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聞き書き・日本の軍隊



            遠くなった昭和、近づく敗戦前の昭和(4)

               ☆聞き書き・日本の軍隊

 前回の記事で述べた映画『銃後の山形』の中に、普段は絶対立ち入り禁止の陸軍歩兵第32連隊の敷地(註1)が一般人に開放され、入営している兵士と親族が面会したり、何か出店のようなものが出ていたりする場面が出てきた。なぜかなつかしかった。思い出した、これは毎年1回開かれ、私も幼いころそこに祖母に連れられて行ったことがあることを。たしか桜が咲く季節、2回行ったような記憶がある。しかし誰と面会したかよく覚えていない、2回目は入営したばかりのT叔父だったと思うのだが。家でつくった牡丹餅を祖母が重箱に入れて持っていき、それをいっしょに食べた場面が思い浮かぶからである。この映画を見るまでまったく忘れていた。
 その催しは『軍旗祭』と言ったような気がするのだが、この日と外出許可日、除隊(兵役期間が満了して兵役を解かれること)する日が兵士には最大の楽しみだった。兵役はまさに苦役だったからだ。それは訓練の厳しさとか集団生活の不自由さとかからくることもあったが、それだけではなかった。すさまじいいじめ、しごき、暴力がそこにはあったのである。
 もちろん私たち子どもはそんなことは知らなかった。町の中で兵隊さん同士がすれ違う時がある、すると階級の低い兵士は立ち止まり、気を付けの姿勢をとって敬礼をする、敬礼された上官は歩きながら軽く敬礼を返す、かっこよかった。世界でもっとも礼儀正しく、規律正しく、一番強い日本の兵隊さん、自分も早くそうした兵隊さんになりたいと思っていた。

 もう亡くなったが、私の父方のM叔父は16歳で予科練に入り、一年半後敗戦で復員してきた。復員してきたときの話は前にちょっと書いた(註2)が、叔父が着て帰った予科練の制服は終戦間際に流行った『若鷲の歌』(註3)のなかにあった「七つボタンは桜に錨」、軍国少年だった私のあこがれのこの制服を着せてもらい、喜んで写真を撮ってもらったりしたものだが、叔父は予科練生活についてほとんど話してくれなかった。それはその後もそうだった。
 いつ頃誰から聞いたのだろう(私が中学のころだったと思うが)、海軍に「精神棒」というのがあり、新兵は何かあるとそれで尻を叩かれたものだと。何かのときにM叔父にそれを聞いてみた。予科練は海軍だからである。そのときぽつりと話してくれた、何かあると新兵は古参兵・上官から机に両手をつかされ、両足をひろげさせられ、お尻は丸出しにされ、そこを海軍精神注入棒(樫の木でできたバットくらいの長さの太い棒)を野球の言葉でいえばフルスイングで叩くのだそうである。とくに何かなくとも新兵全員集められてこれから海軍精神を叩き込んでやると叩かれたという。M叔父はちょっと生意気、きっとかなりやられたのではなかろうか。
 海軍はまだいい、陸軍の新兵いじめはもっとひどかった、こんな話を戦後復員してきた先生方や先輩、近所の人からよく聞かされたものだった。
  「気を付け、足を開け、歯を食いしばれ」、新兵が何か失敗したり、気に食わなかったりすると古参兵から命令される。そして思いっきりビンタをくらわされる。そういう姿勢をとらないと身体が吹っ飛んでしまったり、歯が折れたり、口の中が血だらけになったりするのだそうである。当然それだけの力で何度も何人も叩けば自分の手も痛くなる。そこで別の新兵に命じる、お前が叩けと。つまり仲間に叩かせるのである。当然かわいそうだから力を弱める。そうすると今度はその兵隊が叩かれる。しかたなく心を痛めながら思いっきり叩くことになる。
 こんなビンタは日常茶飯事、海軍の精神棒は陸軍では竹刀、柱に上らせてセミの鳴き真似をさせる、四つんばいで靴を口にくわえさせ犬の真似をさせる等々、すさまじいものだったという。
 いうまでもないが、できるならこんな罰やいじめを受けたくない。そこで起きるのが告げ口、ちくり、おべっか、さらには「員数合わせ」だった。

