Entries

映像で見た太平洋戦争直前の山形



            遠くなった昭和、近づく敗戦前の昭和(3)

             ☆映像で見た太平洋戦争直前の山形

 戦前の山形を描いた記録映画を見つけた、いっしょに見ないか、こんなメールが山形在住の若手農経研究者(中堅研究者と言っていいのだが、ついついそう言ってしまう)のST君から届いた。当然のことだが、ぜひとも見たい。そこで、彼と同じく本稿に何度となく登場してもらっている秋田在住の研究者NK君といっしょに、わが家で上映会を開いてもらうことにした。
 『銃後の山形県』という山形新聞社が1941(昭和16)年に制作した記録映画で、保存されていたフィルムをそのままDVD化したもの、みんなで一献傾けながら早速拝見した。

 昭和16年といえば、太平洋戦争が始まった年、だが開戦は12月のこと、この映画がつくられたのはその直前である。そして日中戦争の真っ只中であり、それも行き詰まって膠着状態、もう一方で国民は政府の推進する国民精神総動員運動に参加させられ、戦争遂行のために自分はもちろんあらゆるものを犠牲にして尽くすよう強いられ、生活は悪化の一途をたどりつつある時期だった。
 そのとき私はまだ小学校に入る前の満5歳、だからかもしれないが、この映画を見た記憶がない。 
 初めて見るこの映画の中にはなつかしい景色が出てきた。そういえばそうだったと当時を思い起こさせることが多々あった。置賜、村山、最上、庄内と県内を順次撮影していたが、当時の山形市内をはじめとする町や村の家々のたたずまい、山や川、田畑は昔を思い出させ、本当になつかしいものだった。しかし、そうした映像はそれほど多くなかった。記録映画というよりは戦意を高揚させるためにつくられた映画という感じだった。
 やはりそうだった。後でわかったのだが、この映画は「大陸で戦う県出身の兵士らに故郷の近況を伝えるため、山形新聞社が企画、制作した」もの、まさに戦地にいる兵士の戦意を高揚させるための映画だった。
 それは映画の題名にある「銃後」という言葉からして予測してしかるべきだったのだが。

 「銃後」、私たちの世代以上のものにとっては慣れ親しんだ言葉だが、若い方にはわからないかもしれない。銃後とは、戦地つまり実際に戦争をしている場所との対比で使われる言葉で、戦地の後方にある戦争参加国の地域、つまり戦争参加国の直接戦場となっていない地域のことであり、当時でいえば中国が戦地、日本国内が銃後だった。そして私たち銃後に住む者は、銃後を守ること=戦争の遂行を後方から物心両面で支えること、つまり国内の生産を支え、軍需物資や兵士を戦地に送りだし、また精神的にも戦地の兵士を支援することが任務とされていた。
 その銃後の山形県、とりわけ銃後の守りに懸命に取り組んでいる県民の姿を映像で見せ、戦地にいる山形出身の兵士(とくに山形の陸軍第38連隊に所属している兵士)を激励し、その戦う意欲を高揚させようという意図からこの『銃後の山形県』が制作されたものだったのである。
 だから当然のこと、当時の山形の生の姿を素直に映したものではなかった。楽しい暮らしも現実の苦しい生活も映してはいなかった。こうした問題点はあっても、これはこれできわめて貴重な記録であることはいうまでもなく、多くの人に見ていただきたいのだが、私の印象を若干述べて見よう(一度しか見ていないので誤りがあるかもしれないが)。

 この映画でまず気になったのは、山形の連隊、警察、県、市等々のお偉方が何人も登場し、戦争の完遂のために山形県民総動員で取り組まなければならないというようなことを偉そうに延々と訓辞を垂れる場面が何度も出てくることである。こんなつまらないものを見せて戦意高揚になるのか疑問だが、当時の天皇を頂点とするピラミッド的権威主義のなせる技、兵士たちはとくに疑問ももたず、いつものことと聞き流したことだろう。
 次に何度も出てくるのは、勤労動員等で田畑や工場でみんないっしょに働いているようすである。こうやって『銃後』でがんばっているから心置きなく戦え、戦地の兵士にこう言いたいのだろう。それはそれとして兵士は田畑や仕事場などそれぞれなつかしく見たことだろう。
 それから集団で整然と体操をしている場面が何度となく出てくることも気になった。子どもだけ、若者だけ、大人の男だけ、女だけ、それもいろいろ、みんなそれぞれ違う体操のような感じで、私の知らないものもあるようだ。家内もこんな体操があったのか、初めて見たという。ラジオ体操は学校でやらされ、夏休みは地域でもやるのでもちろん知っていたが、それとは違うものもありそうなのである。何でこんなにたくさんの種類の体操をつくったのかわからない。職種や性別、年齢に合わせてつくったのではないかと思われるものもあり、いずれにせよ、銃後ではこうやって元気に体操をし、身体を鍛え、戦地とともにがんばっているから安心しろと言いたいのだろう。それにしても、繰り返し出てくるこんな場面、兵士にはあまりおもしろくなかったのではなかろうか。
 婦人会などの女性が山形の陸軍病院に入院している傷痍軍人にいろいろごちそうするなどして慰問する場面もある。国民みんながこれだけ兵士のことを考えているのだ、安心して戦いなさいということなのだろう。

