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戦後の養鶏と卵の記憶



                    家畜の飼育と私たちの暮らし(4)

                     ☆戦後の養鶏と卵の記憶

 私の勤めていた東北大農学部の真北、直線距離にして300㍍くらいのところにJR仙山線の北仙台駅がある。今は町のど真ん中になってしまったが、かつては線路から北側に山林と田畑が広がっていた。
 1959年のことである、この駅からすぐ西にある小さなガードに向かう細い道路に面して卵屋さんがあった。屋根が低く、暗く、今にも潰れそうな古い木造の本当に小さな店だったが、その狭い土間に木製の低い棚があり、その上に使い古したリンゴ箱がいくつか並び、その箱に入っているもみ殻の中に大中小別に分類された卵がびっしり並んでいた。その箱によってつまり卵の大中小によって値段が違っていたが、八百屋などで買うよりはかなり安く、また新鮮だった。たまたまその近くの家の二階一間を借りて新居にした私たち夫婦は当然のことながらそこを利用した。おかげさまで安くたっぷりと卵を食べることができた。
 そのときいつも不思議に思ったものだった。これだけたくさんの卵を農家から買い集め、しかもこんなに安く売る、どうしてこんなことができるのだろうと。鶏を飼っているのは私の生家のような少羽数飼育の農家であると当時私は思っており、八百屋や仲買人などの商人がそうした農家をまわって卵を買い集めて売っているのだろうと考えていたからである。
 もう一つ不思議に思ったことがあった。細かく粉砕した黄色いトウモロコシなどさまざまなものが混ぜ合わさっている鶏の餌も売っていたことである。当時は町場の一般家庭でも庭先で鶏を飼っている家がけっこうあり、また卵を売るためにたくさん鶏を飼っていて自家農産物の残渣等の餌だけでは間に合わない農家もいたので、そうした人たちが買うのかもしれない。そういえば私の生家でも雛を育てるときに買っていたような記憶がある。
 そんなことを考えながらそこで買っていたのだが、思うように買うことができなかった。店が開く時間はおそく、閉まる時間が早く、休みの日も多く、日中いない私たちにとって利用しにくかったからである。これも何でなのか不思議だった。
 この疑問も解決しないうちに私たちは引っ越してしまった。

 それから数年くらいしてからの話である。
 農学部の技官をしているYさん、当時としてはめずらしくバイオリンを弾き、しかもかなり上手で市民交響楽団などで活躍された方なのであるが、彼の家が今言った北仙台の私のかつての借家の近くにあったことをたまたま知った。しかも家では養鶏をいとなんでいるという。驚いた、まったく知らなかった。研究室が違うのでそれほど詳しく彼のことを知らなかったのである。Yさんの家では2~3百羽飼育していたようだが、当時としてはまさに大規模経営だった。
 考えて見たらこうした経営はあってしかるべきである。30万人近い(当時)仙台市民に、また市内の食堂や菓子屋などの大規模需要者に卵を供給するとなれば、農家や一般家庭の零細な庭先養鶏だけでは間に合わないだろうからである。つまり規模の大きい採卵鶏飼育業者が搾乳業者(註1)と並んで全国の大都市近郊に成立していたのではなかろうか。
 もしかすると旧山形市内にもそういう養鶏業者がいたのかもしれず、私が子どもだから知らなかっただけなのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、ちょうどその頃先輩の畜産研究者に聞いたことを思い出した、1千羽以上飼育している養鶏業者が仙台にいると。当時としてはきわめて大規模であるが、この記憶はまちがいないだろうか。
 こんな疑問が生まれてきた。そしたらどうしてもその答えを見つけたくなった。しかも近くに答えてもらうのにちょうど都合のいい人がいる。畜産学者のKT君だ。私より八年後輩なので昔のことは知っており、しかも仙台生まれで家も北仙台駅の近く、彼の定年後は飲み仲間としてときどき会ってもいる、そうだ、彼に聞こう。ついでに牛や馬、豚など家畜のことでわからないこともいろいろ聞こう。
 そう思って彼にメールした。私の家庭教師をしてくれ、授業料は飲み代、したがって会場は二人行きつけの飲み屋、当然夕方からと。
 彼は快諾、仙台の中心部で戦後闇市の名残りがいまだに残る横丁にある古びた小さな居酒屋で落ち合った。

 一献傾けながら聞いた。
 まず北仙台にあった卵屋さん、彼も記憶にあると言う。しかし、そこを誰が経営していたか、卵や餌をどこから仕入れていたかはわからない、またYさんのことは聞いてはいるが、どれくらい羽数を飼っていたかは聞いていない、もしかすると私のいう卵屋はYさんの家でお得意さんに卸した後に残った卵を売っていたのかもしれない、だけどはっきりとわからないと言う。
 ちょっとがっかりした、しかし続けて彼の言ったことに驚いた。
 実は私の母はそのころ鶏の餌屋をやっていたと言うのである。しかも場所は農学部の南東側2百㍍くらいのところにある住宅街、そこに小さな店を借り、1950年ころ開業したと。飼料は戦前からの知り合いの東京の卸業者から仕入れていた。米ぬかや屑米、トウモロコシ、魚粕、貝殻などを混ぜ合わせたものだったが、そのうちの半分くらいはアメリカからの輸入だったろう。お客はまず庭先・自給養鶏をやっている人、それにYさんのような販売を目的とする養鶏業者等々かなり多くの人が買いに来ていたのを記憶しているが、さきほど出てきたYさんの家も近くなのでもしかするとお得意様だったのかもしれない。それから仲買人から卵を仕入れ、やはりリンゴ箱のもみ殻の中に入れて売ってもいた。これは近隣の人がよく買いに来た。雇用を一人入れるほどでけっこう流行り、数年で自宅に二階を増築するほどもうけ、それを機にすっぱりとやめたというのである。
 当時こういう餌屋兼卵屋が成立しており、それから採卵を商売にする養鶏業者もいたのである。

