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官僚から政治=官邸主導へ



                   この国はいずこへ(1)

                ☆官僚から政治=官邸主導へ

 1960年代のこと、ある農家の集まりで今の政治は悪いと話をした。するとほとんどの農家の方はその通りだと言い、政治はけしからんと怒る。そしてその後にこう続ける。
 「うちの先生(自分たちが応援している地元選出の自民党の代議士)たちは一生懸命われわれ農家のためにやってくれるのだが、官僚がその先生方のいうことを聞かない。だから政治がおかしくなる。農政が悪いのは官僚が実権を握っているからだ」
 つまり、政治が悪いのは自分たちの選んだ政治家が悪いからではない、官僚が悪いからだと言うわけである。
 たしかにそう見える。たとえば地元選出の代議士の紹介で役所に陳情に行く。しかし要求が通らないことがある。すると先生はわれわれのためにやってくれるのだが、官僚が言うことをきかない、官僚が悪い、このことがストンと胸に落ちる。米価闘争のときもそうだ。農林議員という人たちが一生懸命引き上げのために動く、しかし最終的には農水省のお役人の算出した案にもとづいて米価が決められる。そこで、先生はつまり政治はいいのだが官僚が悪いのだということになるのである。
 それがおかしいことは言うまでもない。いくら官僚が何かしようとしても政治がうんと言わなければできないのであり、責任は政治家にあるのである。

 今も同じことをいう政治家がいる。官僚主導だから世の中悪いのだ、これからは政治主導だと。
 50年前とまったく同じ、責任をすべて官僚にかぶせる。マスコミもそれを煽る。学者のなかにもそんなことをいうものがいる。こうして政治家の責任を見えなくさせる。

 たしかに官僚にはいろいろ問題がある。たとえば、霞が関のお役人は地域の実情などよくわからずに行政指針を出したりする。地方のお役人は、上で決まったことだからとそれを杓子定規に県民や市町村民におしつける。
 官僚の保身のためのことなかれ主義、仕事のたらい回し、慣行主義、勤務時間の終わる5時前に帰ることはあっても5時以降帰ることはない、ハンコを押すだけが仕事で楽なもの、その上に役人風をふかして権力を笠に着ていばる、自分の出世だけを考えている等々の役人に対する批判、これもかなり当たっており、私もまったくその通りだと考えることもある。白黒映画の時代に黒澤明が監督をした名作『生きる』(註1)がそれを描いているが、今も変わらないところが多々ある。
 私などはとくにいわゆるキャリア組がきらいだ。その強烈なエリート意識、鼻持ちならない。中央官庁から30歳くらいの若さで県や大都市に課長や部長で出向し、2~3年もすると本省へ帰っていく小役人、机にふんぞりかえって年上の地元職員をあごでこき使い、威張り散らす。
 最近の高級官僚のなかには国民の立場、弱いものの立場に立つことはおろかツィッターや匿名ブログなどで震災の被災者や高齢者に悪罵を投げつけるようなものさえいる。理想も何ももっていない、公務員としてのいや人間としての最低限のモラルすらない、こんなものまで出てくるようになる、日本の官僚ももうおしまいかとすら考えてしまう。
 さらにひどいのは天下りだ。高級官僚が退職後外郭団体や大企業等の役員となってその利便を図ってやったり、ろくな仕事もせずに天下り先を1~2年で渡り歩いて多額の退職金をもらったり、その仕組みを官僚組織がまもろうとしたり、何とも腹立たしい。
 こんな状況を見ていると、官僚主導から政治主導へと思いたくなる。とりわけ、骨の髄までの対米追随の外務官僚、同じく骨の髄まで財界追随の財務・経済官僚などを見ていると、政治がこうした官僚に握られている組織を何とかしてもらいたいと思ってしまう。

 こうしたお役人への反感にのっかって、これからは小さい政府であるべきだ、公務員の数を減らせ、給料を下げろ、官僚主導から政治主導でいこう等々、政治家やマスコミがあおる。
 しかし、そんな風に言われると私はこんなこともいいたくなる。日本の官僚制度というのはたいしたものなのだ、そのすごさは戦後の混乱期を見ればわかるだろうと。
 戦後、世界各国の政治経済は大混乱におちいった。とくに、敗戦国、途上国の混乱はすさまじかった。途上国の場合は植民地化や戦火などによってもたらされたやむを得ない面はあったが。それにしてもそうした状況を見るたびに思う、戦後の日本がよく無法状態にならなかったものだと。もちろん大混乱には陥ったが。ともかく法律にもとづいて組織的に日常の行政が続けられ、汚職、賄賂などは少なく、国民の生活は何とか維持することができた。
 もちろん、この背景には、日本の国土と人口の過半を占めた農村部における村社会の秩序がこわれずに残っていたこと、戦闘が沖縄本島以外でやられなかったために村の家や田畑が荒廃させられず、その農村が疎開等で都市住民を受け入れたこと、つまり村のそして農業のふところの深さがあった。
 それにもう一つ、町や村、階級を問わず何百年と蓄積されてきた国民の知的水準、教育水準の高さ、順法意識、道徳意識があった。
 そしてそれらを基礎にしてつくられた秩序だった行政組織、役人の力があったのである。