 しかし、子どもたちの遊んでいる姿、みんなが楽しんでいるようすなどは本当に少なかった。故郷を懐かしく思い起こさせるような場面もあまりない。へたに里心がつかれてホームシックになってしまったら困るからだろう。
 また普通の人々の暮らしも出てこない。当時の一般庶民の貧しい暮らしをそのまま出すわけにもいかないし、だからといって上流家庭の暮らしを出せば、出征前の自分たち庶民の暮らしといかに大きく違うか、不平等感が生まれて戦意を喪失されては困るからだろう。
  また、現実の厳しい農作業の場面や収量のことなどもあまり出さない。当時の山形は農家出身の兵士たちが多かったが、彼らにはこの農作業や収量が一番心配だった。だから前にも述べたように戦地から家に送った手紙の多くは農作業のことを心配していた(註1)。もしも天気が悪くて作業が遅れて大変だなどという状況を映したら、家が故郷が心配で逃げ帰りたくなったり、戦いたくない、前に進むよりも後ろに戻りたいなどと考えるようになったりしたら困る、それで映さなかったのだろう。

 だからといって固い場面だけでは面白くない、兵士には不満足だろう。こう思ったからだろうか、各地の芸妓の踊りを何度も出す。ただしお座敷ではない、料亭のお座敷などは金持ちや将校が行くところで一般の庶民(兵士)がいけないところだからだろう。庭園などの屋外で何人もの芸妓が輪になって小唄などに合わせて踊るのである。こうした場面が何度も何度も出る。これがまた何とも奇妙な感じである。
 もっともっと素晴らしい歌や踊りが山形の各地にあるはずなのになぜ芸妓集団の屋外踊りなのかよくわからない。

 この映画をいっしょに見たST君は、「意外にみんな暗い顔をしていない」という感想を述べた。映画の製作が昭和16年だからもっとみんな暗い顔をしていると思ったのだろう。しかしこの映画の製作は太平洋戦争の直前、庶民が戦災に遭う直前、国民生活の極限的悪化の直前、勝った勝ったのニュースが流れているころ、まだみんなの顔はそれほど深刻でも悲壮でもなかった、それがST君にそう感じさせたのだろう。
 しかし、笑顔はほとんどなかった。みんなの顔は無表情だった。いっしょにこの映画を見たNK君は「みんな操られている感じがした」と感想を述べたが、体操にしても何にしても、芸妓の踊りでさえ、何か命令でやらされている操り人形のようなロボットのような生彩のない感じが私もした。
 映画に出ることからくる緊張感からかもしれないし、みんな真面目に一所懸命やっているぞということを示そうとする制作者、演出者の意図がみんなにそういう顔を態度をさせたのかもしれないのだが。

 これを見たとき、映画制作者の文化水準は何と貧弱なのだろうと私は思った。しかし考えて見たらそうではなかった。
 当時の軍部や政府の検閲からしてこの程度の映像しか許可されなかったのであり、問題は彼らの文化水準にあったのである。
 この映画の制作者はきっとこんなものでは満足できなかったのではなかろうか。それでもこれが限界だったのだろう。
 統制、検閲というものは、言論・表現の自由の抑圧は、いかに文化水準をおとしめ、その発達を妨げるものなのか、この映画を見るとよくわかる。そうしたことを教える資料としてもこの映画は貴重であると私は考える。

 なお、貴重と言えば、その存在すら今はほとんど知られていない「日満技術工養成所」の映像があったことだ。1940年政府は満州に若者を中堅工業技術者として送り込むために酒田市にその養成所をつくったのであるが、敗戦でわずか5年で廃止、その卒業生の多くは満州でその命を落としたり、高齢化したりして、記憶するものすら少なくなっている。前に述べたようにここにはまだ少年だった母方のH叔父が入所し、満州に送り出されたところである(註2)。だから私は知っていたのだが、それがこの映画に出たときはびっくりした。すぐに叔父にメールした。叔父は映画に撮られた記憶などまったくないとのことだが、早速DVDを購入し、見てみたという。あのような古い映像があったこと、その中に酒田の「日満」があったとはと驚き、毎朝ラッパで起こされたことなど記憶がよみがえってきた、卒業アルバムなどあったのだが引き揚げのとき満州に置いてきてしまったのであの頃の酒田での写真は一枚もない、このDVDが唯一の映像ということになると、喜んでいた。
 このようにこの映画は貴重な事実をさまざま記録してくれた。
 それにしても映画としてのできはやはりよくなかったと私は思う、やむを得なかったことなのだが。

 それでも、遠く故郷から離されて中国大陸で戦わされている兵士にとってはこの映画はうれしかったに違いない。自分の出身地・故郷の画面が一瞬でも出てこないか、自分の知っている人がいないか、目をこらして見たことだろう。どんなものであろうとも、自分の家の近くや知っている人が出て来なくとも、画面の多くは故郷の香りのするもの、何でもうれしかったろう。もしかするとこれを見た翌日に戦死し、もう二度とこの故郷に戻れなかった兵士もいたかもしれない。彼らにとってはこの映画が最後の故郷の香りとなったことになる。

 この映画が制作された直後に太平洋戦争が始まった。みんなの顔つきはさらに変わった。服装も変わった。この映画などというものではなかった。ただ、故郷の姿はそれほど変わらなかった。山形は戦災をそれほど受けなかったからである。
 しかし戦地に送られた兵士たちのかなりの部分はその故郷に帰ってこなかった。満蒙開拓などで送り出された民間人もそうだった。若くして幼くして亡くなった人も多くいた。全国第二位の1万7千人が開拓民として満州に送り出され、そのうち7千人が犠牲になったのである。故郷=銃後に残された人たちもすさまじい生活難に襲われた。
 こうした戦中の時代については本稿第一部でもとりあげたので詳しくは省略するが、昭和の時代、少なくともその初期の20年間は、決して明るいものではなかったのである。
 (次回は9月1日掲載を予定している)

(註)
1.11年2月16日掲載・本稿第一部「☆愛国心と報道―真実と事実―」(5段落)参照
2.10年12月27日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(3段落)、
  11年2月14日掲載・本稿第一部「☆『里の秋』」(2段落)参照
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR