Entries

子どもの頃の皮革製品の記憶



               家畜の飼育と私たちの暮らし(21)

               ☆子どもの頃の皮革製品の記憶

 人間は、前回述べた家畜の羽、毛ばかりでなく、その皮革も利用してきたのだが、子どものころの私にとって革製品と言えばランドセルだった。新品もしくはお下がりのランドセルを背負って小学校(当時は国民学校初等科と呼ぶようになっていたが)に通うのが町場の子どもにとって普通になっていたのである。実際に私はランドセルを背負って学校に行った。
 しかしどんなランドセルだったか、どんな色をしていたのか思い出せない。ましてや何革でできていたかわからない。いつごろまで背負っていたのかも思い出せない。3年生までは間違いなくランドセルを背負って通っていたことはわかる。学校からの帰りに生家の門の前で叔父や弟妹といっしょに撮ってもらった写真に、学生帽をかぶり、学生服を着てランドセルを背負い、草履袋をぶら下げている私の姿が写っているからである。また写真に写っている背負いベルトの色からしてランドセルの色は黒だったようである。

 ここまで書いてちょっと気になった。当時の農村部の子どもの多くはまだ着物を着て学校に通っていたはず、洋服を着てランドセルを背負っていたのは地主や給料取りの家の子どもだけだったはずだが、本来もっとも印象に残るべき自分のランドセルの色さえ忘れてしまった今日このごろ、本当にそうだったのだろうかと不安になったのである。そこでこのことを確かめようと、高校・大学と私の同期で医師をしているAH君(前にも本稿に登場してもらっている)に聞いてみることにした。彼の生家は山形市の中心部から西北に10㌔くらいのところにある純農村(当時のこと、今は合併して山形市になっている)だったからである。彼の返事はこうだった。
  「小学校を通してランドセルを使ったことはなく、肩に掛けて使う雑嚢(註1)だった。そもそも小学生のころは着物が多かった。でも洋服も浸透しつつあり、春から秋にかけては男子はみんな洋服、女子は1割位着物だった。でも、冬は女子は着物が多く、男子も2~3割は着物、自分も確か小学5年まで着物だった」
 県庁所在地の都市からわずか10㌔しか離れておらず、内陸と庄内を結ぶ街道、かつての主要道路が通り、舟運でも栄えた地域であったのにこのような経済、情報、文化等の面での地域格差があったのである。ましてや山村に行けば教科書などを入れた風呂敷を背負って学校に通っていた。
 もちろん町場のなかにも大きな経済的な格差はあった。でも農家の子どもも貧乏人の子どももみんなランドセルを背負って洋服で通っていた。洋服、ランドセルが普通になってくるなかで、町場の農家も貧乏な家も子どもにはいやな思いをさせたくないと無理して買いあるいはお下がりをもらって子どもを学校にやったのだろう。
 このように当時ランドセルは貴重品だった。にもかかわらず、しかも新入生としてもっとも印象に残っていいはずなのに忘れていたこの私、どうしてなのかわからないが、まさに親不孝、祖父母不孝、申し訳ないとまた自己批判している。

 それはそれとして、小学4年(昭和20年)以降はランドセルの記憶はさらに一切ない。戦争が激しくなって疎開をしなければならなくなり、救急袋と防空頭巾をたすきにかけて通ったことは覚えているのに、そのときいっしょに背負っていたはずのランドセルが思い出せない。
 敗戦の翌年の5年生のときには教科書もノートもなく、だからランドセルなど不必要だったはず、そういえば風呂敷に弁当と何かを包んで学校に通った記憶もあり、もしかしたらランドセルを背負っていかなかったのかもしれない。
 そもそもランドセルはもう小さくなっており、そのころには弟にお下がりで譲っていたのかもしれない。だからといって戦後の混乱期、物資不足でランドセルの新品など手に入るわけはない。それでは何に教科書を入れて学校に通ったのか、まったく記憶がない。
 中学に入ったときは男子は全員白い布製の肩掛けカバン、したがってこの時期からランドセルは完全に私の脳裏から消えている。

