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役牛から乳牛・肉牛の時代へ



                  家畜の飼育と私たちの暮らし(3)

                  ☆役牛から乳牛・肉牛の時代へ

 牛肉とはあまり縁がなかったが、牛とは家族同然のつきあい、前にも述べたように子どものころの私は餌やりの担当者だった(註1)。といってもその牛は農耕・運搬用の牛、だから私にとって牛と言えば生家で飼っているようないわゆる「役牛」(その呼び方も後で知るのだが)だった。
 中国やアジアに戦火を拡大する中で、水牛というものが南方にいることを新聞や雑誌で知ったが、それも役牛、だから牛と言うものはそういう働く牛だと思っていた。

 もう一方で牛乳と言う言葉も知っていた。生家では山羊の乳を飲んでいたので牛乳を飲んだ記憶はないのだが、いろんな本に書いてあったからである。あちこちで宣伝されていて私も幼いころ食べた「森永ミルクキャラメル」のミルクは牛乳のことだとも誰かから教えられていた。そしてその牛乳は家で飼っている茶褐色の牛とは違った種類の牛、白と黒のぶちの入った牛から搾るもの、これも絵本や漫画で知らず知らずのうちに覚えた。
 小学校に入ったころは牛乳屋さんが隣りの学区内にあることを知った。あの牛乳に米のとぎ汁を入れてごまかしているらしいなどと友だちがよく噂していた。
 幼い妹が重い病気になった時(註2)、この牛乳屋さんに二日おき(だったと思う)にビンを持って買いにいかされた。山羊の乳はもちろんあったのだが、牛乳はもっと身体にいいということからだろう。牛乳は普通の人が毎日飲むものというより病人が滋養強壮剤として飲む薬だったのである。ところが当時は戦争真っ只中、牛乳を手に入れるのが難しくなっており、それで毎日買えず、祖母が店に何とかしてくれるよう頼んで二日おきにしてもらったのではないかと思う。
 こんなことで、牛には山羊のように人間のために乳を搾らせる牛と働かせることを目的とする牛の二種類あるらしいことを知識として持ったのだが、乳搾り用の牛は本の絵や写真で見るだけ、実際に見たことはなかった。当時はまだ乳牛は珍しい存在だった。

 戦後、食糧難を解決すべく食糧増産運動が展開されたが、その一環として有畜経営化が推進された(註3)。飲用乳自給のための山羊の飼育、豚や鶏の増頭羽、毛糸の原料としての羊の飼育、乳牛の導入、その結果としての堆厩肥増投による田畑作物の増産を政府が推奨したのである。
 私の生家でもそれに対応して羊を飼育するようになり、他の農家も飼育する家畜の種類や頭数を拡大したが、近隣の集落には乳牛を導入した農家もあり、それを畑から遠く見たのが乳牛を見た最初ではなかったろうか。
 しかし乳牛に関しては導入が難しかった。当時はどの農家も役牛を飼育しており、それに加えて乳牛を飼育するのは飼料確保の面からして、労力面からして困難だったからである。
 一方、当時こんなことも言われていた、アメリカ人の体格がいいのは牛乳を飲んでいるためだ、牛乳は身体ににいいし、頭もよくなると。そうであればやはり乳牛は増やすべきである。
 そこで子ども心に考えたのが、家で飼っているような役牛の乳を搾って人間が飲めるようにできないか、あるいは乳牛を農耕や運搬に使うことができないかということだった。父に聞いたら今の役牛と乳牛では無理だとのこと、それはそうかもしれないと納得せざるを得なかった。でももう少し大きくなっていたら役牛と乳牛を掛け合わせて役用にも搾乳用にも使える牛をつくったらどうかとさらに聞いていたろう。
 そんなことは私が考えるまでもなかった。畜産研究者は役乳兼用牛の開発に取り組んでいた。スイスなどには乳肉役の三用途兼用種すらいるのだからできるはずである。しかし時間がかかる。そうこうしているうち役牛は不要になってきた。耕運機が導入され、自動車が普及し、農耕・運搬用の牛はいらなくなったのである。それで乳役兼用種の研究開発もやめざるを得なくなった。もしもそのまま続けていたらかなりいい兼用種が育種できたと思うのだが。
 やはり乳牛を増やすより他ない、と思っても、問題は牛は一年一子一産しかもその半分が雄なのでそう簡単に増殖できず、時間がかなりかかることである。そこで考えられたのが、当時たくさんいた役牛=和牛の雌に乳牛の雄を交配させ、それで生まれた子牛(乳牛の血が半分入っている)が成長したらまたそれに乳牛をかけあわせて乳牛の血を多くしていく。こうして乳を搾れるようにしていく。このような牛を「新乳牛」と呼んだのだが、こうして交配を続けて行けば(累進交配していけば)、徐々に乳牛の血が濃くなり、最終的には乳牛にきわめて近い牛がつくりだせる。こんな考えから新乳牛の増殖運動が始まり、宮城県などでは積極的に取り組んだ。私が農学部に入ったころに畜産の研究室の方からこの話を聞いたものだったが、やがてアメリカなどからホルスタイン種などの乳牛が輸入されるようになり、時間もかからず苦労もせずに乳牛が導入できるようになったので、やがてこの運動は消滅するようになった。
 こうした紆余曲折がありながらも徐々に酪農家が増え、乳牛頭数も増え、牛乳の生産は飛躍的に伸びていった。それに拍車をかけたのが1954年の大冷害である。東北の山間部などは稔実作物が壊滅状態、それで冷害に強い草を食べて育つ乳牛の導入が進んだのである(註3)。
 一方、牛乳の需要は伸びていた。つまり役牛の需要はなくなってきたが、乳牛の需要が増えて来たのである。

