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寄り合い、集落集会所


                続・今は昔、思いつくまま(22)

                 ☆寄り合い、集落集会所

 農村部に行くと小さな集会所をよく見かける。ほとんどの集落に建てられていると言っていい。名称や建築様式、規模、施設整備の程度等々さまざまだが、平均的な集会所でいえば、40~50人座れる畳敷きもしくは床張りの広間、お湯を沸かしてお茶の準備ができる程度の水道つきの小さな台所、それにトイレがあり、黒板、折りたたみの長机、座布団、薬缶、湯飲み茶わん、灰皿、石油ストーブなどが備え付けられている。たまにはある程度の炊事ができるように台所が整備されているところもある。
 この集会所を利用してなされるのがまず集落の『寄り合い』だ。
 しかし、その昔の寄り合いは個人の家でなされる場合が多かった。

 「今晩、家で寄り合いだ」
 私の子どもの頃、父が祖父母や母に言う。
 『寄り合い』、私たち以上の世代は普通に使っていた言葉なのだが、村で寄り合いというときには「農家の生産、生活にかかわることで地域の共同で処理しなければならないことについて地域の農家全員が集まって協議、決定、連絡等をする集まり」を言う(註1)。一般には世帯主がその構成員だが、内容によって若者が出たり、年寄りが出たりする。よほどのことがないかぎり出なければならないし、出席しないと自分も困る。
 祖母が聞く、
 「何の寄り合い?」
 「実行組合の寄り合いだ」
 実行組合とは、集落の農業生産や農協にかかわるさまざまな事項を協議、決定、実行する全農家の組織(地域により生産組合、農家組合、農協支部という名前にしているところがある)である(註2)。
 夕ご飯が終わったころ、各農家の世帯主が「お晩かだっす(お晩方です)」と言いながらわが家に集まってくる。祖父から家の代表権、経営権を委譲されている父が茶の間の長火鉢の前に座り、みんなを迎える。母が湯飲み茶わんを準備し、父は火鉢にかけてある鉄瓶からお湯を注いでお茶を出す。十数人、全員集まったところで話し合いが始まる。組合長の父が議事を取り仕切る。

 こういう寄り合いがしょっちゅうあった。実行組合ばかりでなく、水利組合、出荷組合、青年会等、若干構成員を変えた地域組織の寄り合いが開かれた。また、それらの組織の役員の寄り合い等もあった。
 これまで繰り返し述べたように、農業生産は、また農村の生活は、個々人が孤立してはいとなめず、さまざまな面から地域的に共同協力していかなければならず、そのためにはお互い協議する場、意思形成をする場が必要だったからである(註3)。
 当然そのためには寄り合いを開く場所が必要となる。ところが、集落にはそんな公共的な場所がない。集落の共有林野から得た収入でむらの鎮守様の社務所をつくり、そこを集会所、寄り合いの場所としているようなところもたまにあるが、そんな金持ちの集落などめったにない。町に行けば、あるいは村の中心地の役場の周辺に行けば、集会を開ける施設もあるが、そこを全集落が利用したらパンクしてしまう。しかもそうした場所は集落から遠い。さらに寄り合い等の集まりは特別のことがないかぎり農作業の終わった後の夜に開かれる。公共交通機関もなし、暗闇の中行って帰ってくるだけで大変、年寄りなどはましてや大変であり、青壮年にしても往復歩いて夜遅く帰るのでは次の日にも差支える。
 そうなるとやむを得ない、集落内の誰か個人の家を会場にして開くより他ない。いいことに農家の屋敷は広いのである程度の人数は集まることができる。そこで誰かに犠牲になってもらって会場にすることになる。そうなるとやはり組織の長をしている人の家ということになる。
 こうして会場になった家の人は大変だった。寄り合いが終わってみんなが帰るまで寝るわけにはいかず、後片付けもあり、とくに嫁には大きな負担だった。しかも無償である。だから集まる方も遠慮だった。いつまでも論議しているわけにはいかないし、寝ている子どももいるので大きな声を出して論戦するわけにもいかないことも問題となる。
 でも、お互いさま、いつか自分が組織の長になった時は、あるいは長をやめたときは同じ思いをするわけだからとみんながまんしてきた。
 ところが、そういうお互いさまができない場合もある。それは家屋敷の狭い人(小作人とか分家などに多かった)だ。組織の長になっても多人数の寄り合いを開けない。これでは役職を引き受けるわけにはいかない。やってくれと言われても遠慮するより他ない。一方、地主とか総本家などのなかにはかなり広い屋敷をもっている人がいる。そういう人にお願いしようと言うことになる。そうなると集落の主要な役職はそうした人たちに独占され、集落の民主的な運営ができない場合も起きてくる。実際に戦前はそういう場合が多かった。もちろんそれは寄り合いの会場問題からだけではなく、地主小作関係、本分家関係などの身分格差からも来ていたが(註4)。

