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『野菊の墓』・『白き瓶』・『土』、搾乳業

 

                   家畜の飼育と私たちの暮らし(8)

                 ☆『野菊の墓』・『白き瓶』・『土』、搾乳業

 残飯養豚の話を前回書いているうちちょっと思い出したことがある。粕酪、そして都市の搾乳業のことである。さらにそこから連想ゲームのように昔の映画や小説も思い出した。
 そしたらどうしても書き残しておきたくなった。そこでちょっと話をもとの乳牛の話に戻させてもらう。それとのかかわりでまたいろいろと脱線することになろうが、お許し願いたい。

 私の学生の頃、仙台の南町通りにあった古い松竹劇場で見た『野菊の如き君なりき』(註1)、忘れられない映画である。映画が終わっても涙が止まらなくて外に出ることができず、困ってしまったことを思い出す。
 明治のころの農村の少年と少女の淡く美しい初恋の物語、当時の封建的な社会・古い道徳観の犠牲となった切ない悲しい恋の物語、それが白黒映画、しかもスクリーンの周囲を白く柔らかく縁取った楕円形の画面のなかで、詩情豊かに描かれる。その昔の村の旧家が美しくまた重々しく、山野の風景がなつかしく描かれ、山の畑に綿を摘みに出かけた二人が野菊・りんどうの秋の花に想いを重ねる場面など、忘れようにも忘れられない。とくに、雨のそぼ降る渡し場から小舟が霧の中に消え去る別れのシーン、月夜の晩の花嫁の行列のシーンなどまさに水墨画、いまだに脳裏から離れない。主演の二人は無名の新人、これがまた初々しくてよかった。助演陣は名優ぞろい、監督は木下恵介、さすがだった。
 この映画、ぜひとも見ていただきたい。日本映画の最高傑作の一つだと私は考えている。

 この原作は伊藤左千夫が1905(明治38)年に発表した小説『野菊の墓』(註2)だという。伊藤左千夫は歌人だということはうっすらと知ってはいたが、小説を書くとは知らなかった。どうしても読みたくなって早速文庫本を買って読んだ。映画を見る前に読んでいれば別だったろうが、思ったとおり、それほど感動しなかった。やはり映画の方がよかった。なお、この映画制作の20年以上も後に二度ほどこれが映画化されている(註3)ようだが、当然のことながら私は見ていない。幻滅を感じてしまう恐れがあるからだ。

 それから30年も過ぎてから、ふたたび伊藤左千夫の名前に接することになった。藤沢周平の小説『白き瓶(かめ)』(註4)のなかに何度も顔を出すのである。といってもこの小説の主人公は長塚節なのだが。
 長塚節(たかし)、私たちの世代はほとんど知っていたものだが、若い方にはわからないと思うので若干説明しておこう。彼は茨城県の自作地主の農家の跡取りで、農民文学のさきがけといわれる小説『土』の作者として、さらに歌人、しかも新しい短歌の創出者の一人としても高名であった。この『土』は当時の農村のありのままを写実的に描き出した作品として私たちの必読文献のように位置付けられていたのだが、今の私としては若い人たちにあまり推薦したくない。それは『土』に寄せた夏目漱石の序文の一部(註5)を読んでもらえればわかる。
 「『土』の中に出て來る人物は、最も貧しい百姓である。教育もなければ品格もなければ、たゞ土の上に生み付けられて、土と共に生長した蛆同樣に憐れな百姓の生活である。……(中略)……彼等の獸類に近き、恐るべく困憊を極めた生活状態を、一から十迄誠實に此『土』の中に收め盡したのである。彼等の下卑で、淺薄で、迷信が強くて、無邪氣で、狡猾で、無欲で、強欲で、殆んど余等(今の文壇の作家を悉く含む)の想像にさへ上りがたい所を、ありありと眼に映るやうに描寫したのが『土』である」
 この明治時代の貧しい農民に対する偏見、罵詈雑言ともいえる漱石の文には許せないところがあるが、本稿第一部の最初でも述べたように、「長塚節の小説『土』、真山青果の『南小泉村』、宮本百合子『貧しき人々の群』などに描かれた戦前の農民の姿、口惜しいけれどもあれも事実だった」(註6)。長塚節の場合同じ農民としてこうした事実を描いていいのかどうか迷ったようだが、問題はなぜこんなことになるのか、本質が原因がこれらの小説のなかで十分に描かれていないことだ。だから農民の蔑視になってしまう。それが私にはたまらない。かつての農民の、私の身内の恥が暴かれるような気がするからだ。もう読みたくないし、読ませたくもない。真実を解明すべき学者としてこんなことを言うのは間違いだとは思うのだが。
 それはそれとして、この小説を書いた長塚節と伊藤左千夫とが歌人として深いかかわりがあったことをこの藤沢周平の小説『白き瓶(かめ)』で初めて知った。