 ちょうどそのころは都市部の戦災からの復興が進みつつあった時期でもあった。焼け野原だった仙台にも3階建て、4階建ての建物が見られるようになり、ネオンも輝くようになった。
 今でも鮮明に私の記憶に残っているのは、乳牛の絵と「宮城酪農」の字を浮かび上がらせた大きなネオンサインだった。50年代後半、私の大学3年ころではなかったろうか、仙台の盛り場の東一番町通りと仙台駅から伸びる大通りの青葉通りとの四つ角にできた3階建てのビルの屋上に輝いたのである。そして3階のところには縦に「ミルクスタンド」のネオンが輝く。
 何とも胸がときめいた。大都市に行くと「ミルクホール」という牛乳を飲ませる店があるということを戦前の本で読んでおり、何ともハイカラ、そういうところに行ってみたいと子どものころに思ったことを思い出したのである。
 ミルクスタンドはそのミルクホールのことだろう、宮城酪農は協同組合だからそんなに高くとらず、私たちも行けるところだろう、そう思って早速友だちと行ってみた。建物の2階にミルクスタンドはあった。牛乳コップ一杯40円(30円だったような気もするが)、店で売っている牛乳瓶入りよりも高価だが、きっと本物の牛乳、しかも夏はそれに氷が入り、ホットミルクもあり、喫茶店並みにテーブルで飲ませてくれるのだからそれもやむを得ないだろうと納得して飲んだものだった。他にヨーグルトやパンも出していたような気がするが、ともかく明るい清潔な感じの店だった。牛乳だけを飲ませる店、何ともハイカラで新鮮に感じたものだった。
 さらに感激したのはこのミルクスタンドを開設したのが宮城県酪農農業協同組合だったことである。開設の直接目的は、組合員の搾った原乳を集めて処理するために仙台市の隣り町名取の館腰(現・名取市)につくったミルクプラントで製造した牛乳の需要拡大だったようだが、2~3頭飼いの多かったころ、零細酪農家が協同して都会に直販店を設けられるようになったのである。これは本当にうれしかった。

 こうして乳牛(ほとんどがホルスタイン種)の頭数は増えていったが、役牛の飼育は耕運機の普及で激減した。これはこれでしかたのないことなのだが、問題は役牛=日本在来のいわゆる和牛(黒毛種、日本短角種、褐毛和種、無角種)は肉用の牛でもあったことであり、役牛の減少は日本人の好むおいしい牛肉が食べられなくなることでもあった。これまでは、役牛が年をとるなどして働けなくなるとつまり廃牛になると博労がそれを農家から買い取り、その牛をそのままあるいは数ヶ月濃厚飼料を与えて飼育(つまり肥育)して殺処分し、その肉を肉屋を通じて消費者に供給してきたのだが、その供給源の役牛がいなくなってきたのである。もちろん乳牛の肉も食べられるし、現にその老廃牛の肉は食べられている。つまり乳牛の雄や老廃牛(乳が出なくなって不要となった牛)は肉の供給源となっている。しかしその肉質は和牛の肉にはかなわない。
 そこで考えられるのが、乳牛が乳を生産すると同時においしい肉も生産できるようにすること、つまり乳肉兼用種の開発である。実際にその研究が始まった。しかしやはり肉の味は和牛にはかなわないし、乳量はホルスタインより落ちる。何十年もかければそうした.問題が解決できるかもしれないが、ともかく容易ではない。それまで待っているわけにはいかない。そこで始まったのが、和牛を役用として使わずに肉用として飼育し、つまり肥育し、それを消費者に供給することである。
 しかもタイミングよく、肥育に必要な濃厚飼料(トウモロコシ、麦、マイロ、大豆、魚粉などのタンパク質含有量の多い飼料) がアメリカなどから大量に安く輸入されるようになってきた。この安い餌を食わせて早く太らせることができる。
 そこで役牛=和牛の肉用としての飼育、その多頭化が60年代後半以降急激に進むことになった(註4)。
 なお、ちょうどそのころ、ヘレフォードとかシャロレーとかの外国産の肉牛品種の名前を自治体や農業試験研究機関でよく聞いたものだった。和牛より産肉能力が優れ、草地放牧に適している肉専用種として輸入されたのである。こうした見慣れない牛が各地で見られるようになった。しかし、日本人の嗜好に肉質が合わないことから、それほど普及しないで現在に至っている。

 こうして和牛は役用ではなくなり、食肉用として飼育されるようになった。もちろんかつても食肉として利用された。しかしそれは副次的な目的であり、主目的は役用であった。その主目的はなくなり、かつての副次的な目的が主目的になり、しかもそれに特化することになったのである。
 かくして牛の飼育はかつての役牛・乳牛の時代から肉牛・乳牛の時代へと変化した。
 これとほぼ同じ時期に、しかもきわめて類似した変化が、鶏についても起きた。

(註)
1.10年12月15日掲載・本稿第一部「☆家畜の世話(4段落)参照
2.10年12月14日掲載・  同  上 「☆子守り―幼い妹の死―」参照
3.11年3月9日掲載・本稿第一部「☆水田二毛作と用畜の導入」(3段落)参照
4.11年7月4日掲載・本稿第二部「☆大家畜生産の発展」(2段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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