 こうした諸問題を解決したい、そのために集落に集会所のような公共的な施設が欲しい、公民館等の各種施設は村や町の中心部に整備されてきたが、集落でも整備してほしい、こういう声が戦後高まってきた。集落の農業や暮らしについていろいろ語り合える場所、寄り合いばかりではない、若者、女性、高齢者等々みんなが集まっていろんな話し合いや活動ができるところが欲しい、趣味の集まりができるところ、みんなで飲み食いができるところ、こんなものも兼ね備えた集落の集会所をつくりたいという強い希望が各地から出てきたのである。
 一方、行政の方も、町と村の格差是正の必要性、農業技術の普及や土地改良、農地の合理的利用、減反、集落の農業振興等々を話し合える場所の必要性を考えるようになった。
 そうしたことから、1960年代後半から国や自治体の各種補助事業が展開され、最初に述べたような集落の集会所(名称は多目的集会所、公民館、生活改善センター、地域振興センター、コミュニティセンター、構造改善センター等々さまざまだが)が各地に設置されるようになったのである。
 これができてから、さっき言ったような問題は解決した。寄り合いの会場などで苦労することはなくなった。家屋敷の狭くて寄り合いが開けない農家も、会場が集会所になったから、遠慮なしに組織の長になれ、能力に応じて役職につけるようになった。
 また、これまでできなかった会合や催し物も開かれ、子どもたちの図工の作品の展示会やご婦人の趣味の集まりが開かれるなど、さまざまな用途で利用された。
 集会所の窓と天井の間の壁には集落に対する各種表彰状や記念写真がずらっと飾られており、誰かが寄付してくれたのかカラオケセットがあったり、懇親会の残骸だろう、数本の空いた一升瓶やビール瓶が台所に残っていたりもし、ともかく賑やかだった。
 みんなが協力して清掃したので、建物の内部はもちろん、まわりもいつもきれいだった。
 集会所はまさに集落の中心だった。

 私も何度となくここを訪れ、また利用させてもらった。
 たとえば集会所で開催される自治体や集落主催の講演会、学習会、座談会の講師や助言者として訪れた。こうした会合の後にその場に全員残って懇親会を開くこともある。お酒を飲みながら本音を聞いたり、地域の昔話やおもしろい話を聞かせてもらうのは本当に楽しかった。
 また、私たちの農家調査の打ち合わせ場所や調査員の集合場所として利用させてもらったり、農家に来てもらって調査をさせてもらう調査場所とさせてもらったり(原則は農家に直接おじゃまして調査させてもらうことにしていたが)もした。
 それどころか、宿泊場所として集会所を利用させてもらった。旅館などから遠く、交通機関も不便な集落の農家調査のさいにはそこの集落のどなたかのお宅に泊めていただいて調査をさせてもらったのだが、たまには集会所にみんなで泊めてもらった。布団は貸し布団屋から借りてもらい、食事は集会所の台所を使って集落の農家の奥さん方からつくってもらい、集会所を拠点にして各農家におじゃまし、調査をさせていただくのである。もちろん、実費をお支払いする。安い上に地元の料理だから本当においしい。しかも調査農家はすぐ近く、交通費はかからず、時間的にゆとりがあり、調査はしやすい。村の雰囲気も味わえる。最後の夜は集落の農家全員とお別れの懇親会、これがまた勉強になり、また楽しかった(註5)。

 集落の集会所がほぼ整備し終わったころの90年代、集落に若者は少なくなっていた。
 それを何とかしたい、そのために地域農業をどう発展させていくか、集会所を利用して何度も話し合われた。それで地域農業の組織化や複合化、農地利用の合理化が進み、若者が残り、農業を発展させた地域もあった。
 しかし、話し合いを持とうとしても、すでに若者は村外流出、残っているものも村外の恒常的兼業に従事していて集会所での会合には出られず、集まる人は年寄りばかり、しかも出るのは自由化、減反、価格低迷、後継者不足等々暗い話ばかり、話は前に進まないという集落の方が多かった。当然そうした地域での若者の流出はとどまるところを知らかった。担い手不足が深刻になり、人口も減り、高齢化が進み、それに歩調を合わせて集会所の利用が減っていった。高齢者がほとんどとなった山間過疎地の集落では、部落会費(町でいうと町内会費)を集める役員は高齢者になり、散居集落などでは集めに歩くのも大変、それどころか年金生活の老人の一人暮らしで会費を出すのも大変な人も出てきた。こうしてもう集落としての機能がマヒしつつあるところもある。そんな集落では集会所の利用どころではない。集会所のまわりの草取りをする人もいない集落も出てきた。
 99年、こんな状況でいったいどうなるのか心配しながら東北を離れ、7年過ぎて帰ってきた。そしてたまに農山村に行く。すると、何か月も利用されていないのではないかと思われるような集会所が見受けられる。離農して廃屋になっている家屋敷を見るのも寂しく辛いが、寂しくぽつんと草むらの中にたつ集会所を見るのも寂しい。
 そして考える、この集会所がたくさんの子どもやお年寄りの明るい笑い声で満たされる日々、集会所から若者たちの真剣な議論の声が漏れ聞こえてくるような日々が、もう一度来ないものだろうかと。
 しかしもう無理かもしれない。最近の世の中の動きを見ていると絶望感に駆られる。

(註)
1.辞書では「同業者のあるいは同じ目的をもつものの会合」と定義しており、当然のことながら都市部にもあった。
2.正式には農事実行組合。そもそもは農協の前身である産業組合の下部組織=集落組織としてつくられたものだが、戦時中戦争遂行のための増産、農産物の供出や生産資材の配給等を行わせるために全国の集落に組織された。戦後解散させられたが、そのまま名前を残して農協の下部組織としたところがあり、生家のある地域がそうだった。
3.本稿の前回(14年3月31日)掲載記事の(註5)を参照していただきたい
4.11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(2段落)、
  11年8月24日掲載・本稿第二部「☆むらの否定の否定」参照
5.下記の掲載記事に書いた秋田県五城目町のある集落での調査などはその典型例である。
  12年3月7日掲載・本稿第三部「☆北の人は無口?」(6段落)
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コメント

[C54] 沈黙することなく

かつて体験しわくわくした希望をどんどん伝えていってほしいと思います。
良いものを継承していくことがほんとうの発展なのだと思います。
吟遊詩人ホメロスのようなものとしてこのブログは貴重だと思います。
  • 2014-04-07 17:51
  • くもり
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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