 次に、私の聞いた1千羽以上の大規模(当時としては)経営だが、たしかに仙台市郊外に数軒あったとKT君は言う。
 ただしそれは種鶏業者だという。つまり、採卵を目的とするのではなく、種鶏をもって有精卵を産ませ、それを孵化させ、生まれた雛=ヒヨコを鶏を飼育する農家や一般家庭にまた採卵鶏業者に供給する業者である。
 そうだった。たしかにこういう種鶏業者がいたはずだ。
 いうまでもなく普通の鶏が産むのは無精卵、いくらがんばってもその卵は孵化せず、つまり雛とならない。そうなると、種鶏をもたず、卵の販売もしくは自給だけを目的とする家では雛を供給してくれる人から買うより他ない。実際にほとんどの採卵鶏飼育農家は雛を買ってきて成鶏にし、卵を産ませいた。
 私の生家でもそうだった。これまで飼ってきた鶏が卵を産まなくなる頃、どこからかわからないがヒヨコが10羽くらいわが家に届く、それを飼育箱に入れ、寒くなると家の中に入れたり、電灯をつけて温めたりするなど大事に育て、成鶏になるころ鶏小屋に入れ、卵を産ませていた(註2)。
 このように雛を供給してくれる業者、つまり種鶏をもち、有精卵を生ませてそれを孵化させ、雌雄を鑑別して雌雛のみを販売する業者がいたのである。
 しかもそうした種鶏業者は中核都市の近郊に必ず何軒かあったはずである。当時の交通条件からして遠距離から雛を運ぶなどと言うのはきわめて難しいからである。
 私の生家のある山形にもあったはずだし、今述べたように仙台にもあったのである。

 まだ時間が早くて他に誰も客のいない居酒屋でKT君と二人でこんな話をしていたら、そこの亭主のAさんが話に入ってきた、子どもの頃そういう大規模養鶏業者の近くに住んでいたことがあると。何とそれはKT君も知っている業者だった。
 私より数歳年下のAさんは言う、その業者にハコベを炭スゴ(炭俵)一杯摘んで持っていくとヒヨコを10羽くれたもんだと。ハコベは小糠とまぜて雛の餌にするので必需品、そのハコベを採るのは大変、だから子どもがもってくると今でいうバイト賃としてヒヨコをくれたというのである。ヒヨコと言ってももちろん不用物の雄、だからそもそもはただなのだが。
 子どもたちはそれを家で飼う、餌は草や残飯等食べるものは何でも与える。一ヶ月もするとけっこうな大きさになる。それをまた業者に持っていくと肉用の若鶏として買ってくれる。これがけっこうな小遣いとなったという。
 たまに間違って雌のヒヨコが混じっていることがある。これはしめたである。そのまま家で飼って卵を産ませる。
 こんなことをして楽しみながら遊びながら稼いでいた、ところが小遣いが貯まりすぎ、あるときそれが父親に見つかって全部取り上げられてしまった、こう言ってAさんは笑う。
 こんなのんびりした時代、これは1960年ころまでだった。

 この餌のハコベとその入手方法から見てもわかるように、当時の養鶏業者の飼育技術は農家の庭先養鶏の延長線上にあるもので、農家養鶏を単純に大きくしただけ、生産性も高くなかった。自給を基本目的とする養鶏に対して販売を目的とする商業的養鶏、そこが違うだけだった。だから規模拡大も容易ではなかった。

 1961年、農業基本法の成立とともに構造政策が始まり、畜産の規模拡大が推進された。そしてそれは飼料穀物の輸入に基礎をおいたものだった。さらに養鶏の場合にはアメリカの大資本の育種した雛の輸入がそれに加わった。これは、前に述べたように、ケージ飼育や飼料給与等のオートメ化などの飼育形態・技術の変化ともあいまってかつてとは比較にならないほどの大規模採卵経営を成立させ、庭先養鶏や小規模平飼い経営を駆逐していった(註3)。
 一方種鶏業界は、青い目の鶏=アメリカ雛の導入で大きな打撃を受け、アメリカ種鶏大企業の下請けとなって生き延びるか潰れるしかなくなるなど、大きく変わることになった。
  (次回は11月10日掲載とさせていただく)

(註)
1.この搾乳業者についてはまた後に詳しく述べる予定でいるが、とりあえずは下記の記事を参照していただきたい。
  11年3月9日掲載・本稿第一部「☆水田二毛作と用畜の導入」(3段落)参照
2.10年12月15日掲載・本稿第一部「☆家畜の世話」(2段落)参照
3.11年8月1日掲載・本稿第二部「☆平坦部への施設型畜産の普及」(1、2段落)、
  11.年8月3日掲載・  同 上  「☆農業分野への資本の進出」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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