 仕事の関係で、農水省や県、市町村の職員の方とよくつきあう。そのときにいつも感心する、何とよく自分の仕事について勉強しているのだろう、そして的確な方針を出し、きちんと仕事をこなしているのだろうと。しかもどれだけいいことをしても、それで賄賂をもらうわけでもない(註2)。そして多くの公務員は国民にまた地域住民に奉仕しようとしている(註3)。
 こうしたすばらしい行政組織と公務員を日本は持っている、ここに誇りを持っていいのではなかろうか。

 もちろん、現在の行政組織はすべていいものだ、それを信用しろ、すべてそこにゆだねろなどというつもりは毛頭ない。変革しなければならないことは多々あるし、国民の世論、国民の選んだ政治家がきちんとそれを動かしていかなければならないことはいうまでもない。
 ましてや今、社会経済構造がきわめて複雑になっているとき、外国との交流が多くなっているとき、資源環境問題や食の安全問題等々これまでになかった諸問題の解決が緊急の課題になっているとき、国民の暮らしをまもる公務員はさらに必要になっており、その数を増やしてもいかなければならない。
 ところが政治屋とマスコミは、今民間企業が不景気で人減らし、給料削減までしているのに、国の借金が増える一方で増税が必要だというのに、なぜ公務員だけ人減らしをせず給料を下げないのかと批判する。こうした公務員と農家に対する攻撃は世の中不景気になると必ず出てくる。農家は国から保護されていい思いをしている、公務員はろくに働きもしないで高い給与をもらっている(註4)と非難し、本来向けるべき政財界に対する批判をかわそうとするのである。マスコミはそれをあおる、これからは行政改革だ、「官から民へ」の時代と。
 そして公務員の数を減らし、民間活力の活用とか言って本来公的に行うべき業務を大企業にゆだね、公務員のかわりに非正規などの低賃金労働者を雇うことを可能にするなどして大企業の儲けの種としようとする。

 また、官僚主導から政治主導へという。
 しかし、一般庶民の気持ちのわからない二世・三世議員、当選させてくれるならどの政党でもいいとうろうろするような議員などに主導させたらろくなことにならない。官僚の方がずっと勉強しており、自分の担当する分野はもちろん全体もよく見ている。
 ましてや政治主導という名での首相官邸主導、首相とお気に入りの一握りの官僚だけでの主導ではかえって世の中悪くなる。
 いや、有識者会議の意見を聞いているというかもしれない。「有識者」、いい言葉だが、その内実は首相と同じ認「識」を「有」する「者」という意味での有識者である。首相のオトモダチ、オナカマの集まりでしかない。そしてそうした人たちの意見を国会での討議よりも上位におき、それをもとに数を頼んで国会で決定していく。
 さらにはその国会の議員定数を減らそうとまで言う。大手マスコミもいう、国民は身を切っているのだ、国会議員も身を切れ、アメリカに比べると議員数の人口比は多すぎると。それは国民の気持ちを打つ、高いお金をもらってろくに役に立たない議員が多いからだ。しかし議員の数が減ったら世の中よくなるのか。問題は国民に身を切らせている世の中、それを是正することが先なのではないか。議員数が多いと言うが、それはアメリカに比較してのこと、他の国に比較すれば日本は少ない。それなのになぜアメリカのまねをしなければならないのか。議員数を減らせば、かえって国民の意見を国政に反映する機会、立法府たる国会の機能を縮小し、官邸主導なるもので一部の人間が自由気ままにものごとを進めていけるようになるだけではないか。民意の反映を歪めている小選挙区制のもとではなおのことだ。しかしマスコミはそうしたことは言わず、相変わらず政治改革=議員定数削減を叫ぶ。そして政財界を喜ばせる。
 ところが、そのマスコミでさえ反対せざるを得ないような秘密保護法を政府は制定した。そして公務員が国民に真実を語れないように、国民のために働けないようにし、国民も自由にその意見が述べられないようにした。
 その一歩先を行っているのが大阪市政、自分の思想信条と違う公務員を見つけ出して処分すると市長が脅し、自分の言うことに黙って従う、市民よりも自分に奉仕する役人をつくりだそうとさえする。
 こうした動きなどを見ると、財界とアメリカの言うままに動いている今の政治家に主導させると、戦前のようなものも言えない社会、国民の基本的人権が奪われ、戦争に引きずり込まれていった世の中がまた来るのではないか、この国は一体どこへ行ってしまうのかと不安になってくる。

(註)
1.映画『生きる』 監督:黒澤明 主演:志村喬 制作:松竹 1952年。
  この映画のなかで最後に志村喬が歌う『ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇、作曲:中山晋平、1915年)がまたいい。ごらんになっていない方にはぜひ見てもらいたい。
2.もちろん賄賂をもらうものもいるが、それは例外的なものでしかない。また、官官接待などもあったが、それもたいしたものではなかったし、最近はもう昔話になってしまった。
3.大震災のときの多くの公務員の献身的な活動をみただけでもそれがよくわかろう。
4.下記掲載記事で述べたように、高級官僚以外は本当に低賃金、それも今さらに切り下げられ、非正規雇用者も増えている。官公庁がブラック企業化する(大学もそうなりつつある)、いやな世の中になったものだ。
  12年9月7日掲載・本稿第四部「☆ワーキングプアの生成」(3段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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