Entries

馬飼育の衰退と馬肉、馬乳



                  家畜の飼育と私たちの暮らし(11)

                   ☆馬飼育の衰退と馬肉、馬乳

 これまで牛、豚、鶏について述べてきたが、本来から言えば牛の次に馬について語るべきだったろう。「牛馬」という言葉にあるように馬は牛に次ぐ位置付け、しかも大家畜、戦前などは牛以上に重視されたものだったからである。
 にもかかわらず無意識のうちにそれを逆にしてしまったのは、馬が役用としてはもちろんのこと食用としても社会的に重視されていないことからきているのかもしれないのだが、それよりも私が馬とあまり縁がなかったことに原因があるのかもしれない。

 これまで何度か述べてきたように私の生家のある山形内陸は牛耕地帯、それで子どものころ馬で田畑を耕している姿を見たことがなかった。農耕はもちろん運搬作業も当然のことながら牛だった。
 それでも馬は市内でけっこう見かけた。馬車引きの人に手綱を握られて重い荷物を積んだ車を引いてコンクリート舗装の道路をパッカパッカと足音高く歩く姿は今でも目に浮かぶ。荷車つまり馬車は牛車よりも大きく、積んである荷物も多く、にもかかわらず馬が歩くのは牛よりずっと速かった。
 当時馬車はまさに大型トラック、馬はエンジンだった。「馬力」という言葉は、その数学的内容は別にして、子どもでも理解できた。馬力がある、馬力をかけるなどと言う言葉は子どももよく使ったものだった。
 じっくり馬を見られるのは鍛冶屋さんでだった。長く太い足をあげて蹄鉄を打ってもらっている姿を道端からあきずに見ていたものだった(註1)。
 このように馬はまず運搬用として私たち子どもは見ていたのだが、本などの知識で牛と同じように農耕用として使うことも知ってはいた。でも、あのでっかい馬の身体を見、何かあると馬は暴れて後ろ足で蹴飛ばすのだなどという話を聞くと、家で飼っているのが牛でよかったなどと思ったものだった。

 もちろん、馬は荷物ばかりでなく人間を背中に乗せて運ぶということも知っていた。昔は旅のときのあるいは合戦のときの乗物として、つまり騎乗用として使われたことは本や映画で知っていたし、天皇が白馬に乗って陸軍の観閲式などに出ている写真を新聞雑誌などでよく見ていたからである。また、陸軍の将校が馬に乗って町のなかを闊歩している姿を見かけてもいた。
 このことは馬が軍用としても飼育されていたことを示すものであったが、軍では騎乗用としてばかりでなく運搬用としても重視していた。当時はトラックなど自動車が普及していなかったからである。そして軍隊が騎乗用もしくは運搬用として飼育している馬は「軍馬」と呼ばれていた。
 学校ではもちろん軍馬の重要性を何度も教え、新聞、ラジオ等でも戦地での軍馬の活躍を報道した。その典型が国民歌謡としてラジオから毎日のように流された『愛馬進軍歌』(註2)だった。これは幼いころの私の頭に叩き込まれた歌の一つだった。
  「くにを出てから 幾月ぞ
   共に死ぬ気で この馬と
   攻めて進んだ 山や川
   執った手綱(たづな)に 血が通う」
 この軍馬を供給したのは馬産地帯(東北でいうと北上山地、青森南部、福島山間地など)の農家だったが、平場の馬耕地帯の農家も軍馬の供給でけっこうな収入を得たものだった。

