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高度成長初期の東北―二つの映像の比較―



            遠くなった昭和、近づく敗戦前の昭和(6)

           ☆高度成長初期の東北―二つの映像の比較―

 ST君のもってきた『銃後の山形県』の「上映会」(註1)から2ヶ月くらい過ぎてから、彼がもう一つ手に入れた『昭和のやまがた〜ふる里のあの時〜』というDVDの上映会をわが家で開くことになった。このDVDは山形放送が1960年から70年代にかけて放映したニュースフィルムを編集したものだという。当然、前回と同じく岩手葛巻町出身のNK君もいっしょに見ることにしたが、そしたら彼は前にテレビから録画していたNHKの『映像の20世紀・岩手県』のビデオテープを持っていくという。これはいい対比になるということで、この二つを上映する会とした。
 おもしろかった。勉強になった。彼ら二人はなつかしがってもいた。彼らの幼い子ども時代の映像もあったからである。『銃後の山形県』とはまるっきり違い、二つとも生き生きとした映像だった。
 見終わった後にST君がぽつりと言った、
 「山形と岩手、同じ東北なのに、こんなに違うんですかね」
 この言葉が非常に印象的だった。そういえばそうである、たしかにそう思える。

 1960(昭和35)年、山形にもテレビの民間放送が開局した。『昭和のやまがた〜ふる里のあの時〜』に収録されているニュースはデパートのテレビにみんな群がってその開局番組を見ている姿を映していた。ようやくテレビが庶民の手に届くようになってきたころだった。山形の私の生家ではその前年テレビを購入していた。
 一方、『映像の20世紀・岩手県』は、岩手県葛巻町の一地域のある農家が電灯のスイッチを入れ、家の中が電灯で照らされるのを見て家族みんなで喜ぶ姿を映していた。それまでテレビはおろかラジオも、電灯の恩恵すらも受けていなかったのである。映像は言っていた、ここは「日本で一番最後に電灯がついた村」だと。1962年のことだった(註2)。

 『昭和のやまがた』は、1960年、国鉄仙山線山寺駅のホームに多くの人が集まり、旗を振って列車の発着を歓迎している姿を映していた。蒸気機関車に代わり全国初の交流電気機関車が走るようになって仙山線が全線電化し(註3)、その始発列車が通る日だった。
 一方、『映像の20世紀・岩手県』は、初めてバスが通るようになった葛巻のある地域で地域中の大人から子どもまで道路に出て日の丸の旗を振ってバスを歓迎している姿を映していた。それは何と1966年のことだった。
 同じ歓迎の旗でもその内容と時期に大きな差があった。

 1964年、東京オリンピックの聖火が山形に到着し、みんなが歓迎している姿、東京から夜行列車に乗って蔵王スキー場に来る若者たちで山形駅があふれている姿を『昭和のやまがた』は映していた。岩手でも、64年に花巻空港が開設されるなど、高度経済成長の波が押し寄せ始めていた。日本は高度経済成長の時代に移っていた。
 同じ64年、岩手の北上高地は寒さの夏に襲われた。玉山村藪川(現・盛岡市)では寒さに強いヒエもろくにとれず、65年には小中学校の分校の半数の生徒がお昼の弁当を学校に持ってくることができなくなった。この話を伝え聞いた大都市の人たちが募金等々の支援の手を差し伸べ、学校給食ができるようにしてくれた。生徒たちはそれに対する感謝の気持ちを伝えるために、山に咲いているスズランの花を採って支援してくれた人たちに贈った。それは「すずらん給食」の美談として全国に伝えられた。
 『映像の20世紀・岩手県』はその話も伝えていた。高度経済成長は、飽食の時代の始まりは、いまだ岩手の山村には届いていなかったのである。

 この山形・岩手の違い、私がちょっと両極を強調しすぎた面もあるし、平場の相対的に多い山形と条件の不利な山間高冷地の多い岩手との相違でやむを得ないことでもあったのだが、大学院終了後就職して長い間盛岡に住み、岩手の女性と結婚し、今は山形の鶴岡に住むST君にとってはかなりのショックだったようである(ST君の出身地の島根県だって岩手とたいして変わりないではないかと葛巻出身のNK君は口惜しがって言うが)。
 しかし、『映像の20世紀・岩手県』の映した電気が点く、バスが走る、学校給食が始まる等々、これは遅れを示すものでもあったが、地域格差が少しずつ是正されていきつつあることを示すものでもあった。

