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『箱根八里』の二種類の替え歌



           遠くなった昭和、近づく敗戦前の昭和(2)

             ☆『箱根八里』の二種類の替え歌

 前回の記事で大正のこと、歌のことを書いたが、そうしたら明治末に生まれて大正に子ども時代を過ごした恩師HS先生のことを思い出した。東北大農経研究室で私の二代前の教授を勤められ、もうお亡くなりになられた先生にはこれまでも何度か本稿に登場してもらったのだが(註1)、大正デモクラシーとのかかわりでまたここで登場させていただきたい。

 1950年代後半からから70年代前半にかけてのころ、私の若いころの話である。
 夏休みに入った日と年末休暇に入る直前の日の二回、研究室の教職員、院生、学生総動員で研究室の大掃除をする。これは年中行事である。朝早くから昼過ぎまでかかり、窓ふきから床の雑巾がけまでやってようやく完了、きれいになった部屋で、みんなゆっくり休む。碁将棋をしたり、雑談をしたり、しかしみんなそわそわしている。夕方から始まる暑気払い(冬は忘年会)、これが楽しみで、何か落ち着かないのである。何しろ当時は座敷に上がって宴会をするなどというのはめったにできないころ、ましてや金のない若い者などはそのときくらいしか行けない、待ちに待っていたその日なのである。
 夕方近くいよいよ出発、目的地まで三々五々歩いて料理屋に到着、座敷に案内され、座る順序を決める、やがてお膳が運ばれ、乾杯、それから差しつ差されつ、腹の減っている若者たちはまずめったに食べられない料理にぱくつく。
 宴たけなわになってきたころ、だれかが歌を歌おうといいだす。余興の時間である。
 まず最初はいつものように教務職員のTKさんの『さんさしぐれ』、これは当時仙台の宴会ではめでたい歌として必ず歌われたもの、みんなで手を叩いて拍子をとり、歌を知っている人はいっしょに歌う。それから各人が歌い始める。もちろん当時はカラオケなどない。今と違ってみんな手拍子を打ち、歌える人はいっしょに歌う。歌を聞かずにだれかとしゃべっていたり、よそを見たりしている人はいない。ここにカラオケと違うところがある。私の番になると、一応みんなの注文を聞きながらではあるが、『南部牛追い歌』とか『最上川舟歌』とかの民謡を唄う(けっこううまいはずである、自画自賛をやるようになったらおしまいだが、このごろは唄っていないのでわが美声はどうなっていることやら)。こうやって順に歌う(たまには踊りとかの芸をする人もいる)が、最後は教授のHS先生である。みんなが注文する、「なんだかんだの神田橋」を歌ってくれと。これは先生からしか聞けない大正時代の歌、しかもその昔流行し、当時ほとんどの人が知っていた歌「箱根の山は天下の険」の『箱根八里』(註2)の替え歌、さらにメロディを三度下がった短調に変えており、ともかくおもしろい。こういうときにしか聞けないので、ぜひともとお願いする。そうすると苦笑いしながら歌い始める。
  「都で名高い 須田町の
   電車通りを 眺むれば
   今は昔 武蔵が原の
   面影いずこ ベルの音高く
   走れる電車の 割引乗らんと
   けんか腰なる 労働者
   田舎の田子作 ……(ここの歌詞は思い出せず)……
   赤いケトンを ぐるぐる巻いて
   おらハの行くとこ どこだんべ
   杢兵衛さんよ 早く来しゃんせ
   ぶん乗りはぐると てえへんだ
   お馬の目を抜く 東京つうは
   大道歩くも 電車に乗るも
   命が危ねえ 気をつけしゃんせ
   おらハぶったまげだ 二十二型の時計台」
 この歌詞のなかの「おらハの行くとこ どこだんべ」と最後の一節「おらハぶったまげた 二十二型の時計台」は面白いし、調子もいいのでみんな聞き覚えている、それでここだけはみんないっしょに笑いながら歌う。
 続いてメロディは最初に戻り、2番目の歌詞に移る(後でいうように2番ではなく、別の歌だったのだが)。
  「なんだ神田の 神田橋
   朝の五時ごろ 見渡せば
   破れた洋服に 弁当箱さげて 
   てくてく歩きの 月給取りゃ九円」
 ここから先は覚えていない。先生もだいたいこの辺でこの続きは忘れたということで終わりになるときが多かったからでもある。
 この先生の歌で余興はお開き、後はまた差しつ差されつ、座は乱れていく。