 このように馬がもてはやされたのだが、私は馬に乗るのはもちろん触ることもなく、単に見るだけで子ども時代を過ごした。
 初めて馬に触り、また乗り、さらに馬耕(といっても中耕だが)作業をしたのは61年、大学三年の農場実習のときだった。しかし、そのころは馬の姿があまり見られなくなっていた。その現象は軍馬としての需要がなくなった戦後すぐから始まり、50年代後半からの耕運機の普及による農耕馬としての需要の減少で拍車をかけられた。それに加えてトラックの普及で運搬用としても馬は不要になってきた。こうして60年代後半には村でも町でも馬は見られなくなり、馬産地帯は壊滅した。私が研究生活に入ったのはちょうどそのころ、したがって農村調査に行って農家が馬を飼育している姿を見ることはほとんどなかった。
 それにかわって馬産地帯などに導入されたのが乳牛であり、肉牛だった。先にも述べたように役牛は役馬と同様になくなったが、別の利用形態で生き延びたのである。しかし、馬は肉用馬としても乳用馬としても残らなかった。私もそんなことは考えもせず、いなくなるのはしかたがない、時代の流れだと思って考えてきた。しかし本当に肉用、乳用として馬を残すことはできなかったのだろうか。最近になってそんなことを考えるようになってきた。

 廃馬、つまり老齢化して農耕、運搬等に使えなくなった馬はかつて大量に出たはずである。東北で言うと、昭和初期に飼育されていた馬は約40万頭、寿命25年とすると廃馬になるのは毎年2万頭弱、これだけの頭数を処分するのだから肉は大量に出たはずなのだが、それをどう処分したのだろうか。廃牛は肉として食べられたのだが、廃馬はどうだったのだろうか。
 そんな疑問は子どものころはあまり抱かなかった。馬肉を食べたこともなく、そもそも食べられるという認識も持っていなかったからである。
 いつごろだれに聞いたのか覚えていない、馬肉はサクラ肉と呼ばれて食べられている、サクラ鍋にして食べるのだそうだが、あまりおいしくないそうだなどという話を聞いていた。戦後のことだったことは間違いないと思う。駅前の闇市の叩き売りで見るサクラ(註3)とサクラ肉が結びつき、馬肉を牛肉だなどとごまかして売られている肉だからサクラ肉と呼ばれるのだろうなどと考えたことを覚えているからだ。この私の考えは誤りのようでサクラは肉の色からきたらしいが、ともかく馬肉が食べられているということをそのころ初めて知った。
 考えて見たら当然のことだった。日本は明治以降一貫して食糧不足、肉不足、うまいとかまずいとか言っていられない時代であり、もう一方では役馬使用の時代つまり廃馬の出る時代であり、したがって廃馬が肉として食べられるなら食べたはずなのである。たまたま私が牛耕地帯の生まれ、廃馬の少なさから食べなかっただけ、東北全体としては馬肉はかなり食べられていたのである。
 しかし馬耕地帯の仙台の肉屋さんで馬肉を見たことがなかった。私が肉屋をのぞくようになったのは60年代に入って、ちょうど馬の飼育が激減する時期だったからなのかもしれない。当時不足していた牛や豚の肉に馬肉を混ぜ合わせてわからないようにして売ってる肉屋もあるなどという噂は聞いていたが本当のところはわからない。
 いずれにせよ馬は減る一方、私が馬肉を食べることなどはきっとないだろうと思っていた。ところが1966年、桜鍋を食べることができた。

 青森県南部地方の新郷村に酪農振興の予備調査に行ったときのことである。このへんつまり青森県南部から岩手県の北上山地にかけてはそもそも馬産地帯だった、今は近年の馬の需要の激減に対応すべく酪農振興に取り組んでいるなどいろいろな話を県や農協の職員の方から聞き終わるころである、県の職員の方がこんなことを言った。このへんは馬産地だったこともあって桜鍋がうまい、とくに五戸の桜鍋は青森県内外で高い知名度を誇っているので本調査に来たときはぜひ食べてみてくださいと。
 五戸町は調査地の新郷村に行く途中にあるこの地域の中核の町で、当時は東北本線の尻内駅(現・八戸駅)からこの五戸まで南部鉄道という軽便鉄道が走っていた(註4)。尻内からこれに乗って五戸に到着、それから新郷に向かったはずなのだが、なぜかその軽便の車両は覚えていない。
 この新郷の調査が村長選挙にからんでいろいろと大変だったことについては前に述べたが(註5)、農家の方の協力を得て何とか本調査が円滑に終了するめどのたった最終日の夜、生まれて初めての体験をしようとみんなで桜鍋を食べに五戸に行った。
 味噌仕立てと肉が違うだけですき焼きと同じ、食べられた。しかし、食えるというだけ、珍しいというだけ、特にうまいとは思えず、若干残してしまった。やはり牛、豚、鶏肉にはかなわない。もう一度食べたいなどとはまったく思わなかった。これは私だけの意見ではなかった。
 これでは馬肉の需要が伸びるとは思えない。つまり肉用としての馬の飼育が成立するとは思えない。役馬の需要がなくなるのと並行して馬産は衰退するしかないのだろう、そう考えざるを得なかった。当然私はその後馬肉を食べなかった。仙台では売っている店もなかった(あるのかもしれず、私が知らないだけなのかもしれないが)。そう思っていたのだが、実は食べていた。

