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子どもの遊び(6)

  

              ☆のらくろ・活動写真・石盤

 農作業の手伝いのために学校を休ませる、多くの親たちは学校をその程度に位置づけていた。農家の子どもに教育など必要ないと考えるものも多かった。下手に知識を与えると理屈ばっかり達者になって働かなくなったり、都市に出て行ってしまったりする、勉強などは百姓にとってはじゃまだというものすらいた。勉強する必要はないのだから、教科書以外の本は買ってもらえなかった。そもそも本など買う余裕はなかった。借りて本を読んでいると、そんな暇があるなら手伝えと怒られた。
 それでも子どもたちは遊んだ。貧乏でも遊びはできたからだ。親も手伝いが必要なとき以外は何も言わずに遊ばせた。
 私も幼少年時代はともかく遊び呆けた。勉強などほとんどしなかった。宿題はあったが、遊んでいるうちに忘れてしまい、よく先生に怒られ、親からも叱られた。
 できないのは読書だった。本がなかったからである。

 私が勤めてから数年後の一九六七年のことである。新聞広告で「のらくろ」と「冒険ダン吉」の漫画全集の復刻版が出版されることを知った。すぐに注文した。当時の私の給料からするとべらぼうに高く、しかも学問以外の本なので気が引けたが、家内に頼んで買わせてもらった。小さい頃の欲求不満からどうしても欲しかったのである。
 「のらくろ」と「冒険ダン吉」は、一九三一~四〇(昭和六~十五)年ころまで『少年倶楽部』(講談社発行)という雑誌に連載されたものである。
 しかし、この少年倶楽部は私の家にはなかった。父が本好きのため私はある程度本を買ってもらったが、こうした連載のある少年倶楽部が発刊されていたのは私が小学校に入る前なので、それを買ってもらえなかったのである。しかも小学校に入った一九四二年頃は太平洋戦争が激しくなる一方だったので、出版事情は悪く、買おうにも本屋に本がなかった。古い少年倶楽部の表紙に「付録」と書いてあっても私にはそれが何のことだか最初はわからなかった。本におまけをつけるなどということは考えられないもの不足時代になっており、懸賞や投稿で賞品がもらえるなどと書いてあるのを見てうらやましく思うような時代になっていたのである。
 とは言っても、本の少ない時代も悪いことではないとも思う。少ない本を何度も何度も繰り返し読むことになるからである。そして暗記してしまう。たとえば、小さい頃家にあった絵本の最初の頁の絵と次のような詩、よく父が幼い弟妹に読んでやっていたのだが、それをいまだに覚えているほどである(なお、当時の絵本の字はすべて片仮名だった。小学校に入ってまず習う字は片仮名で、国語の教科書は当然片仮名であり、一年の終わり頃になって始めて平仮名を習うものだったからである)。
   「ボクガアカチャン ダッタトキ
    ヨナキスルノデ カアサンガ
    クライヨミチヲ ダッコシテ
    ネンネンネンコロリヨ オコロリヨ
    ウタッテネカセテ クダサッタ
    ホントニヤサシイ オカアサン」
 もう一ついいことがある。多くの家が本を捨てないで大事に取っておいたことである。今と違って本が多くないから何年か前の雑誌であっても大事に保存していたのである。それで兄貴などのいる友人たちから古い少年倶楽部などの本を借りて読むことができた。
 問題は借りるさいの代償である。借りたら自分が貸さなければならないのである。子どもの間のルールは厳しい。ところがこちらには貸せる本がそれほどない。何とか借りてもすぐに返さなければならないので、繰り返し読み返すことができない。またあちらの友人から何年か前の雑誌を一冊、こちらの友人から別の年の雑誌一冊と借りるので、連続して読むこともできない。連載ものは飛び飛びとなる。前号を読んでいないので想像して読むより他ない連載ものもある。
 全部通して続けて読んで見たい。これが子どもの頃からの夢だった。それを半世紀過ぎてかなえることができたのである。一気に読んだ。いま考えてみると内容はひどいものである。「冒険ダン吉」などは、黒人はみんな真っ黒で誰が誰だかわからないからと背中に番号をつけてそれを名前にするなど、人種差別に満ちあふれており、侵略意識丸出しだ。考えてみれば他の連載小説も侵略戦争と尊皇攘夷の礼賛であった。それでもやはりあの当時はおもしろかった。
 少年倶楽部に連載されていた山中峯太郎の「見えない飛行機」、江戸川乱歩の「怪人二十面相」「少年探偵団」、吉川英治「神州天馬峡」「天兵童子」、高垣眸「怪傑黒頭巾」など、ハラハラドキドキ、血沸き肉躍る思いで読んだものだった。