 『白き瓶(かめ)』では節の側から左千夫を見ているが、そのなかに「左千夫は千葉の田舎から出奔して東京に出ると牛乳店に勤め、五年後には牛乳搾取業者として自立すると、一日十八時間も働いた人物である」という文章があった。さらに「節が本所茅場町の左千夫の家を訪ねたのは明治四十二年……(中略)……左千夫は雇い人の牧夫を相手に牛の手当てをしていたが、裏に回った節を見ると、すぐに牛舎から出てきた。汚れたズボンの上に短か着を着て、無造作に帯を巻きつけた左千夫の身体から牛の匂いが押し寄せて来た」ともあった(註7)。
 そうなのである、左千夫は東京で搾乳業をいとなんでいたのである。そういえば彼の詠んだ歌にこんなのがあった。
 「牛飼いが 歌よむ時に 世の中の 新しき歌 大いにおこる」
 まったく気が付かないでいた、誰か他の人のことを頭において歌ったのだろうと思っていたのだが、本人が牛飼いだったのである。

 左千夫は1889(明治22)年東京の本所茅場町に牧舎つき住居を買って搾乳業を始めたとのことだが、総武線錦糸町駅の近くで今はまさに大都会のど真ん中、しかし当時はまだ町はずれ、人家もまばら、埋め立ての湿地と沼があるだけの「さびしい場所」だった(註8)ようである。しかも牧場と言っても採草放牧をするわけではなく、運動場程度の土地である。したがってここで牛を飼うことは十分に可能であり、3頭から始めて20頭飼育まで拡大したようである。
 左千夫の家だけではなかった。当時の乳牛飼育はほとんど都市近郊に立地していた。農村部にはほとんどなく、つまりいわゆる酪農家はいなかった。

 それにしてもなぜ町外れなのか、もっと農村部に行けば広い土地で多くの頭数を飼うことができるではないか。そういう疑問も生まれてこよう。
 これは当時の輸送手段や保存手段の未発達からくるものである。トラックがあるわけではない、冷蔵庫があるわけではない、牛乳の消費者の集中している都会から離れたところで乳を搾っても運搬中に腐敗してしまうだけ、やはり都市近郊に立地しないとだめなのである。
 しかし都市近郊では地価が高くて多くの土地を購入できず、十分に牧草などの飼料を与えたり、放牧したりすることができないではないか、こういう疑問も生まれよう。
 ところが都市には農村にない利点もある。食糧や農産加工原料の集散地、食品工業の集積地帯、交通利便地域であり、乳牛に必要な濃厚飼料が手に入れやすいのである。たとえばトウモロコシや大麦などの穀類は国内外から都市に入ってくる。ふすま、米糠のような糟糖類も米麦の流通・加工業者から、大豆粕などの油粕類、魚粉などの動物性飼料は都市に立地する工場から大量に排出される。つまり餌は都市にあるのである。これを購入して給与すればいい。
 そうすると粗飼料が不足するが、それは農村部から購入すればいい。稲わら、麦わら、野乾草等々、生鮮農産物ではないので当時の交通事情でも運んでくるのに問題はない。
 そして生産した牛乳を乳業会社に販売する、もしくは自分で処理加工して小売業者を通してあるいは直接消費者に販売する。消費者とくに牛乳を飲めるような階層は都市部に集中しており、消費者に届くまでの時間は短くてすむのでそれは十分に可能だ。
 かくして都市近郊に立地したのであるが、こうした乳牛飼育経営は「牛乳搾取業者」と当時呼ばれていた。まさにその名の示すとおりだった。飼料作物等を栽培せず、農地もないのだから農家、農業ではなかった。そして購入飼料を給与した牛から乳を搾り取るだけ、まさしく牛乳『搾取』業だったのである。