 コンビーフ、名前は聞いたことがあり、いつかは食べてみたいと思っていたものが、60年代に入ったころではなかろうか、缶詰で売り出されるようになった。しかもその缶詰が台形でちょっと変わっており、缶の開け方も巻き取り式でこれまた一風変わっていて何とも面白い。それより何よりその中身がまたうまい。フレーク状になった肉と脂身が固められていて、そのままほぐして食べてもおいしく、ジャガイモと炒め物にしてもうまい。しかも安い。私は大好きだった。
 いつごろだったろうか、その肉が馬肉を中心とした雑肉を主原料としていることを知った。ビーフだから本来は牛肉と牛脂のはずと思っていたのだが、考えて見たらあの値段で買えるわけはない。そしたら何とちゃんと「ニューコンビーフ」(だったと思う)と缶の表面に書いてあるではないか。それを知らずに食べていた私が馬鹿なだけだった。それを知ってから買わなくなったが、たまになつかしくなって買って食べることがあった。馬肉の利用、馬産の振興に役立つのでいいではないかとも思ったからである。そのうち、そこで使われている馬肉は輸入物らしいと聞き、それからまったく食べなくなってしまった。なおきちんと牛肉を使ったコンビーフも売られているが、この牛肉もどうせ輸入物、こんなこともあって食べなかった。
 それはそれとして馬肉は安価な食肉として、ソーセージのつなぎなどの加工食品原料としても利用されてきたことをそのころ知った。

 80年代半ばではなかったろうか。
 会津若松の調査に行ったとき、福島県庁の職員と夕食をともにした。そしたら会津名物の馬刺しを食べようという。関西では牛刺しを食べるということは聞いたことがあったが、馬刺しは聞いたことがなかった。牛肉好きの私が牛刺しを食べたいとも思わないのだからましてや馬刺しなど食べたいとは思わない。しかし、絶対うまいのだ、とくに会津の馬刺しは日本一なのだと勧める。せっかくそういうのに食べないわけにはいかない。やむを得ず食べた。非常にきれいな肉でうまかった。クジラの刺身の味を思い出した。でも、あまり食べたいとは思わなかった。
 その後熊本に調査に行ったとき、熊本が馬刺しで有名であることを知ったが、やはり食べなかった。
 そうこうしているうちに、仙台でも居酒屋などで馬刺しを出すようになり、研究室のKA君などはそこに行くと必ず注文していた。霜降りの馬刺し、本当に見事なのだが、私は一~二度無理やりつままされただけ、ほとんど食べなかった。それでよかったと思っている。脂を注入した馬肉を「霜降り馬刺し」として飲食店で出していたなどというニュースをその後見たからである。しかも馬肉のほとんどは輸入物、もしくは馬を生体で輸入して肥育したものらしい。
 そんなことにならないようにするには日本で馬肉をもっと生産してまともな馬刺し、桜肉を消費者に供給したらいい。つまり役牛が肉牛に代わったように役馬を肉馬に代えて馬産を振興すればいいのである。そして品種改良などに取り組んでもっといい肉用馬の開発に取り組んでいけばいい。こうすれば日本に馬の飼育の伝統は残るし、需要者の要求に応えることができ、需要を増やしていくことも可能になるかもしれない。
 しかし、馬は牛や豚よりも食べた餌を栄養にして身体に吸収する能力が低く、食べる餌の種類も比較的高価なものに限られるので、どうしてもコストが高くなってしまう。ましてや刺身になるのはほんの一部の部位、どうしても高価格となってしまう。もっと低コスト生産できるような馬の改良品種をつくればいいといっても、植物などと違って容易ではなく、何十年とかかってしまう。現状ではコスト低下は無理だ。
 そうした高価格の国産馬肉をみんな食べるだろうか。牛や豚、鶏の肉から馬肉に転向するだろうか。現在の輸入価格でもってさえ、馬刺しの需要が増えているとは思えないからだ。ましてや桜鍋の需要が増えるとは考えられない。他の肉や食べ物では摂取できない何か健康に特別にいい栄養分が馬肉に含まれているというのなら別だろうが、そのような話は聞いていない。
 そうなると、現状では肉馬として馬の頭数を増やし、馬産を日本に残すことは無理のようである。

