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ラジオ体操の記憶



           遠くなった昭和、近づく敗戦前の昭和(5)

                ☆ラジオ体操の記憶

 ふと思い出した、前々回述べた映画『銃後の山形県』の撮影された当時のラジオ体操には第一から第三まであったはずだと。
 あの映画で見た体操の種類の多さはもしかするとそのいずれかをやっていただけなのかもしれない。私の記憶が薄れてしまったので、私の知らない体操と思えただけなのかもしれない。といっても当時のラジオ体操は完全に忘れており、それを確かめるすべはない。そもそも第三体操、本当にあったかどうかも不安、私の記憶違いかもしれない。学年が上になってから習わされたような気もするのだが、さだかではない。第一、第二は間違いなくあったが。
 それでインターネットで調べてみた。まちがいなく第三体操はあった。また、ラジオ体操以外の体操が新しくつくられていたこともわかった。戦争遂行のために国民すべての体力増強を図る必要があるとして「大日本国民体操」、「大日本青年体操」、「大日本女子青年体操」が1939(昭和14)年につくられ、そのうちの大日本国民体操がラジオ体操第三として放送されるようになっていたのである。
 とすると、映画に出てきた体操は第一から第三のラジオ体操、青年体操、女子体操だったのかもしれない。もしかすると、それ以外にも私の知らない体操があり、それも映されていたのかもしれない。

 当然のことながら、私たちは学校に入るとすぐにラジオ体操を覚えさせられ、体操の授業の最初に必ずさせられた。そのときは伴奏はつかない。蓄音機やレコードが備品としてあるわけでなし、もちろんテープなど開発されているわけではないからだ。先生が前に立ち、いっしょに体操をしながら「一二三四、五六七八、二二三四、五六七八」と口で号令をかけるだけ、私たちはそれに合わせて体操をすることになる。
 ラジオの伴奏がつくのは町内会単位に行う夏休みのラジオ体操のときだけだ。私たちは国道沿いの酒屋さんの前に集まり、店の中から流してくれるラジオの声に合わせて体操をする。
 何時から始まったのだろうか、ともかくいつもより早起きし、葉書大の厚紙でつくられた「出席表」をヒモで首から下げ、遅れないように早足で歩く。到着する頃、ラジオ体操の歌(註1)が流れる(これも何十年ぶりで思い出した)。間に合った、ほっとしてラジオの方に向かって立ち、ぶつからないように友達との間の距離をとる。
    「おどるあさひの ひかりをあびて
    まげよのばせよ われらがかいな
    ラジオはさけぶ 一、ニ、三」
 明るい歌だった。短調の歌の多かった時代、何か元気になるような気がしたものだった。
 そのときラジオ体操第三までやったかどうか記憶にない、第二体操までやったのは覚えているのだが。終わると、上級生が「出席表」にハンコを押してくれる。「出」のハンコの紫に近い青色が好きで、これが毎日増えていくのが楽しみだった。

 しかし、ラジオ体操自体はあまり好きではなかった。というよりきらいだった。とくに学校の体操の時間にやるのがきらいだった。首を回す運動があるからである。首を上下左右に曲げたり、ぐるぐるまわしたりすると目まいがして必ず気持ちが悪くなり、吐きたくなる。そうならないようにあまり大きく首を動かさないようにすると、真面目にやっていないと先生から怒られる。そこで工夫する、あまり首を動かさずに動かしているように見えるようにするにはどうしたらいいか、そして先生をいかにごまかすか、これにはかなり苦労したものだった。とくに暑い日などは坊主頭に直射日光があたり、それだけでも具合が悪くなりそうなのに首振りとくるものだから、本当に困ったものだった。その点で先生のいない夏休みのラジオ体操は気が楽だった。少しごまかしても怒られないし、まだ暑くなっていない時間だからだ。

 ラジオ体操のせいもあろうが、ともかく体操の時間は楽しくなかった。授業がなくて身体を動かせるのだから楽しいはずなのだが、楽しかったと言う記憶がない。体操の時間と言うとラジオ体操と整列、行進の練習しか思い出さないのである。改めて考えて見た、それ以外に何をしたのかと。鉄棒、跳び箱、平均台等をさせられたのを思い出した。後は運動会の練習と手旗信号の練習である。これは楽しかった。とくに手旗信号は暗号のよう、それを遠くに送る、何ともおもしろく、またかっこよくて私のあこがれだったからである。と、ここまで書いたらふと疑問になってきた、この練習は体操の時間でやったのか、別の授業時間だったのかということである。グランドか講堂(体育館)でやったので体操の時間だと思っていたのだが、よくわからない。なお、軍国少年だった私のあこがれの剣道(女子は薙刀)などの武道は5年生からだったので私は結局やらなかった。4年のときに敗戦になったからである。