 こうした都市の搾乳業者の一形態に「粕酪」があった。都市から大量に出る食物残渣や焼酎粕、ビール粕、大豆粕、ナタネ粕、醤油粕、豆腐粕等々さまざまな食品製造業からの廃棄物を主に利用して乳牛を飼育する業態を「粕酪」あるいは「粕酪農」と呼んだのである。これは先ほど述べた都市部の残飯養豚と類似する。それで思い出してここに書いたわけだが、粕酪は都市酪のもっとも極端な形態だった。
 もう一つの極端な形態は「一腹搾り」である。搾乳業者が草などの粗飼料と運動を必要とする未経産牛を子牛が生まれるまで農山村の農家に預ける、やがて子牛を産んで乳が出るようになったら親牛を業者の畜舎に引き上げ、粕類その他の濃厚飼料を給与して乳が大量に出るようにして徹底的に搾る、1~2年して乳があまり出なくなると牛を太らせ肉をつけて売却する、こういうものである。一回しか腹を痛ませておらず、その結果としての牛乳だけ搾るので一腹搾りというわけだが、本来牛はもっと子牛を生むことができるし、泌乳量も3~4産目の頃もっとも多くなるのに、一産しかさせない、ここに土地に草に依存しない乳牛飼育の限界があった。

 このような草との結びつきが少ない、濃厚飼料を多給して乳の生産量を増すことに力点をおいている都市近郊の搾乳業、粕酪、一腹搾り、日本的なと言っていいのか特殊なと言っていいのか、これが戦前から戦後にかけての日本の牛乳生産を担っていた(註9)。前にもちょっとふれたが、私が仙台に住むようになったころも町のすぐわきの土地で乳牛を飼育して搾乳し、瓶に詰めて販売する中小の業者が市内にたくさんあった。KT君によると私の今住んでいるところの近くに秋田牧場と言う搾乳業者があり、そこに小学校で見学に連れて行ってくれたとのことである。1950年代まではまさに都市近郊が牛乳生産地帯だったのである。今これらの地域は宅地化して町のど真ん中になっており、ここで乳牛が飼われていたなどとは今の住民には信じられないたろう。私の生家のある山形の近郊にも数は少ないが搾乳業者があり、私が牛乳を買いに行ったのはその小売店だった(註10)と思われる。
 当然のことながらこうした状況では日本の牛乳生産は伸びない。そこで戦後、前にも述べたような飼料作と結びついた本来の酪農への取り組みが行政、農家あげて展開されるようになった。牛乳処理加工技術や輸送技術、草地造成・改良技術の発達、道路の改良・整備等はその展開を促進した。
 もう一方で都市近郊の搾乳業は困難になってきた。都市化の進展は糞尿公害問題、土地確保・多頭化の困難等の問題を引き起こし、また大手乳業会社の進出のもとで中小の処理加工では引き合わなくなり、廃止するか純農村部に引っ越すしかなくなり、都市近郊の搾乳業・粕酪は姿を消すようになった。
 かくして農村部で本格的な酪農が展開されるようになり、都市酪農から農村酪農へと脱皮して牛乳の生産量は飛躍的に拡大し、牛乳は金持ちや病人の飲み物ではなくなって一般庶民の飲み物となり、現在に至るのである。