 『少女倶楽部』という雑誌も借りて読んだ。吉屋信子などの少女小説に胸を傷め、蕗谷紅児や高畠華宵などの美少女のさし絵に胸をときめかした。『婦人倶楽部』、『講談倶楽部』、『家の光』などの大人の雑誌も読んだ。ともかく本を読みたかった。しかし本の少ない時代だったし、戦中の出版統制で本は出ない。だから小学二、三年のころは活字に飢えていた。家にある本、借りられる本、親戚などの家にある本は、子どもから大人の本まで何でも繰り返し繰り返し読んだ。幸いなことに大人の本にはルビ(ふりがな)が必ず振ってあり、わからない漢字があっても読むことはできた。意味がわからなくても読み進めているうち何とか内容を読みとれた。ともかく活字になっているものはあらゆるものを読んだ。新聞はもちろんのことである。よく乱読というが濫読という方が正しいだろう。
 あるとき父が私に言った。「そんなに本が好きだったら、本をとっておいてやるんだったな」と。文学青年だった父が本を買わなかったわけはないと思っていたが、買った本を読み終わると古本屋に持っていって売り、そのカネでまた本を買うという自転車操業をやっていたという。だから家には本はそんなになかったのである。

 子ども時代は本屋になって思いっきり本を読みたいとさえ考えた。そんな思いから、本はなかなか捨てられない。ましてや自分がいいと思った本は意図的に必ず残しておきたい。さらに漫画に対する子どもの時の思いから漫画の本も買い、それも残すことにしたい。それで、たとえば私の好きな松本清張、藤沢周平、山本周五郎、新田次郎、井上ひさしなどの本(ただし文庫本、最近では宮部みゆき、宇江佐真理など)はほとんど、それに白土三平「カムイ伝」、手塚治虫全集、藤子不二雄「ドラえもん」などを所蔵している。
 夏休みに来ていた当時小学五年の孫が「『のらくろ』ってどんな本なの」と突然私に聞く。家にある手塚治虫の漫画「三ツ目が通る」を読んでいたらそのなかに出てきたというのである。それで「のらくろ全集」を出してやった。孫はびっくりして、すぐに読み始めた。ついでに「冒険ダン吉」も読み、それにつられて小学二年の孫も読み出した。七十年前、読みたくとも読めなかった本を孫が読んでいるのを見て、何とも言いようのない不思議な思いがした。
 活字に、本に飢えていた子どものころのトラウマなのだろうか。孫から本が欲しいと言われるとすぐに買ってやりたくなる。マンガ雑誌まで買ってやるので家内から甘いとときどき怒られる。息子や娘が小さい頃もそうだった。そのときに買ってやった本が捨てられず、いまだに物置に入れてある。ある時そのなかの古い絵本をまだ幼かった孫に出してやったら、喜んでくりかえしくりかえし読んでいた。三十年も前のものでもやはり良い本は良いのだろう。とっておいてよかったと思った。そんなこともあって孫が幼いころ読んだ本も捨てられずにとってある。役に立つかどうかわからないのにである。この習性はおそらく死ぬまで治らないだろう。
 それでも私などは恵まれていた。ともかくいろいろな本を読むことができたからである。それは、端っこではあっても旧市内に私の家があり、本屋も近くにあり、まわりに本を持っている非農家が多くあったからだった。

 カツドウ(活動写真の略、いまの映画)も見ることができた。市内の歩いて三十分くらい(子どもの足で)のところに映画館が五つ、十五分くらいのところに演芸館一つあったからだ。
 三歳のころであろうか、父に連れられて夜映画を見に行った。時代劇だった。そのころは片目片腕の丹下左膳が子どもに大人気で、出てきた侍を見た私がまだ片目が切られていない丹下左膳なのかと父に聞いてまわりの人に笑われたのを覚えている。途中で寝てしまった。帰りに映画館の向かいにある梅月堂、当時の山形ではもっともしゃれた洋風レストランに入った。寝覚めの悪い私はきげんが悪く、父が何を注文してくれたのか忘れたが、ともかくぐずって食べなかった。それを見た店の人が塩をつけた小さいおにぎりを特別につくってくれた。それはそれはうまかった。きげんをなおしてまた父におんぶし、自転車で家に帰った。途中の道路の街灯は鈴蘭電灯でものすごく明るい。家の近くになると、街灯がなくなり、突然真っ暗になる。家々の明かりも少ない。懐中電灯だけがたよりで家に着く。その暗さが何ともさびしかった。
 もう一つカツドウについての思い出がある。小学校に入る前の年、高等小学校二年(今で言うと中学二年)だったM叔父に連れられて映画を見に行った。当時は映画が学校で禁止されていた。当然家でも許していない。だからこっそり見に行ったのである。M叔父はきつく私に言った、絶対にしゃべるなと。私もそれをまもろうと思った。夕方家に帰った。しかし映画を見たのがうれしくてうれしくてしようがない。ついつい映画の一場面をまねしてしまった。口を押さえてももう遅い。M叔父は祖父母に思いっきり怒られた。台所の暗い電灯の下で頭をたれながら怒られているマント姿のM叔父を見ながら、本当に悪いことをしたと自分のおしゃべりを自ら責めたものだった。
 純農村地帯ではそんなわけにはいかなかった。交通手段一つ考えても今のように簡単に町に行けなかった。経済的文化的な格差は大きかった。映画を見に行くどころか、ラジオのない農家、新聞をとれない農家が多かった。