 「すずらん給食」、このDVDを見てしばらくぶりで思い出した。そしてそれが報道されたとき何とも悲しい、暗い、口惜しい思いをしたことも記憶によみがえった。すっかり忘れていた、私としたことが何たることだろう。その罪滅ぼしにもう少し詳しく藪川と「すずらん給食」について語らせていただきたい。
 藪川村は石川啄木の生まれた渋民村の東隣りにある山村であり、明治期に両村合併して玉山村となった、岩手に詳しくない人にはまずこう紹介する。啄木の渋民村はそれなりに有名だからだ。
 もう一つ、民謡の外山節の発祥の地であり、ここにかつてあった宮内省御料牧場の外山牧場の作業員の歌った作業唄から始まったものだと教える。といっても民謡に関心のない人はちんぷんかんぷんであるが(註4)。
 それで続ける、藪川は東北の冷蔵庫とも言われているところだと。冬はマイナス30度近くまで冷え込み、本州一の厳寒地とまで言われており、夏も気温が上がらない。標高7~800㍍の山間部で夏はヤマセの吹くところだからだ。
 このような山間高冷地だからもちろん米はとれない。したがって、藪川の北東に接する葛巻町などを例にして前に述べたようなヒエなど雑穀を中心とする畑作と薪炭生産で生活を維持してきたのだが(註5)、そもそも畑地面積が少ない上に平年でも畑作の収量は低く、しかもしょっちゅう冷害にあう地域でもあった。
 現在は平成の合併で盛岡市となり、その中心部から北東に約50キロ、といってもかつては急カーブ、急勾配の山道、交通はきわめて不便だった。
 まさにかつて日本のチベットとまでいわれた北上山地の典型的な山村だった。
 当然ここも戦後農地改革の恩恵を受けたが、農業生産力はいまだ低く、そこに64年異常低温が襲い、65年には小中生の半数が「欠食児童」となった。
 このニュースを聞いた盛岡のボランティア団体が同じ系列の大都市の団体にも働きかけて募金をつのり、学校給食ができるようにしてくれた。その御礼として子どもたちがすずらんを贈った。そのことが東京のテレビや大新聞で取り上げられ、「『すずらん給食』の美談」として有名になったのである。
 それを聞いたとき、私はショックだった。「欠食児童」、こんな戦前の言葉が、戦後の食糧難の一時期の大都市の話が、まだ東北のここでは生きていたのか。昭和9年の大凶作による農村の窮乏を救うためにと大都市からさまざまな救援がなされたのだが、それが戦後の今になってまた再現されているのか。米どころかヒエも十分に食えない地域がまだあったのか。
 そして怒りに震えたものだった、いったい政府は山村や寒冷地の問題をどう考えているのかと。
 また口惜しい思いをしたものだった、『貧しい東北』、『飢える東北』、『哀れな東北』、『遅れている東北』、『暗い東北』というイメージ、これをまた全国に広めることになるのではないかと。
 もちろん、その後北上山地は、前にも詳しく述べたように地域の自然条件を生かした酪農や高冷地野菜の導入等に取り組み、また山村振興や地域格差是正、道路整備等の政策展開もあり、日本経済の発展による過剰人口問題の解決もあって、かつてのような暗いイメージがなくなったことは言うまでもないが(註6)。

 ついでと言っては何だが、もう一つ、藪川について触れておきたい。
 藪川は冬の風物詩として毎年必ず東北地方のテレビのニュースに出る。岩洞湖のワカサギ釣りの風景である。1960年藪川に完成した多目的ダムが岩洞湖と名付けられ、その後の国道の改修等で交通の便も格段に良くなり、多くの人がここの景色の観光と冬のワカサギ釣りに訪れるようになったのである。なお、この湖から国道を東に走って岩泉町に入ると白樺林や雄大な草原の広がる早坂高原があり、岩洞湖と並ぶ観光地となっている。その近くにある岩泉町の龍泉洞や葛巻町の平庭高原と合わせて私のお薦めの観光地である。
 こうした景観のよさも関連したのだろうか、この岩洞湖、一時期全国的な話題となったことがある。1970年、総理府主催の「21世紀の日本」コンペで岩洞湖周辺を日本の新しい首都にすべきだと提唱した「北上京遷都計画論」が最優秀賞をとり、岩洞湖が藪川が脚光を浴びたのである。
 その直後だった、田中内閣の列島改造論が日本中に土地買占めブームを惹き起こしたのは。当然のことながらこの岩洞湖周辺にも不動産業者、開発業者などが入り込んで土地を買いあさろうとした。
 こうしたブームの一段落したころ、土地買占めの調査でこの岩洞湖周辺に行ったとき、湖のあの入り江の近くを帝国ホテルが買い占めたようだとか、皇族の一人があそこの山林を買ったとか、噂なのか本当なのかわからない話が飛び交っていた。実際に誰が買ったかはわからないが、ともかく不動産業者が集落に入り込み、毎日のように訪ねてきて値段を吊り上げ、土地売却の承諾を得ようとしたとか、共有地(入会地)の買占めのためにその役員や有力者を盛岡に連れて行って毎晩のように飲ませ食わせ、こうして籠絡した役員に各農家を回らせて入会権放棄の承諾を強要させたとかのさまざまな話を聞き、ちょっとショックを受けたものだった。
 当然のことながら、遷都したわけでもなし、別荘ができたわけでもなし、ブームが終わった途端誰も藪川には来なくなり、後は静かな湖と緑の木々、山々が見られるだけになったが、あのとき買い占められた土地は今どうなっているのだろうか。そしてあの集落はどうなっているだろうか。もう随分行っていないが、一度行ってみたいものだ。

 話を戻そう。
 『映像の20世紀・岩手県』の戦後部分には、また『昭和のやまがた』には、出征兵士をプラットホームで見送る映像はなかった。あの「悲壮」だった列車の光景を戦後見ることがなくなり、新たに若者が戦争で他国民を殺し、殺される映像を見なくともよくなった。
 かわりにともに写されていたのが集団就職列車、出稼ぎ列車だった。プラットホームで別れを惜しむ光景、苦しく悲しかった。
 でも、集団就職列車は働き口のなかった次三男や女性に就業機会を与え、出稼ぎ列車は農業など地場産業の所得不足をおぎなって生活水準を向上させ、米の飯が食えないなどということをなくし、農村部に都市並みの生活水準を享受させる一助となった。もちろん集団就職、出稼ぎはさまざまな悲劇をともない、過疎化のさきがけとなったものでもあったけれども。
 まさにこの二つの映像は、暗かった戦前・戦後から脱却し、新しい憲法のもとに人々が輝き始めていたこと、暗い部分も多々あったがそれは夜明け前の暗さであり、曙光が射し始めていたことを示すものでもあった、昭和の中期はそうした時期ではなかったろうか。

 1970年代に入り、東北は日本の食糧基地としてその名を馳せるにいたった。もはや「餓える東北」ではなくなってきた。企業誘致も遅れてではあっても進み、町にはビルも立ち並ぶようになった。「貧しい東北」でもなくなってきつつあった。高速交通体系の整備も進展し、「道の奥」、「遠い東北」でもなくなってきた。こうしたなかで「暗い東北」のイメージも徐々にではあるが薄れてきた。
 70年代から80年代にかけての昭和後期=高度成長後期、東北はまさに光り輝き始めていたのである。これは戦後民主化の成果であり、東北人の努力の成果だった。もちろん、前にも述べたように、その影もいろいろあったのだが。

(註)
1.14年8月18日掲載・本稿第七部「☆映像から見た太平洋戦争直前の山形」参照
2.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差是正の進展」(1段落)参照
3.11年4月1日掲載・本稿第一部「☆山形発仙台行の野菜」(1段落)参照
4.10年12月28日掲載・本稿第一部「☆身売り、だめ叔父、貧富格差」(5、6段落)参照
5.12年10月29日掲載・本稿第五部「☆東北の山村の農用地利用方式」、
  13年3月4日掲載・本稿第五部「☆五穀・雑穀、ヒエ、アワ、キビ」、
  13年3月11日掲載・  同  上「☆雑穀作から酪農へ、そして今は」参照
6.11年6月24日掲載・本稿第二部「☆耕して天に至れなかった東北」、
  11年6月27日掲載・  同  上 「☆過疎化の相対的な未進展」、
  11年6月29日掲載・  同  上「☆東の『後進性』の逆転」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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