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行商からセールスへ



                 続・今は昔、思いつくまま(20)

                   ☆行商からセールスへ

 前回の記事で修理を商売としている鋳掛屋について書いたが、包丁やはさみの研ぎ、洋傘修理などの用事がないかを家々を回って聞き歩き、あるといえばその場で研ぎ、修理をしてお金を稼いで歩く人もいた。しかしもう今は見たことがない。切れなくなったら買う、壊れたら買うの社会になってしまったからなのだろう。
 ところで、こういう人たちのことを何と呼ぶのだろうか。店を持たずにあちこち歩いて商売しているので行商人ともいえるが、商品を持って歩くわけではないので行商人と言えるかどうか疑問になる。
 ついでにいえば、家々をまわって紙屑など廃品を回収して歩く屑屋はどうなのだろうか。なお、屑屋を私が見たことがあったかどうかはっきりしない。私の生家の近くをまわって歩いたのかもしれないが、もしかすると「くずい おはらい」と言いながら歩く姿を本や映画、落語等々で見て聞いて知っているだけなのかもしれない。それはそれとして、こうした屑屋のように商品を売るのではなく買って歩くのは行商というのだろうか。
 よくわからないが、ここでは「店を持たずにあちこちの町や村あるいは家々を回って商売して歩く人」を行商人と呼ぶことにしよう。
 こうした行商人、私たちは「物売り」と呼んでいたような気がするが、子どものころはたくさんいた。毎年一度来た越中富山の薬売りなどは一番最初に思い出すが、このように一軒一軒訪ねて売り歩く場合もあれば、売り声や鳴り物で知らせて売り歩く触れ売りだったり、路上や空き地などの片隅にちょっとの時間店開きして売る場合もあった。お得意さんだけを訪ねる場合、不特定多数と売り買いする場合、この形式も多々あった。
 子ども対象の行商もいた。前に述べた富貴豆売り、しんこ細工屋、バクダン屋などにはよくお世話になった(註1)。

 なお、行商から買った品物、後で返品したいと思ってもできない。それを利用して質の悪いものを高く売りつけたり、だましたりするものもいた。これは戦後もかなりあった。
 放課後の時間をねらって小学校の前でひよこを売る行商などもそうだった。ピヨピヨという声に惹かれて学校帰りの子どもたちが集まってくる。箱の中で騒いでいるたくさんの小さい黄色いひよこ、何ともかわいい。飼いたくなる。雌で卵を産むと売り手は言うし、小遣いで買えるほど安い。ついつい買ってしまう。それで家に帰って怒られる。
 私の息子も、小学2年のとき(1973年)に買ってきた。家内は怒ったが、雌だと店の人は言っていた、大きくなれば卵を産む、めんどうは自分で見る、餌代も自分が小遣いから出すとがんばるので、認めてやることにした。雄で何の役に立たなくとも、飼って育てて見るということをさせてやりたかったからである(註2)。ひよこは小さいうちは家の中で飼った。息子が学校に行っている間家内がめんどうをみることになるが、ご存じのようにひよこには「刷り込み」という現象があり、それで家内を親だと思ったらしく、いつも後ろをついてちょこちょこと歩いていた。その姿が何ともかわいかったと家族は今でも笑う。家内が洗濯物を干しに二階に上がると、階段が登れないひよこはつれていけと下で鳴いて騒ぐ、家内はしかたがなく上にあげてやったとのことである。
 やがて大きくなって外で飼うようになったが、いうまでもなくやはり雄鶏、そのうち朝になると鳴くようになった。最初は下手だったが、やがてうまくなり、どこまでも聞こえるような大きな声で鳴く。早朝のことだから近所迷惑、どうするか家族会議となった。肉にして食べよう、私がつぶしてやると提案した。当然のことながら子どたちは猛反対、それではどうするかというと答えられない。やむを得ない、家畜育種学研究室に当時いたKT君(前に何度か登場してもらった)に引き取ってもらえないかと頼んでみた。そしたら、ちょうど研究室に白レグの雄がいなくて困っていたところだ、引き取ってやるとのこと、早速翌日段ボールの箱に鶏を入れ、自転車の後ろにつけて農学部に運び、一件落着となった。
 私のところはこれですんだが、ひよこを買っていった他の子どもたちの家ではどうしたのだろうか。ひよこ屋は学校の前には2時間もいないで引き揚げてしまうのだから、親が引き取ってもらおうと思って行ってももういない。その後どうしたのか、今でも不思議になる。

