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幼いころの記憶にない牛・豚肉



                  家畜の飼育と私たちの暮らし(2)

                 ☆幼いころの記憶にない牛・豚肉

 前にも述べたように、農業の機械化が進む前、私の生家では役牛=農耕・運搬用の牛を飼っていた。付近の農家もすべてそうだったが、そのさいの牛はすべて雌だった。理由は雄に比べて温順なので使役しやすいこと、子牛を生むのでそれを売って収益が得られることからである(註1)。
 父がかなり高齢になったころこの牛についてこんな話をしてくれたことがある。

 戦争の敗色の濃くなったころのある年の冬のこと、近所の農家Uさんの役牛が子どもを産んだ。残念ながら雄牛である。雄では農家は誰も買ってくれない。博労などが肉用として買ってくれるが、ただ同然、本当にいくらにもならない。ましてや戦争真っ只中、まともな売買はできなくなっており、なかなか売れない。やむを得ず屠畜場に自分で連れて行くことになるが、そこまで歩いて連れて行くのは距離的にも大変(車などない時代である)、しかも屠畜代までとられるので赤字になってしまう。だからといって家において餌を食わせていたら損するだけである。
 どうしたらいいか、こんなことが父たち近所の農家の青年数人の集まりで話題になった。青年といっても結婚してすでに一家の中心をなしている30歳代、身上はまだ譲られていないが、経営の技術的側面ではその中心的役割を譲られており、この程度の決定権は青年にある。みんなで話しているうち、それならみんなでつぶして食べたらどうかという提案が出た。それはいいということになった。何しろみんな腹が減っている。供出割り当ては厳しく、配給は少なく、農家であっても食糧・栄養不足、ましてや肉・魚など食べられない。金をかけて手放すくらいなら、みんなで肉にして分けて食べよう。父も賛成した。ちょうど母が体調を崩しており、栄養のあるものを食べさせてやりたかったからだという。
 もちろんこれは法律違反、見つかったら警察に捕まってしまう。しかし、ちょうどいいことに時期は真冬、雪は大量にある。これを利用しようということになった。
 そしてある日、みんなでこっそり子牛を連れて人目につかない遠くの畑に行き、そこの雪をシャベルでみんなで四方に高く積み、外から見えないようにし、そこで屠殺することにした。
 問題は誰が屠殺するかだが、子牛の所有者のUさんは一時期屠畜場で働いたことがあり、経験がある。しかも自分の牛である。Uさんがやるより他ない。
 しかしUさんはかなり迷ったらしい。奥さんを亡くして半年くらいしか経っていなかったからである。こんなときに殺生をするのはしのびない。それでも経営難・生活難のなか子牛の処分で損などしていられない。幼い子ども四人もお腹をすかしている。背に腹は代えられない。
 いよいよのときUさんは叫んだ。
 「かが かんべんしてけろな(かかあ 勘弁してくれな)」
 そして牛を倒した。
 父は言う、あのときのUさんの悲痛な声が忘れられないと。

 この話を父から聞いたとき、半分はショックを受けながら、半分は農家の青年のしたたかさに笑ってしまった。
 しかし、その後みんなでどう処置し、分配したのか、聞き漏らしてしまった。もっときちんと聞いておけばよかったと後悔しているが、ここからは私の想像である。
 その後きっとみんなで解体して、食べられる肉などをすべて取り、食べられない部分は細かく解体して畑の土の中深く埋めたのだろう。解体の跡を見つけられたりしたら大変だし、子牛のことだから量は少ないし、肥料分にもなるからだ。
 さて肉だが、その場で焚き火をして鍋で煮て、それをみんなで配分したのではなかろうか。生肉を分けて各自の家に持ち帰り、煮たり焼いたりしたらその匂いで近所にばれてしまうからだ。肉の配給などないときなのになぜ肉を煮るうまそうな匂いがするのか、どこから肉を手に入れたのかが話題となり、警察などに漏れてしまう危険性があるからである。
 当然飼い主のUさんの分け前は一番多かったろうが、そもそも子牛の肉、量が少ないのを数人で配分するのだから、各人の配分量はほんのわずかだったろう。
 それでも、その肉の一部はその現場でみんなでどぶろくを飲みながら食べたのではなかろうか。量が少ないので、イモやニンジンなどいろんなものをぶっこんでだろうが。そうでもしなかったら、気分もおさまらなかったろうからだ(私の父はどぶろくを飲まなかったろうと思う、そのころは酒が飲めなかったからである)。

