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子どもの遊び(4)

  



              ☆一銭店屋

 遊ぶ時間、空間、仲間はいくらでもあった。ないのは金だけだった。
 それでもたまに小遣いをもらう。一銭こ(一銭銅貨)をもらって近くの「えっしぇんめしぇや」(「一銭店屋・いっせんみせや」、子ども向けの安い駄菓子やおもちゃを売っている小さな店、いわゆる駄菓子屋、仙台では「一銭こ屋」と呼んでいた)にかけこむ。
 うれしくて勢い込んで走っていくと、一生懸命にぎっていたはずの一銭こが手からこぼれ落ちてしまう。必死になって探す。しかし道路の土の色と赤茶色の一銭銅貨は似ているし、ましてや道ばたの草むらの中に入ってしまったときはなかなか探せない。見つからなくて泣きたくなってしまう。
 一銭店屋に着くと飴やニッキ(肉桂)、金平糖、氷砂糖などの駄菓子を買う。海ホオズキを買い、口に入れて膨らましては音を出して楽しむ。八百屋に行って紅ショウガの固まりを買って口の中に入れることもある。辛さに顔をしかめながら何分も口に含み、味がなくなってくるとまた噛んで辛みを出す。こうして口の中を真っ赤にしながら、長い時間なめて噛んで舌と食欲を満足させる。
 一銭店屋ではパッタ(メンコ)や玉コロ(ビー玉)、コマ、竹とんぼなども売っている。それを買って、庭や道路で友だちと、家の中では兄弟と、いろいろな遊び方で、さまざまルールを決めて、取ったり取られたりして遊んだ。
 時代を反映して行軍(軍隊だったかな)将棋というのも売っていた。大将から騎兵までの軍人、飛行機や地雷等の武器など役割の違うさまざまな駒を動かし、相手の陣地をとるというもので、駒と盤は紙でできていた(註)。
 なお、将棋駒の産地の天童があるためだろうか、質の悪い木に字が印刷された安っぽい将棋駒が売られており(盤は紙)、それを買っても遊んだ。天童の親戚の家の近くに駒をつくっている店があり、失敗作などの駒が外に捨てられているので、それを拾ってきて遊んだこともあった。
 日光写真を買うのも楽しみだった。この遊びはまだ雪の残っている早春に流行るのだが、柔らかい春の日光に当てると、真っ白なすべすべした印画紙がその上にのせた日光写真(白黒の絵が書かれている薄いセロファン紙)の絵の白の部分だけ紫色に変わっていく。濃くなりすぎないように、薄すぎないようにやるのが難しいが、この紫の色が何ともいえず好きだった。
 凧の原材料も一銭店屋から買う。前に述べたように山形では雪がなくなって関東や仙台の空っ風のような風が吹く三月から四月にかけて凧あげをするのだが、竹がないので竹ひごを買って自分で骨組みをつくる。それにやはり店から買った絵の描かれている紙を貼り付ける。しっぽは新聞紙で自分でつくる。この長さ、太さの判断が難しい。ようやくできあがってあげても家の近くには電柱が多くてすぐに電線にひっかかる。ひっかかって取れなくなり、泣きたくなったものだった。
 模型飛行機もやはり一銭店屋から買い、自分でつくる。これは学校からも推奨された。軍用機の時代になっていたからだろう。骨組みの竹ひごなどはすべてまっすぐなので、たとえば翼などのように曲げなければならないところは、蝋燭の火にかざして自分で曲げる。これが難しい。何とかできて今度は薄い紙を貼る。不器用な私にはこれも大変だ。今のプラモの組み立てとは質の違う難しさがある。ようやく完成、外に出てゴムひもをぐるぐるまき、プロペラを廻して飛ばす。こうして苦労してつくったのに、木にひっかかったり、落ちるところが悪くてこわれたりすると、泣くに泣けない口惜しさだ。