 本稿で前にカラオケと宴会の話を書いたとき(註3)、しばらくぶりでこの若い頃の宴会、カラオケがなくみんなで歌った頃のことを思い出した。そしてHS先生の歌も思い出した。さてどんな歌詞だったのだろう、と思い出そうとしたが、あちこちぽつりぽつりとしか思い出せない。少しずつ少しずつ思い出しながら、クロスワードパズルの穴を埋めるようにしてつないでいった。今書いたようにほぼできあがったころ(7行目のところの歌詞だけ何としても思い出せない)、ふと考えた、インターネットという便利なものがあるではないか、それで検索したら出てくるのではないかと。
 さすがである。「都で名高い 須田町の」をひいたら一つだけだが出てきた。しかし残念ながら最初のところだけ(ちょっと私の記憶と違うところがあるが)、でもこれは『スカラーソング』という大正時代の流行歌であることがわかった。
 そこでその言葉で検索してみた、そしたら何とそのレコードまであった。ただしそれは「なんだ神田の 神田橋」から始まる別の替え歌だった。
 つまり先生の歌った最初の方と後の方はともに『箱根八里』の替え歌であるが、まったく違った替え歌であり、それを先生は二つ続けて歌っていたのである。メロディも若干違っていた。『スカラーソング』のレコードは『箱根八里』の元歌と同じメロディであり、先生の歌ったのは元歌のメロディの音を3度下げたもの、つまり短調だった。
『箱根八里』は明治末から昭和初期にかけて大流行し(私たち昭和の子どももみんな覚え、「ハコネノヤマハテンカノケン バンコクカンモモノナラズ」と意味もわからずに歌っていた)、それもあってたくさんの替え歌が作られたとのこと、そのなかで一番有名なのが「なんだ神田の神田橋」の歌詞だったらしい。
 「都で名高い 須田町の」の方の歌詞は、東京が大きく変貌し、労働者の町になりつつあること、農村部との社会的文化的格差がひろがりつつあることを歌っており、岐阜の片田舎で少年時代を過ごしたHS先生には非常に印象的で最後まで覚えていたのではないだろうか。
 「なんだ神田の神田橋」の内容は、「月給取りゃ九円」を「食えん」に引っ掛けているように、当時の庶民の貧しい生活、格差社会、生存競争の社会をきびしく皮肉ったものだった。それで東京で流行り、レコードにもなって残ったのではなかろうか。この歌詞を一番だけネットから引用させてもらう。
  「なんだ神田の 神田橋
   朝の五時ごろ 見渡せば
   破れた洋服に 弁当箱さげて
   てくてく歩きの 月給取りゃ九円
   自動車飛ばせる 紳士を眺め
   ホロリホロリと 泣き出だす
   神よ仏よ よくきき給え
   天保時代の もののふも
   今じゃ哀れな この姿
   うちでは山ノ神が
   ボタンかがりの 手内職
   十四の娘は タバコの工場
   匂いはすれども 刻みも吸えない
   いつでもお金は 内務省よ
   かくこそあるなれ
   生存競争の 活舞台」
 バイオリンを伴奏に歌われたこうした演歌=世相の風刺歌の流行にみられるように、こんな格差社会でいいのかという庶民の権利意識が明治末期から芽生えつつあった。そして普選運動や言論・集会・結社の自由を求める運動の展開、米騒動等に見られる生きていく権利の主張、前回述べた文化運動等々が展開されるようになり、大正期は民主化運動が大きく展開した時期となった。
 また、大正末には好景気の影響を受けてモボモガ、カフェなど欧米の影響を受けた新しい風俗や流行現象も生まれた(註4)。もちろんそれは大都市のごく一部の階層のものでしかなかったけれども。

 HS先生が東大で学ぶために東京に出てきたのは昭和初頭だった。東京は『スカラーソング』に歌われたような状況をはるかに超えていた。金融恐慌、世界大恐慌、凶作等々で世の中は大混乱、庶民の生活はさらにひどくなっていた。当時の特権的存在だった大学を卒業しても就職できず、「大学は出たけれど」などという言葉が流行るような状況でもあった。先生はこうした諸問題がなぜ起きるのか、どう解決したらいいのか、何人かの仲間とともに勉強会を開いた。とたんに特高につかまり、治安維持法違反の嫌疑で当時の拘留期間の限度の28日間留置所に閉じ込められた。こうした経歴ではもう内地では就職できなかった。それで満州に渡り、満鉄に入社することになったようである。当時の満鉄の調査部は先生のような左翼上がりと言われた優秀な人たちが多かったと私が学生のころよく聞かされたものだった。
 このように昭和の初めは暗い時代の始まりを暗示するものだった。

 話はもとに戻るが、最初に述べた研究室の忘年会などの会費、これは職階によって違っていた。教授、助教授、助手、教務職員、院生、学生と格差をつけているのである。一種の累進課税だった。こうして金のない若い者に負担をかけないようにしてくれた。
 負担軽減といえばもう一つ、私どもの研究室は大学院生に学会旅費を出してくれた。いうまでもなく学会への出席は自分の研究の発展には欠かせない。しかし文部省からは院生に旅費が出ない。自費ということになる。となると収入のない院生はなかなか出席できないことになる。ましてや当時の汽車賃などはきわめて高く、奨学金もあまり出ない頃である。それでは困るだろうということで、研究室では教員の旅費や研究費を削って院生に汽車賃と宿泊費を出してくれた。予算が本当に少なかった時代なのにである。これは院生時代の私たちには本当にありがたかった。
 こうした慣習をつくってくれたHS先生、これも大正デモクラシーの洗礼を受けたことからくるものだったのだろうと今は思っている。

 ところで、さきほど紹介したHS先生の歌った替え歌「都で名高い須田町の」は、元歌の3度下で短調のメロディ、それも歌詞にあわせて適当に変えている。これはネットで検索できなかった。もしかするとまだだれも採譜していないかもしれないし、録音もされていないかもしれない。もしもそうならこのメロディは消えてしまう恐れもある。それではもったいないので、参考までにHS先生の歌ったメロディを採譜し、ここに記録しておくことにする。記憶違い、採譜間違いはお許し願いたい。
(次回掲載は8月18日とさせていただく)

(註)
1.本節とのかかわりでいえば下記掲載記事で登場してもらっている。
  12年8月17日掲載・本稿第四部「☆身に染みついた天皇崇拝」(3段落)
2.作詞:鳥居忱 作曲:滝廉太郎 中学唱歌 1901(明治34)年
3.12年6月25日掲載・本稿第四部「☆無伴奏からカラオケへ」(2段落)参照
4.このことについてはで本稿の下記掲載記事で触れているので説明を省略する。
  10年12月28日掲載・本稿第一部「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」(4段落・註)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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