 この員数合わせ、最初聞いたときはわからなかった。これはこういうことなのだそうである。
 軍隊に入れば銃はもちろん軍服、下着、靴等々あらゆるものが軍から支給される。これらの支給物はすべて天皇陛下から賜ったもの、畏れ多くもかしこくもこうしたものを粗末に扱ったり、ましてやなくしたりするのは不敬に当たる。それでなくさないように努力するが、たとえば洗濯した靴下が風で飛ばされていたりして、やはりなくなることもある。すると古参兵からさっきいったようなすさまじい制裁を受ける。これを避けるために仲間のものをこっそり盗み、自分のものとする。みんなまったく同じ色、形のもの、誰のものかわからないからちょうどいい。盗んだ物であれ何であれともかく数が合っていたら問題はない、こうして数を合わせる、これを「員数合わせ」というのだそうである。これで盗んだ方はいいが、盗まれたものは困る。そこで自分も誰かのものを盗む。こうやってめぐりめぐって最後に盗まれたものが陛下からいただいたものをなくしたのはけしからんと古参兵からなぐられる。
 連日の厳しい訓練に加えてこうした制裁、いじめ、新兵はたまったものではない。それで就寝ラッパはこう聞こえたそうだ、「新兵さんはかわいそうだね また寝て泣くのかよ」と。私たち子どもでさえそれを知っていた。兵士の自殺も他国の軍隊にくらべると多かったと言う。
 こういうと、軍隊に問題があるのではなくて古参兵が悪いのだろうといわれるかもしれない。しかし、古参兵も徴兵制のもとで好む好まないにかかわらず強制的に招集されたものであり、新兵時代は同じ制裁を受けてきたし、そうすることが必要なのだと教育もされてきた。しかも長期にわたって兵舎内に閉じ込められた不自由な生活、欲求不満もたまる。それが弱いものいじめとなって発現させたのである。
 当然のことながらこんな懲罰、リンチは軍法で禁止されている。しかし、上官の命令は天皇陛下の命令であるとして絶対に服従する兵士にしあげるための教育、しつけの一つであるとしてそれらは黙認されてきた。
 その黙認の根拠となったのは1882(明治15)年に天皇が兵士に与えたという『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(略称・軍人勅諭)だった。

 新兵が軍隊に入ってまずやらされたのは「軍人勅諭」の暗記だった。「軍人勅諭」はかなりの長文、これを兵隊になると全文しかも間違いなく暗記しなければならず、覚えの悪いもの、一字一句でも間違えたものは思いっきり殴られる、だから兵隊に入る前に覚えておいた方がいい、近所の上級生がこんな話をしてくれ、自分が暗記した軍人勅諭の一節を朗誦してくれたことがある。
 もちろん私も軍人勅諭の存在は知っていた。日本軍には天皇から賜った軍人勅諭というものがあり、日本の兵士は全員これにしたがっており、だから日本の軍隊は強いのだなどと新聞雑誌ではもちろん学校でも言っていたからである。そして軍国少年の私も軍人勅諭のなかの有名な五つの項目を聞き知っており、何となく調子がいいので、友だちと大きな声で朗誦したりしていた。
 「一(ひとつ) 軍人は忠節を尽すを本分とすへし」
 「一(ひとつ) 軍人は礼儀を正くすへし」
 実はここまでしか思い出せないので、ネットで検索してみたら、「一 軍人は武勇を尚(とうと)ふへし」、「一 軍人は信義を重んすへし」、「一 軍人は質素を旨とすへし」だった。
 この項目くらいは簡単に覚えられる、しかしこの項目の前文と項目それぞれの後に続く文章がきわめて長いのである。それで暗記するのが大変なのだが、入営直前にT叔父が必死になって覚えようと朗誦していた記憶がある(註4)。
 ところで、この第一項の忠節の項に「死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」、つまりお国のために天皇陛下の御為に命を捨てよ、兵士の命は鳥の羽根よりも軽いのだという一節があり、礼儀の項には「新任の者は旧任のものに服従すべきものぞ。下級のものは上官の命を承ること、実は直に朕が命を承る義なり」、つまり古参兵や上官の命令は天皇の命令と同じであり、それにはどんなことでも絶対に従えという一節がある。これが日本の軍隊のいじめとかしごきの背景となったのだが、兵士は人間ではなく軍需物資、一銭五厘のハガキで招集できる消耗品であり、軍馬の方が貴重品とまで言われたものだった。だから人権などはもちろん認められなかった。当時の一般社会も基本的人権は認められていなかったのだが、軍隊はその一般社会からさえ隔絶された『真空地帯』(註5)だったのである。