 そこでもう一つ考えられるのが搾乳用の馬、乳牛のように乳馬として残すことである。
 といってもそんなことは以前は考えもしなかった。テレビでモンゴルの草原地帯の人々の暮らしを見たり、モンゴルに行ってきた畜産・農業経済研究者たちの話を聞いてからである。モンゴルなどでは馬から乳を搾って飲んでおり、しかもその乳で酒までつくっているという。それに学んで馬乳を搾り、馬乳酒をつくる馬を飼育すればいい。
 しかし、モンゴルに調査に行ったことのあるKT君に聞くと、搾乳量はけっこうあるが、それは春から夏まで、冬は出ない、ここに欠陥がある、それでモンゴルでは馬乳酒にして保存し、冬にも飲めるようにしているのだと言う。
 また、馬乳の栄養分は人の母乳と似ているので健康にいいとされているようだが、これに代わるものは今たくさん出ており、馬乳でなければというものでもない。
 それなら馬乳酒をつくって日本人に飲ませるようにすればいい。馬乳酒はビタミンCなどの栄養分をたっぷり含み、野菜不足になりやすい遊牧の民には欠かせないのだそうで、健康志向の日本人にあうのではないか。また西洋のワインやビールを日本でもつくるなど世界中の酒を飲み、またつくっている国だ、馬乳酒が日本にあってもおかしくない。
 しかし、湿潤風土の日本には野菜等がたくさんあり馬乳酒からでなくとも簡単に栄養分がとれる。また酒と言ってもアルコール度数はきわめて低く、ヨーグルトに近いものだそうで、モンゴルでは子どもも水のように飲むとのこと、どうも酒飲みの対象とはならないようである。
 となると搾乳馬として残すのも無理のようである。

 役用ではすでにだめ、肉用、乳用でも馬は使えないとなれば、残るのは競争用だ。競馬を盛んにして、つまり軽種馬の生産で、日本に馬産を残すより他ないということになる。現に競馬で馬産地として生き延びてきたところがある。
 しかし本当にそれでいいのだろうか

(註)
1.運搬用の馬と馬車については本稿の下記掲載記事で詳しく述べているので参照されたい。
  12年5月18日掲載・本稿第四部「☆戦前戦後の大八車、牛馬車」(3~7段落)
2.作詞:久保井信夫 作曲:新城正一 1939(昭和14)年
3.11年2月23日掲載・本稿第一部「☆新制中学への通学と叩き売り」(4段落)参照

4.この南部鉄道と並行して、五戸の北に位置するやはりこの地域の中核の町三本木(現十和田市)とその東に位置する古間木(現三沢市・東北線三沢駅)とを結ぶ十和田観光電鉄が走っていた。なぜこの2本が並行して走っていたのかわからないが、五戸と三本木を電車でつなげば南部鉄道、十和田観光電鉄、東北本線とつながって尻内、古間木を結んだ四角形の線路ができる。そうなったらおもしろいのになどと「鉄ちゃん」だった私は考えたものだったが、南部鉄道は私たちの調査が終わってすぐの1968年十勝沖地震で被害を受けそのまま廃線、その後何とかがんばった十和田観光電鉄もとうとう2012年廃止となってしまい、私の夢はまさに夢物語となってしまった。
5.12年3月7日掲載・本稿第三部「☆北の人は無口?」(3段落)参照
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR