を、被災者を忘れないでほしい(註9)。「天災は忘れたころにやってくる」も忘れないでほしい。
 もう一つ、69年前の今日3月10日、東京大空襲で10万人の命が奪われた日も忘れないようにしていただきたい。そしてそんな悲惨な戦争を日本は二度と起こさないと誓いあったことを忘れないでいただきたい。

(註)
1.震災と涙については下記記事でも述べているので参照されたい。
  12年10月4日掲載・本稿第五部「☆日本人の涙」
2.作詞:西條八十 作曲:古賀政男 唄:霧島昇 1940年
3.尋常小学唱歌 作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一 1914年
4.作詞:岩井俊二 作曲:菅野よう子 2012年
5.この歌については下記記事でも触れているので参照されたい。
  11年2月15日掲載・本稿第一部「☆「残留」孤児と沖縄」(4段落)
6.この日は奇しくも3月11日と同じ数字、そんなことで覚えやすく、いまだに覚えている。きっとこれからも忘れないだろう。
7.東北楽天については下記記事でも触れている。
  13年9月30日掲載・本稿第六部「☆巨人・大鵬・卵焼き、東北楽天」
8.制作放送:NHK 脚本:菊田一夫 1952~54年
9.大震災に関しては、下記記事でも述べているので参照されたい。
  11年3月24日掲載・本稿第一部「★再開にあたって」
  12年3月11日掲載・本稿第三部「★大震災から一年を迎えて」
  12年10月1日掲載・本稿第五部「☆『ッポンヨイクニ ツヨイクニ』」
      同上    ・  同 上  「☆サクランボの怒り」
  12年10月4日掲載・ 同 上  「☆日本人の涙」
      同上    ・  同 上  「☆「絆」、それを断ち切るもの」
  12年10月8日掲載・ 同 上  「☆日本人の行列」
  12年10月11日掲載・ 同 上  「☆核のゴミと懲りない面々」
      同上    ・  同 上  「☆未来を拓くのは若年層?女性?」
  12年10月15日掲載・  同 上  「☆岐路に立つ被災地の農業」
  13年11月25日掲載・本稿第六部「☆搾乳と震災」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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