 このようなきびしい軍隊生活でも除隊できて故郷に帰れればいい。ところが、いざ戦争が始まると兵役期間は延長され、帰りたくとも帰れず、戦地におもむかされる。そして人を殺し、傷つけ、あるいは自分が傷つけられ、殺される。実際に戦地に行った兵士の多くが苦しみながら死んでいった。太平洋戦争が始まってからはとくにそうだった。
 もちろん何とか生き延び、復員してきた人もいた。こうして戦場から何とか生きて帰ってきた人たちから実際の戦闘の話を聞いたことが私はあまりない。いかにして助かったかという奇跡的ともいえる話、傷を負ったり、餓えたりした話は若干聞いたことがあるが、殺したり殺されたりの話は聞いたことがない。殺される話が聞けないのは当然、殺された人たちは帰ってこられなかったし、そもそも話せなかったからである。しかし自分が殺傷した話は聞けるはずである。だけどみんな絶対に話さなかった。
 でも、一度だけ直接聞いたことがある。

 戦争が終わって10年、私が大学3年の時に入っていた寮は一室4人が定員、私以外みんな大学院生で先輩だった。そのうちの一人、5歳年上の院生と仲良くなり、いろいろ話をするようになった。ある夜、二人だけになったとき、こんな話をしてくれた。
 戦時中14歳のとき志願して少年戦車兵(少年航空兵というのもあり、軍国少年だった私のあこがれの的だった)の学校に入り、卒業後満州の部隊に配属された。しかし、満州の目的地に着いて少ししたら敗戦、ロシア軍が攻めてくるというので部隊全員南に向かって退却することとなった。毎日毎日、昼夜を問わず高粱(こうりやん)畑の中、野原の中を歩き続けた。時々中国軍もしくはそのゲリラ隊と遭遇して戦闘になる。それを避けるために敵に見つかりにくい夜中も歩く。当然疲れる、眠い、しかしゆっくり休むわけにはいかない。眠ってしまって一人おいていかれたらどうしようもなくなる。それで歩きながら眠るしかなかった。本当に辛かった。たまらず、途中で倒れるものもいた。でもだれも助けなかった。いや助けられなかった、自分が歩くだけでせいいっぱい、助けたりしていたら自分も部隊からおいていかれ、死んでしまう、やむを得ず置き去りにした。彼らはそのまま死ぬか殺されるかしかなかった。置き去りにした彼らのことを今思っても胸が痛むと言う。
 当然食料はなくなる。民家から徴収するより他ない。しかし金もろくにない、当然いやな顔をされる、それでむりやり奪うことになる。親切に食料をくれる場合もある。喜んでもらって立ち去ると、こっそりその住人が中国軍のゲリラ兵に通報し、待ち伏せされて高粱畑のなかから攻撃され、銃撃戦になり、殺し殺されることもある。それどころか民家にゲリラ兵が潜んでいて攻撃される場合もある。それで家に入る前に手りゅう弾を投げ入れ、あるいは銃を乱射する。そして人がいないことを確認して食料を手に入れる。これで何の罪のない農家の女子どもを含む家族を何人か殺してしまった、あのときは自分たちが助かることしか考えなかった、今でも悪いことをしたと悔やんでいる。
 苦しそうな顔をしてこう言うのである。そして彼は続けて言う、こんな話は君に初めてした、これまで誰にもしたことがない、これからも胸にしまっておきたい、いや、できれば忘れてしまいたいのだがと。
 被害者としての兵士の話はよく聞いたが(といっても最大の被害者である戦死者の話は聞けないのだが)、加害者としての兵士の話を聞いたのはこの一度だけだった。人間としての気持ちを忘れさせられている時期の話、いじめたり殴ったりした話、人を殺傷した話、家族にはもちろんのこと他人にも話せなかったろう。できれば脳裏から消し去りたいだろう。死ぬ間際になって告白していく人がいるというが、そんなことはめったになかった。