 紙カン(紙に火薬の粒を貼り付けたもの)を買って紙カンピストル(運動会の用意ドンのときに打つピストルの小さいもので鋳物でつくられていた)でバンバン打って遊ぶ。
 カマキリの耳元で紙カンを打つとお尻から黒い針金のようなものが出るという話を聞いて、カマキリをつかまえてみんなでやってみる。本当にニュルニュルと出てくる。興味深くみんなで見る。
 さっき言ったべっきどんの遊びもそうだが、子どもというものは残酷なものだ。なめくじに塩をつけて溶かそうとしてみたり、トカゲを見つけてはそのしっぽを切ったり、クモの巣をこわしてみたり、虫でも何でもおもちゃにした。また、列車が来る直前に蛙を線路の上にあげ、車輪でつぶれるとどんな形になるのか試してみたという友だちもいた。
 怖い遊びも好きだ。たとえばみんなでこんな遊びもする。からになったインク瓶にカーバイドの白い塊を入れ、それに水を加えて急いでふたをする。瓶の中はぐつぐつと沸騰し始め、白いアセチレンガスが充満してくる。やがてそのガスは瓶の中に収まりきれなくなり、ボンと大きな音をたてて爆発してふたを空高く吹き飛ばす。子どもたちはそれを見て大喜びする。でも怖い。ふたが自分達のところに飛んで来るかもしれないからである。そうならないように少し離れてそれを見るが、いくら怖くともやはり面白い。こんな遊びをしたものだが、このカーバイドをどこから手に入れたのか、買ったのか、もらったのか、近くのプロパンガスの工場から拾ってきたのか、思い出そうとしてもどうしても思い出せない。

 しんこ細工売りがたまに来る。あわてて家に帰ってお金をもらってきて、道路脇に座ってしんこ細工をするのをみんなで取り囲み、興味津々で見る。できあがったもののなかのどれを買うか、迷いに迷って手に取る。
 それから富貴豆売りも来る。「富貴豆(ふうきまめ)」とは、青えんどうを砂糖で柔らかく煮てつくった豆菓子で、今は山形名産の高級菓子となっているが、私が子どもの頃はこれは店で買う物ではなかった。ときどき箱をかついでやってくる富貴豆売りから買う子どもの食べ物だった。二銭だった思うが、それを出すと新聞紙を三角に折ってつくった小さい袋に入った十粒くらいの富貴豆を一つくれる。しかしそれで終わるわけではない。道路の脇に座った売り子は、箱の中から竹(まげわっぱかもしれない)でつくった直径十㌢・高さ二㌢くらいの丸い輪っか(刺繍のときに使う丸枠を思い出してもらえばいい)の上に黒い布をかぶせたものと待ち針を取り出す。そして買った子どもにその丸枠をひっくり返して裏を見せる。裏の布は表とは逆に白色で、そのなかに直径約一㌢くらいの黒く縁取られた大小の○が三~四個、赤い色で縁取られた○が一~二個書かれてある。それをじっくり見せた後にくるっとひっくりかえす。表の黒い布に、先ほどの○があった場所を思い出しながら、待ち針を刺す。すると売り子はまた裏をひっくり返す。うまく黒○のなかに待ち針が刺さっていたら、富貴豆の袋を一つ、赤に刺さったら二つおまけにくれる。このおまけをいかに取るか、子どもは真剣になる。だから裏返したときの○がどの辺にあるかをまず必死になって見て覚える。ひっくりかえした後、この辺にあったはずだいやあそこだとみんなで大騒ぎしながら、針を刺す。しかしなかなか当たらない。すると、富貴豆売りの帰った後みんなで悪口を言い合う、ひっくり返すときにごまかしたとか、動かしたとか。今度から買わないなどとみんなで決心するが、また売りに来るとみんな家に走ってお小遣いをもらってきて、また針刺しをやる。まさに懲りない面々である。

 お手玉は自分の家でつくってもらうが、おはじきやまりつきのまり、ゴム飛びのゴム、千代紙、塗り絵などは一銭店屋から買う。それにあやとり、これらは女の子の遊びである。パッタや玉コロは男の遊びだ。このように男の子と女の子、それぞれ違う遊びもあるが、それもたまにいっしょにやるし、人数の多い方が面白い鬼ごっこやかくれんぼはいっしょにやる。もっと小さいときには、家からむしろかござを持ち出して道路や庭に敷き、いっしょにままごとをする。子どもの地域社会では「男女七歳にして席を同じうせず」などということはまったくなく、学校社会は別にして小学校卒業までは男女いっしょに遊ぶのが当たり前だった。
 こうして、近所の友だちみんなで群れていっしょに遊んだ。テレビはもちろんないし、本も少なく、一人遊びのできる道具も少ない時代だったので、外で友だちと遊ぶより他なかった。しかも遊ぶ子どもたちの数が多かった。

 夕方になる。それぞれの家から帰るように声がかけられる。私も祖母から「ごはんだよー」と呼ばれる。みんな帰って誰もいない静かな薄暗い路地にいると、本当に「人さらい」が出てきてさらわれるのではないかと怖くなり、あわてて家に帰る。その後に父母たちがようやく野良から家に帰ってくる。

(註)書き終わってから思い出したが、木でつくられた駒もあった。橙色と黄色の二種類の色が塗られ、字や絵が印刷されており、橙・黄の両軍で戦ったはずである。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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