 戦後、体操の時間に何をしたのかまったく覚えていない。前にも述べたように私の通っていた小学校は米軍に接収されたので他の小学校に間借りして二部授業などしていた(註2)のだが、そのときは体操の時間などとれなかったはず、まともに授業ができるようになっても鉄棒などは戦時中金属回収で供出させられているのでないなど用具はほとんどなし、ラジオ体操はなぜかまったくやらなくなっており、いったい何をしていたのか今でも疑問である。
 6年になってもとの校舎に帰ったころ(1947年)の体操の時間も覚えていないが、たった一つ、ドッジボールをしたことを覚えている。運動用具などほとんどない時代、ボール一つさえあればみんなで動きまわれるということで授業に取り入れたのかどうかわからないが、生まれて初めの球技、ともかくおもしろかった。体操の授業で本当に楽しいと思ったのはこれが初めてではなかったろうか。
 私の中学校時代(1948~51年)の体育の授業では何をやったのか、ラジオ体操に代わるような準備体操はどうしたのか、そもそもどんな授業を受けたのかほとんど覚えていない。保健体育という科目名になり、教室で保健の授業を受けるようにもなったこと、体育館が旧陸軍の馬小屋の跡、床もなく、土ぼこりがたってまともな体操ができなかったことくらいしか覚えていない。

 新しいラジオ体操ができたということで高校2年の体育の時間のときに覚えさせられた(註3)。もうラジオ体操などすることはないだろうと思っていたのだが、7年ぶり、前の体操などまったく忘れ、新しいのとどこが違うのかなどわからず、ともかく覚えさせられた。
 高卒後はまったくやる機会がなく過ぎ、私の子どもたちの夏休みのラジオ体操につきあうこともなかったので、完全に忘れてしまっていた。
 ところが、約50年ぶりでラジオ体操をする羽目になった。

 99年、網走に転勤した年の夏、私の借家に町内会の役員が訪ねてきて、庭をラジオ体操の場所として貸してくれという。もちろん了承したのだが、よく見てみると庭がかなり広く、空き家になっている隣の庭と合わせると20~30人くらいならラジオ体操ができる。それで去年までそうさせてもらってきたのだというのである。
 ちょうど東京の孫たちが網走にきた翌日からラジオ体操が始まった。子ども約20人、大人約10人合わせて30人くらい集まっている。それを見た就学前の孫は早速早起きして庭に出て、生まれて初めてのラジオ体操をし、それから毎日、また翌年も参加した。
 その翌々年、私の隣の家が空き家でなくなったことと、近所の遊園地が整備されたことから、その遊園地に会場が移った。それでも、夏休みに来た私の孫は近所の子どもたちといっしょにラジオ体操に出席、早起きして出席カードをぶらさげて会場に走ってでかけるのを日課とするようになった。毎回体操が終わると町内会の世話役の人が出席カードにハンコを押すと同時にお菓子をくれる、それも孫には楽しかったからでもあるようだ。
 それに私も付き添ってでかけるようになった。こうして、子どもたちのやっているのを見てまねしながら、いっしょに体操をすることになったのである。
 ところで、体操の伴奏だが、町内会の世話役の人が大きなラジカセをもってきて、ラジオから録音したテープを流す。これが不思議だった。なぜ直接ラジオ放送を流さないのかわからなかった。そのうちわかった、NHKのラジオ体操は6時半から始まるのに、ここは7時から始まるので、テープで流すより他ないのである。それではなぜこちらは6時半にあわせず、7時にするのか。これは3~4年体験するなかで理解できた。7月末、8月初めのもっとも暑い時期でも、網走の朝は寒いのである(日中は30度以上にも上がるのだが)。日の出は早いのだが、気温は7時でもあがらない。だから子どもたちは上にジャンパーを羽織ってくる(男の子どもたちは全員、女の子は半数くらい、女の子の方が寒さに強いのだろうか)。6時半などは震えあがってしまう。それで7時開始とする、そうなるとラジオは利用できない、かくしてテープということになるのである。
 こうして夏休みの体操を1944(昭和19)年以来(翌年は疎開、空襲でやらなかった)の約60年ぶりに毎年やることになったのだが、この点でも私は網走できわめて健康な生活をいとなんだということになる。

 7年ぶりで仙台に帰ってきて気が付いた、かつて近くの児童公園でやっていた夏休みのラジオ体操がなくなっていると。町内会の少子高齢化、独身アパート化の進展からのようである。何ともさびしい。
 網走はいまどうなっているだろうか。北海道の夏休み体操の実施率は他県から比べると高いのだそうだが。
 私のラジオ体操も網走時代だけで終わってしまった。もう二度とないだろう。でも孫といっしょに夏休みのラジオ体操ができたことがいい思い出となった。