 それはそれでいいことなのだが、粕酪の減少がちょっと気になる。
 牛乳の均質化を求める大乳業資本の要求などから成分変異の大きい粕の利用が敬遠され、もう一方で輸入穀物飼料を利用した方が安上がりになることなどから粕酪が減少したのだが、その結果として大量の食品残さや工場廃棄物が利用されないままゴミとして処理されるという状況が生まれている。これはきわめてもったいないし、環境問題も引き起こす。しかも食品工業や外食産業、農産加工業の拡大の中で新たな廃棄物も生まれてきている。そこで必要となるのが、食品関連廃棄物を飼料として利用する技術を確立して新たな段階での「粕酪」の復活を図ることである。こうした取り組みも始まっているようだが、それをさらに推進し、廃棄物の削減による環境負荷の軽減、飼料穀物輸入の削減、そして食料自給率の向上を図っていく動きをさらに活発化していく必要があろう。
 これはさきほど述べた残飯養豚についてもあてはまるのだが。

 さて話を前回掲載記事の最後のところに戻すが、これまで述べてきたような経過のなかで、卵、肉、牛乳等の畜産物は消費者に豊富に安価で供給されるようになり、かつての貴重品から大衆食品へと変化した。それを次に見てみよう。

(次回は1月6日・月曜に掲載する。なお、体調も何とか回復したので、新年からまた毎週月曜掲載に戻りたいと考えている)

(註)
1.監督・脚本:木下惠介 原作:伊藤左千夫 製作:松竹、1955年
2.新潮文庫 1955年刊
3.1977年に山口百恵、81年に松田聖子の主演で映画化されたとのことである。
4.藤沢周平『白き瓶』 文春文庫 1988年

5.『土』の出版社がどこだったかを調べようと私の所蔵している文庫本を探したが、どこへ行ったか行方不明、やむを得ずインターネットで「長塚節」を検索してみたところ、下記の項目のなかにたまたま漱石の序文が掲載されていた。そこでそのなかから一部を引用させてもらった。
  「長塚節 土(www.aozora.gr.jp/cards/000118/files/1745_16941.html)」
6.10年12月3日掲載・本稿第一部「☆『真の藝術家』たり得なかった農民」(3段落)参照
7.藤沢周平・前掲書 87、172頁
8.  同  上     244、245頁

9.11年3月10日掲載・本稿第一部「☆水田二毛作と用畜の導入」(3段落)参照。
  なお、純農村部での牧草と放牧を主体とした酪農が戦前まったくなかったわけではない。たとえば明治期には北海道や東北、関東などに大きな牧場がいくつかつくられている。当時の上流階級が国から土地の払い下げを受けて広大な牧場をつくったのである。しかしそれは、牧場をもって牛乳を飲み、バター等を食べている欧米の上流階級へのあこがれから、またステータスシンボルとしてつくられたといえるものであり、極端に言えばお遊びだった。したがつて本格的な酪農とは言えず、そこから酪農が広がっていくなどということもなかった。だから成功してこれまでやっているなどというのはほとんどなく、今も生き延びているのは三菱のオーナー岩崎などの所有していた小岩井農場くらいのものであろう。小岩井も今は牛を放牧するよりは人を放牧すること(観光)に力を入れているようだが。
  もう一つ付け加えておけば、日本最初の牧場と言われている青森県三沢市の広沢牧場も同様に上級士族が土地払い下げを受けて始めたものである。しかし、軽種馬の品種改良・生産が主業であり、乳牛については繁殖を若干やっている程度で、やはり本格的な酪農経営とはいえないと思われる。

10.14年10月20日掲載・本稿第七部「☆役牛から乳牛・肉牛の時代へ」 (2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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