 最近この話を思い出してふと考えた。このとき父が家に持ち帰った牛肉を私は食べたのだろうかと。残念ながら記憶にない。食べたのを忘れたのだろうか。もしかすると、食べなかったのかもしれない。あまりのわずかな配分量なので大家族みんなで食べるわけにはいかないので、身体の弱っていた母にだけ父がこっそり食べさせたかもしれないからだ。
 このときのことだけではない。そもそも子どものころ牛肉を食べたことがあるかどうかはっきりした記憶がない。
 前にも述べたように山形内陸は牛耕地帯、老廃牛の肉はかなり食べられており、たとえばサトイモと牛肉を醤油で煮つけた芋煮(註2)なども生家で食べていたはず、ところがまったく記憶がない。
 豚肉についても記憶がない。幼いころ祖母がたまにつくってくれたカレーライスを食べたのは覚えているが、それに入っていた肉が豚なのか牛なのか、あるいは鶏だったのか、そもそも肉が入っていたのかどうかも覚えていない。ただし、みんながカレーを食べているときに祖父は食べず、祖母が祖父のためだけにつくったおかずを食べていたのは覚えている。祖父は肉が嫌いだからである。そうなるとカレーに肉が入っていたはずなのだが。
 私が中学一年、混乱の少しはおさまった戦後3年目の年に、父がしなそば(現在の中華そば)を食べに街に連れて行ってくれたとき(註3)、何ともおいしいしかもなつかしい味、子どものころに食べたものだと思い出したのだから、少なくともチャーシューで豚肉は食べていたはずである。しかし小学校に入って以来の戦争と戦後の食糧難の長い期間しなそばなど食べられるはずもなく、忘れてしまっていたのだろう。
 そう考えると豚ばかりでなく牛肉も食べていたはずである。
 ただ入学前の幼いころのこと、しかも今のように肉を食べることのない時代で食べる回数も少なかったので、忘れてしまったのだろう。ただし鶏肉だけは小学校に入ってからもたまに食べたので記憶に鮮明に残っている、きっとこういうことなのだろうと今は考えている。

 それにしても肉の知識はなかった。開戦以来つまり私の小学校入学以来、その卒業つまり戦後3年目までの6年間、まさに肉に関しては私の空白の時代だったからだ、
 開戦前に発行された雑誌や小説などを学校に入ってから読んだり、友達や親の話を聞いたりして名前だけ知っているものはあった。たとえばトンカツだ。何ともおもしろい名前、しかも豚カツと書くらしくて子どもたちの悪口の対象になる豚の肉でつくったらしいからだ。しかしどんなものかわからなかった。またカツ丼はこのトンカツと関係があるのだろうくらいしかわからなかった。
 戦後、小学5~6年の給食のスープのなかにサイコロ状の肉のようなものがいくつかいつも入っていた。占領軍の放出物資か援助物資らしいのだが、まずくて食えたものでなく、あの匂いをかいだだけで吐き気を催したものだった(註4)。
 肉には恵まれない小学時代だった。

 戦後5~6年してからではなかったろうか、戦後の混乱からそろそろ落ち着き始め、肉が自由に食べられるようになり、肉の入ったカレーなどが生家の食卓にも出るようになった。制限されていた外食も少しはゆるやかになり、しなそばなどは食堂で自由に食べられるようになった。
 このころから肉に関する記憶がはっきりしてくるのだが、それでも私には牛豚鶏の肉の違いなどよくわからなかった。脂肪分に餓えていた時代、肉は何でもうまく感じた。
 それでも少しずつその違いがわかってきた。高校のサークルなどで秋に川原でやる芋煮会では牛肉を買ってきて使ったことを考えると、芋煮は牛肉とすでに知っていたのだろう。
 たまに小遣いをくすねて学校帰りにこっそり食べる一杯50円のしなそば、ここに入っている肉、これは大好きだったが、このチャーシューやスープの作り方を高校の同級生だった山形駅前の食堂の息子から教わり、チャーシューが豚肉だと言うことを初めて知ったものだった。
 すき焼き、友人と大学の寮でやろうとしたとき(ちょうど戦後10年目のことだった)、値段の安い豚肉でやってみようとしたこと(註5)などは、そもそもすき焼きは牛肉を使うものということを知っていたことを示している。
 カツ丼、これも大衆食堂で出されるようになり、金さえあれば食べられるようになった。トンカツ、大学1年のとき東京に住む父の知人の家でごちそうになったが、仙台の専門店(当時は高級店だった)でまともに食べることはなかなかできず、大学院のとき何かのコンパで始めてその専門店に入り、うまいと思ったものだった。
 いずれにしても肉は高かった(内陸部では魚もそうだったが)。そうそう食べられるものではなかった。

 何と、ソーセージも出回り始めた。
 ハムとかソーセージとかの肉の加工品があることは知っていたけれど、どんなものかも知らず、いつかは食べた見たいと思っていた。ところがそのソーセージがしかも安く店で売られるようになったのである。買って食べて見た。うまかった。おかずにしてけっこう食べた。
 あれが魚肉ソーセージであることを知ったのはいつ頃だったろうか。
 まともなハムやソーセージが食べられるようになったのは70年代を過ぎてからではなかったろうか。

 肉に関しては何とも貧しい少年時代、青春時代だった。
 いや、卵にしても、牛乳にしてもそうだった。家畜との触れ合いは別にして、畜産物に関しては本当に貧しかった。

(註)
1.10年12月10日掲載・本稿第一部「☆子牛の売られていく日」(2~4段落)参照
2.12年3月26日掲載・本稿第三部「☆地域に誇りをもたない風潮」(3段落)参照
3.11年3月2日掲載・本稿第一部「☆蝋紙、朝鮮特需、屑鉄拾い」(1段落)参照
4.11年2月21日掲載・本稿第一部「☆まずかった学校給食」(2、4段落)参照
5.13年11月12日掲載・本稿第六部「☆熱源―電気と非更新資源へ―」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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