 話をまた戦前に戻すが、戦時中のラジオ体操や映画『銃後の山形県』に出てくる大日本青年体操や女子青年体操等々の目的とするところは今とまるっきり違っていた。それどころかラジオ体操の当初の意図ともちがっていた。国民の体力増進やレクリェーションなどのためではなく、お国にご奉公できる強い身体をつくるために、戦意高揚のためにと半ば強要されてやらされたものであった。
 体操は、日中戦争を契機に政府が始めた国民精神総動員運動(=国民すべてがお国のためにとくに戦争を完遂するために自己を犠牲にして尽くす精神をもつようにさせる政府主導の運動)の中核に位置付けられ、銃後をまもるための体力向上と戦意高揚を図るための手段として推奨されたものだったのである。つまり体操は国民の健康のためではなく、聖戦完遂に必要な道具としての丈夫な人間をつくることにあった。
 こんな性格をもたされたラジオ体操だったから戦後当然占領当局から禁止された、と思っていた。さっき言ったように戦後小中学校でラジオ体操をやった記憶がないし、夏休みのラジオ体操も再開されなかったからである。しかしとくに占領軍から禁止されたわけではなく、戦後すぐに再開し、敗戦の翌年には戦前の軍国主義時代を思わせると言うことからNHKが新しいラジオ体操を制作したとのことである。しかし私はその新しい体操をした記憶がまったくない。何しろ一年もしないうちに放送中止になったのだから当然かもしれない。この中止は新しい体操が難しかったからという説明がなされているが、それよりも何よりも当時はラジオ体操どころではなかった時代、動けば腹が減るので動かない方がいいとまでいわれた食糧難の時代、誰もやろうとしなかったことから来ているのではなかろうか。
 それから5年後、ラジオ体操はまた新しく再開され、それは再び国民の間に浸透していった。戦後の大混乱からようやく復興のきざしが見えはじめ、新しいラジオ体操を受け入れられるだけの余裕が少し出始めたころだったからではなかろうか。さらにそのまた数年後、テレビでもラジオ体操が放映されるようになった。
 しかし、ラジオから流れる新しい曲に合わせて、あるいはテレビを見ながら体操をしたくともできない地域もあった。ラジオ、テレビがない、そもそも電気が通っていない地域が、戦後十数年たっても、まだあったのである。それも東北の山村だった。
(註)
1.作詞:小川孝敏、作曲:堀内敬三 
2.11年2月17日掲載・本稿第一部「☆小学校の接収と二部授業」(1段落)参照
3.1951(昭和26)年に第一、翌52年に第二体操の放送が開始されたとのことである。

(追記)
 この記事を書いて約1ヶ月過ぎたある夜、何となしにテレビを見ていたら『泣いた赤鬼』の絵本が出てきた。それを見てまた昔のラジオ体操のことを思い出した。
 小学2年の夏休みのある朝、ラジオ体操が終わった後のことである、世話役の人からこれから紙芝居をするので見ていくようにといわれた。もちろんみんな大喜びで見た。見せてくれた人は私たちの知らない人だった。
 『泣いた赤鬼』だった。初めて聞く話だった。青鬼君の手紙を読む最後の場面、赤鬼君が手紙を「何度も何度も読みました。戸に顔を押し付けて、涙を流して泣きました」、この言葉(正確かどうかわからないが)が胸を打った。いまだに忘れられないでいる。
 しばらくぶりの紙芝居だった。戦争が激しくなってから紙芝居屋さんが来なくなっていたからだ。本などもまともに読めなくなっていた。それにこの話のおもしろさである。そんなことで一生忘れられないものとなったのだろう。
 何のために誰が主催して紙芝居をやったのかわからない。学区内だけのことだったのか、市全域でやられたのかもわからない。しかもいつものような戦争ものではなく、それも一度だけ、これも不思議だった。
 ところが翌年、3年の夏のラジオ体操でまた紙芝居があった。やはり一度だけだったが。
 仲良しのウサギとサルとキツネがある日餓えた老人が倒れているのを見つけた、そこでサルは山ブドウを採ってきて食べさせ、狐は魚を捕まえてきて焚き火をして焼いて食べさせた、ところがウサギは何も食べさせてあげるものがない、それで私の身体を食べてくださいと言って焚き火の中に飛び込んだ、その餓えた老人は実は神様だった、神さまはウサギを憐れんでお月様に住まわせるようにした、月にウサギが見えるのはそのためだ、こんな話だった。淡い色調のその絵のいくつかを鮮明に覚えている。
 『泣いた赤鬼』が山形県高畠町出身の浜田廣介の作った童話であることを知ったのは戦後かなりたってからだった。当然私の子どもや孫にはその本を読み聞かせた。しかし、ウサギと月の話は題名も作者もいまだにわからない。
 こんな記憶もラジオ体操はつくってくれたのである。ところがこの前書いたときはすっかりこのことを忘れていた。やはり齢なのだろうか。それでも思い出しただけでもいいとしなければならないだろう。
 読む本や動画がなかったからこの紙芝居が印象に残り、記憶に残ったのかもしれない。そうなるとあふれるほど子ども向けの本があり、テレビ番組もたくさんあり、情報に取り囲まれている現代の子どもたちはどうなのだろうか。やはり子ども時代に読みまた見たもののなかにきっと一生記憶に残り、人生に影響を与えてくれる物語や動画があるのではなかろうか。たとえそうしたものがなくとも、それでもいいではないか、やはりたくさん読み、見ることのできる幸せ、これを十分に味わってもらいたいものだ。昭和の前期、とくに戦中戦後の時代に育ったからかもしれないが、しみじみそう思う。   (14.10.13追記)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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