 教科書や帳面、鉛筆、消しゴム等々、最低限の文房具は、どんな農家でも子どもに買い与えないわけにはいかなかった。ところがそれらの値段は高い。たとえばもっとも使うノートや鉛筆、今のように安く簡単に手に入れることなどできなかった。
 だから学校では石盤(せきばん・硯などをつくる粘板岩を長方形の薄い板に切ってその四方に木の枠をつけたもの)と石筆(せきひつ・石盤に文字や絵を書くのに用いる筆記用具。鉛筆程度の太さで長四角、固くてすべすべして白い。蝋石を加工したものとのこと)を買わせた。灰黒色の石盤に石筆で白く書き、要らなくなったら布で消すのである。要するに黒板と同じであり、何回も使える。だから文字の書き方や計算の練習などにはそれを使用させられた。こうしてノートや鉛筆の使用を減らそうとしたのである。この石盤はきわめて合理的であり、資源問題、環境問題解決の一助に、また今も粘板岩を素材に硯石を生産している南三陸の地域振興のために、石盤復活運動を興すべきではないかなどとときどき考える。
 鉛筆は手に持てなくなるくらいまで使い、さらにそのちびた鉛筆にアルミでできたサックをさして長くして手に持てるようにし、最後の最後まで使った。紙は真っ黒になるまで書きまくった。そのせいか、いまだにまだ書いてない部分が残っている紙はもったいなくてなかなか捨てられない。片面白紙の宣伝チラシでさえもったいないと思う。ともかく何でも節約して使った。

 この文房具のことで思い出すことがある。私の小学一、二年のとき、函館の親戚がノートや鉛筆等の文房具を時々送ってくれたことである。お茶屋をいとなんでいるのだが、戦時中で茶葉がそんなに手に入らなくなったので店の片隅で文房具も売るようになり、その売り物を送ってくれたのである。これはうれしかった。助かった。そのことを私が大人になってから函館の小父に話した。そしたらこんなことを言った。山形に来るといつも私の家に泊まるのだが、そのとき町場のサラリーマンの嫁になった私の伯母のところに挨拶にいく、そうするとお前のいとこたちはいろんなものを豊富に買ってもらっている、それにひきかえお前たちは本当にかわいそうだった、それで文房具を送ってやったのだと。同じ市内でも農家とサラリーマンの生活水準は本当に大きく違っていたのである。
 しかし、その贈り物も私が小学三年になつた一九四四(昭和十九)年には途絶えた。戦争の激化で送ることが非常に難しくなってきたのである。

 やがて、文房具が手に入らなくなってきた。戦争の末期には、ノートがない、鉛筆がない、消しゴムがない、画用紙やクレヨンなどましてやないという状況になった。節約しようにもそもそもものがないのである。何とか手に入ってもともかく質が悪い。鉛筆の芯は固くて薄くしか書けないので芯をなめてノートに書いたり(毒だからやめろと言われたが)、消しゴムはなかなか消えず、無理して消すとノートが真っ黒になるかそれでなくてさえ質の悪い紙が破ける。
 教科書も手に入らなくなった。兄や姉がいればそのお下がりをもらい、あるいは隣近所の上級生から譲ってもらうようにと学校から指示が出た。だから、教科書に落書きしたりすることは固く禁じられた。そのせいか、本に傍線を引いたり、書き入れたりすることは後々まで私はできなかった。
 雑誌や小説などの本はもちろんなくなってきた。戦争末期には新聞が半ページ一枚にさえなった。暗い暗い時代だった。

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コメント

[C7] こんにちは

読みやすく、とてもとても面白いです!
私は今30歳ですが、読んでいて目の前に
細かに情景が浮かんできます。
わくわくする文章をありがとうございます。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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