 加害者となったものはなかなか真実を話さない、いや話せない。これはやむを得ないことだろう。それで真実がなかなか後世に伝わらないことになる。敗戦のときにそうした証拠書類を焼却したからなおのことである。敗戦から何日間か連隊司令部など軍関係の施設から何本もの細い煙が立ち上っていたのを私も見たが、それがきっとそうだったのだろう。そしてそれは内外の各地でなされたのだろう。
 そこから日本の兵士の加害者としての歴史的事実はなかったかのごとく後世の人に考えられてしまうことになる。後世のものは先祖がそんな加害者だったなどとは考えたくないからなおのことだ。それどころか、被害者が真実を語るのは虚偽だとまで考えてしまう。真実を隠してもう一度戦争を起こしたい為政者はそれをあおる。
 今そんな風になっていないだろうか。

 軍隊生活で殴られた、いじめられた、こういう話は多くの人から聞いた。しかし殴った、いじめたという話を聞いたことがない。被害者は語れるが、加害者は語りたがらないからだろう。もちろんあまりの辛さに思い出したくもないと語れない被害者もいるが、それでも被害者の話が相対的にたくさん残されているから、それは歴史的事実として今も認識されているものが多い。軍隊生活などもそうだ。
 こうした軍隊生活、みんなから嫌われた。内実を知らずに勇んで兵隊に行ったものもその実態を知って除隊を待ち望むようになるのが普通だった。
 しかし軍隊はよかったという人もいた。もっと長く兵士でいたいというものもいた。
 映画『拝啓 天皇陛下様』(註6)で渥美清が演じる主人公がそうだった。貧困のどん底で生きてきて学校にもろくに通えなかった主人公にとっては、殴られようと蹴られようと、三度の飯が食え、風呂にも入れ、さらに俸給までもらえる軍隊はまさに天国だった。こんな天国から住みにくい娑婆に戻りたくない、いつまでも軍隊においてくれと「ハイケイ 天ノウヘイカサマ……」と手紙を書いてお願いしようとまでするのである。
 米の飯が毎日食べられる、それで喜んで入営する農山村の青年もいた。気象条件等から米をつくりたくともつくれず、だからといって米を買うこともできない農家、もしくは米をつくっても米を食べられない零細小作農の子弟などがそうだった。
 働き口もなく、分家もできずに家の厄介者となっていなければならない次三男も喜んで入営した。先に触れた私の叔父Tもそうだった(註7)。 
 しかも軍隊では金持ちであろうとも極貧民であろうとも同期入隊・同じ階級ならばみんな同じ飯、同じ服、同じ寝床、世の中のあのすさまじい貧富の格差、差別がないこともうれしかった。
 いうまでもないが、このことは軍隊生活がよかったということを示すわけではない。あのように非人間的な軍隊生活でさえいいと思わせたことは、それ以下の生活を強いられている人たちが社会に多くいたことを示すものであり、当時の世の中、つまり「戦前レジーム」の社会にはいかにすさまじい貧富の格差、人間としての尊厳の格差があったかを示すものでしかなかったのである。

 戦後こうしたことをなくそうと戦争放棄を宣言し、貧富格差をなくそうと努力してきた。ところが最近、このような「戦後レジーム」は間違っている、戦前の良き時代に戻ろう、戦争のやれる国にしようなどという政治家が現れ、世の中少しずつおかしくさせられつつある。
 しかし、戦前は決していい時代ではなかった(註8)。やはり戦後はよかった、いろいろ問題はあったけれど。
 (これからは、特に断りのないかぎり、以前のように毎週月曜日掲載とさせていただく)

(註)
1.旧山形城址、現霞城公園。本稿の下記掲載記事で述べたようにそこにあった兵舎が戦後すぐ私たちの中学の校舎となった。
  11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(1段落)
2.11年2月14日掲載・本稿第一部「☆『里の秋』」(1段落)参照
3.作詞:西條八十、作曲:古関裕而、1938年
4.暗記を義務化したのは陸軍のみ、海軍はそうしなかったとのことである。
5.このことについては野間宏の書いた小説『真空地帯』(河出書房、1952年)を参照されたい。なお、この小説は同名で映画化されている(監督:山本薩夫、主演:木村功、原作:野間宏、制作:新星映画社、1952年)。
6.監督:野村芳太郎、主演:渥美清、原作:棟田博、制作:松竹映画社、1963年
7.10年12月28日掲載・本稿第一部「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」(3段落)参照
8.このことについては、東北の農村の事例を中心にして、本稿の第一部をはじめとする各所で述べてきたところである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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