 話を戻そう、子ども向けの行商では、他にもアイスクリーム、アイスキャンデー、団子、焼き芋売り等があった(註3)。もちろんこれは子どもだけを対象にしているわけではないが、よく小遣いで買ったものだった。
 毎日のように見かけたのは納豆、豆腐、唐辛子の売り子だ。貧しい家の子どもの中に朝晩納豆売りをしているものもいた。
 それから、これも前に述べたが、鯉や山菜、キノコ等を売りに来る人もいた(註4)。これは山村の農家の人だった。
 日用品の行商もあったが、それで思い出すのはゴムひも売りである。おれはさっき刑務所から出てきたばかりだなどと脅して無理やりゴムひもを買わせ、しかもゴムひもを伸ばして長さをごまかしてお金を取るなど、まさに押し売り、詐欺だった。町でも村でも、家々の玄関先に「押し売りお断り」の紙が貼ってあったが、これはいかにこうした類の押し売りが多かったかを示すものであろう。
 戦後の一時期は傷痍軍人による日用品の行商がよく見かけられた。傷痍軍人とは戦争で傷を負って帰ってきた兵隊のことを言うのだが、戦時中は名誉の負傷と言うことで称えられた。しかし戦後、除隊した彼らは当時の就職難に加えて身体が不自由なのでまともな仕事につけず、政府の保護ではインフレのもとで食って行けず、日用品の行商で暮らしの糧を得ようとしたものがいたのである。祖母は戦死した息子二人のことを考えたのだろう、来れば必ず買ってあげていた。それもあったのだろう、私の生家にはよくきたものだった。そのうちの一人、足が不自由になって松葉杖をついて歩き、言葉も不自由になっていた人は、毎月一回必ず生家に来た。祖母は縁側に座らせてお茶を出し、必ず何か買ってやっていた。とくに欲しいものがなければ歯ブラシを買ってやった。だから祖母の押入れの箪笥には歯ブラシがいつもたくさん入っていた。
 傷痍軍人といえば、戦闘帽をかぶり、陸軍病院で着させられる白い病衣を着た義手や義足の傷痍軍人が山形駅前でアコーディオンやハーモニカを奏で、お金をもらっていたことを思い出す。何のメロディを奏でていたのか覚えていないが、悲しい暗いメロディだった、しかもうまかった。苦しくて耳をふさぎたかった、歌を頭から追い払おうとした。だからではなかろうか、曲名を覚えていないのは。このなかには偽物、本当は傷痍軍人でないものがいるという話もあったが、ともかく見るのはいやだった。昭和にはこういうものもあったのだ。
 この姿を見なくなったのは50年代後半ではなかったろうか。
 戦後生まれのガンガラ部隊による行商(註5)も少しずつなくなってきた。
 同時にそれ以外の行商もなくなっていった。押し売りもあまり問題とならなくなってきた。ものが豊富に出回る時代になり、また店も増えて行商しても売れなくなってきたこと、就業機会が以前よりは増えてあえて行商などしなくともよくなったことなどからだろう。
 しかし、まったくなくなったわけではない。以前とは違った形での行商が若干ではあるけれど見られるようになった。

 まず、自動車を利用した行商の出現である。
 焼き芋屋はかつてはリヤカーに釜を載せて歩いていたが、それは軽トラックに変わった。また屑屋は、やはり軽トラックで「古新聞紙、段ボールとちり紙を交換します」とマイクで大きな声で知らせて歩く古紙回収車、ちり紙交換車となった。これはうるさいほどだった。新聞紙等々、紙がたくさん出回るようになったこと、途上国での需要が出てきたこと等からだが、時代の変化を感じさせたものだった。それから、魚や野菜、日用品を車に積んで売り歩く車もある。これは農村部の高齢者世帯の多いところを回るのだが、前に述べたように商店が近くになくなり、自動車で買い物もできず、こうした移動販売車にたよらざるを得なくなったことからきたものである。
 また、かつてなかった商品を取引する行商もできた。
 たとえば灯油販売の自動車だ。冬になると走り始める。最近の電化製品、電子機器などの回収車もそうだ。この回収車のなかのいくつかは最初「こちらは便利屋です、何でも仕事をお引き受けします」と触れ歩く車だった。最近は便利屋と回収車を兼ねているようである。
 一度だけ便利屋に頼んだことがある。網走から引っ越した時にあげ忘れた洋服ダンスを二階にあげなければならないのだが、かなり大きくて階段を上るのがむずかしく、しかも私は高齢者、それで電話をして頼んだのである。父親と若い娘の二人が来てくれたが、娘が主導権を握って(これがほほえましかったが)上手にあげてくれた。
 実を言うと、私は便利屋と言うものを知らなかった。生家のある山形になかったのか、私が覚えていないだけなのかわからないが、私が知ったのは娘が生まれたばかりのころだった。ある日家内の実家から長く太い青竹が届いた。子どものおしめを干す物干し竿にしなさいということだった。誰が持ってきてくれたのかと家内に聞いたら、便利屋に頼んで運んでもらったようだという。便利屋、初めて聞く言葉だった。家内に聞くとどんな仕事でも引き受けてやってくれる店だと言う。そういう店もあるのかと驚いたものだった。
 この青竹、家内の生家のあるところも産地なので送ってくれたのだが、産地ではない私の地域、生家では荒物屋から買っていた。だからだろうか、青竹売りという行商があるというのは何かで知っているだけ、見たことはなかった。90年代の半ばころからではなかったろうか、「たけやー さおだけー」という声が車のスピーカーから聞こえるようになった。物干し竿を売る、金属製の新品と古いのとを取り替えてやるというのである。かつての青竹売りが物干し竿売りに変わったのか、呼び声は昔のまま、これもありだろうと思っていた。しかしやがてこの物干し竿売りはインチキ商売、押し売り・詐欺の類だとわかってきた。電化製品の回収車のなかにもそういうものがあるので気をつけるようにとの注意がなされるようになってきた。
 このような問題は訪問販売いわゆるセールスですでに起きていた。
 1970年代になってからではなかったろうか、販売業者のセールスマンが一方的に消費者宅に訪問して商品を販売して歩く姿が見られるようになった。行商人ではなくてセールスマンが売り歩く時代になってきたのである。そしてなかには詐欺的押し売り的販売行為をする等さまざまな問題を引き起こした。かつての押し売りがセールスマンに変わったのである。それでクーリングオフなど消費者を保護する諸制度ができたのだが、詐欺的押し売り的販売行為がより大規模な形でなされるようになったのである。そしてそれは今でも続いている。たとえば最近で言うと貴金属の押し買いだ。
 その昔は「押し売りお断り」のステッカーが各家の玄関に貼ってあったが、今は「セールスお断り」に変わってきている。でも電話でのセールスはステッカーでは断れない。一人で家にいるときのセールス電話の多さとしつこさ(とくに最近アメリカ系の保険会社がうるさい)にはまいってしまう。
 宣伝広告、そしてセールス、すべて悪いなどとは言わない。しかし、こんなに多くていいのだろうか。わが国の生産は、技術はどうなっているのだろうか。こんな心配までしてしまう。そしてホーロー看板などをなつかしがってしまう。

 昭和の懐古展や昭和を振り返るテレビを見たりするとしみじみ感じる、私も年をとってしまったものだと。
 私の若いころ、「明治は遠くなりにけり」という言葉が流行ったものだが、大正どころかもう「昭和も遠くなりにけり」になったのだろう、回顧の対象になってしまった。私自身ももう古く錆びついたホーロー看板と同じ、そういえばそんな人もいましたねえと回顧される側になってしまった(思い出されもしなくなっているだろうが)。何とも奇妙な感じである。
 それはそれとして、私としては多くの人に昭和の時代を大いに回顧してもらいたい、なつかしんでもらいたい、そして私もなつかしみたい。しかし昭和は戦争を引き起こし、一般庶民はもちろんのこと、外国の人たちにまで多くの被害を苦痛を与えた時代であったことも忘れないでいただきたい。また、戦後の昭和は貧しかったけれども平和と民主主義の実現に取り組み、さらに貧困からの脱却、格差の是正を目指した年代であったこともぜひ忘れず、そこから学んでいただきたいものである。

 それはそれとして、今の世の中、買い物は本当に便利になった。量販店に行けばあらゆる商品が並んでおり、そこで一気に買い物ができる。通販もある。八百屋、魚屋、豆腐屋等々をまわって歩くこともいらない。行商の人の来るのを待っていなくともいい。知っている人もいないので、わずらわしさはなし、人目を気にせず買うこともできる。
 しかし、そのかわりに会話が減った。その昔は店の人といろんな会話をし、買い物でいっしょになる近所の人とあいさつをし、おしゃべりをし、近隣の情報をはじめいろいろな知識を得た。そして仲良くなり、何かのときには助け合った。でも今はそんなことはなくなってしまった。まさに「隣は何をする人ぞ」の社会になってきた。それは農村部にもひろがりつつある。本当にそれでいいのだろうか、ときどき疑問になる。

 それくらいならまだいい。地域の中小商店や行商がなくなるなかで車に乗れなくなった高齢者は買い物ができなくなっている。とくに過疎農山村ではこれが深刻な問題になっている。それを解決するためにと農協などが週に何回か食品、生活雑貨 日用品等を車に積んで地域を巡回して販売するところも出てきている。まさに新たな段階での行商の復活、歓迎すべきことだが、はたしてこれがいつまで続くだろうか。

(註)
1.11年1月26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(2段落)、
  11年2月2日掲載・本稿第一部「☆一銭店屋」(3段落)参照
2.生家では飼っている鶏が卵を産まなくなる頃、業者からひよこを買ってきて木製の飼育箱で育て、寒い日には家のなかの土間に入れるなどして鶏小屋に入れるまで大事に育てたものだった。このことについては下記の本稿掲載記事で触れている。
  10年12月15日掲載・本稿第一部「☆家畜の世話」(1~2段落)
3.アイスクリーム、アイスキャンデー売りについては下記の本稿掲載記事を参照されたい。
  12年7月13日掲載・本稿第四部求めてきた「☆その昔の夏の暑さ対策(9段落)参照
4.11年3月31日掲載・本稿第一部「☆塩魚、干魚から生魚へ」(3段落)、
  11年5月27日掲載・本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」(1段落)参照
5.11年3月31日掲載・   前掲       (4~5段落)参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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