 ランドセル以外に子どもの頃どんな皮革を使ったろうかと考えたら、ズボンのベルト(私たちはバンドと呼んでいた)があった。たまにズボン吊りをすることもあったが、普通はベルトだった。しかし、これもどんなベルトだったか、何の革だったのかなどまったく関心がなかったので覚えていない。
 戦争が激しくなるなかでそのうちまともな革製のベルトなど手に入らなくなってきた。でも、ベルトの代わりに紐などを使った記憶はない。ただ、敗戦の翌年、なめしただけの黄色い柔らかい皮(何の皮だかわからない)を適当に細く切っただけのまともな形をしていないベルトを使ったことははっきり覚えている。ベルトのバックルの留め金を入れる穴もあいておらず焼き火箸で適当に穴をあけ、そこに留め金を入れて使っていた。
 何でそれをはっきり覚えているかというと、いつも留め金で止めた後残ったバンドの先をズボンの前にぶらんとぶらさげていて、だらしがないと祖母によく怒られたものだったからである。ズボンのベルト通し穴にベルトを一々入れるのがめんどうだったからか、忘れてしまうだけだったのか、ともかくルーズなその私の姿も写真に残っている。
 やがてそのベルトはぼろになり、新しいベルトをしたはずなのだが、それ以降ベルトについては記憶がない。

 宮城県南の小さな町で育った家内が小学校に入る前に祖父母に連れられて東京の叔父の家に行った、そのとき着物を着て下駄を履いて行ったらみっともないといとこの洋服に着替えさせられたという話を前に書いた(註2)が、そのときに革靴も履かせられ、それと洋服をもらって帰ってきたという。
 そうなのである、そのころ子どもが革靴を履くなどということはなかった。大人もそうだった。ましてや近所の農家で靴を持っているものなど一人もいなかつた。私の家でも両親、祖父母は革靴を持っていなかった。都市部にある私の生家の地域でさえ革靴を履くのは高級サラリーマンだけだった。子どもで革靴を履いているのは町場の金持ちの子どもだけだった。私の近所でいうと小地主の息子だった私の同級生だけが革靴を持っていた。
 でも、私も持っていたのではなかったろうか。さきほどの家内の話を聞いたときふと思い出したのである。私の就学前年の夏、祖父母に連れられて函館の親戚に行ったとき(註3)革靴を買ってもらって履いていったのではなかったかということである。小さくなって履けなくなったその革靴がそのまま下駄箱のところにその後いつまでもおいてあったことが記憶の片隅からうっすらと出てきたのである。でも履いたのはそのときだけ、後は下駄とズックだった。みんなそうだった(註4)。
 でも、革靴の歌はみんな歌っていた。
   「お手(てて)つないで 野道を行けば
   みんなかわい 小鳥になって
   歌をうたえば 靴が鳴る
   晴れたみ空に 靴が鳴る」(註5)
 大正時代の歌だったのだが、明るく調子もよく歌いやすかったからだろうか、私たちの子どもの頃はよくこれを歌いながら歩いたものだった。
 でも、靴は鳴らなかった。みんなの履いている靴、つまりズックや長靴では鳴らないからである。ついでにいえば、普通の道ではたとえ革靴を履いていても靴は鳴らない。コンクリートやアスファルトの舗装道路を歩けば靴は鳴るが、未舗装の土の道では靴はならない。この歌はまさに舗装道路のある大都市の唄だった。ただし下駄は野道でも鳴る。舗装道路ならましてや鳴る。普通は下駄を履いていて音が鳴るからかどうかわからないが、みんな何の疑問も感じずにこの『靴が鳴る』を歌って歩き、退屈するとその替え歌を大声で歌った。
  「おててんぷらつないでぶちゃん のみちをゆけばんちゃん
   みんなんばん からくてかんない
   ずんつぁんばんちゃん へこたっだ
   はれたみそらに へこたっだ」(註6)
 そしてみんなで腹をかかえて笑い、また元気になって歩き出したものだった。

 このように革靴に縁がないにもかかわらず、私たちは革靴はよく見ていた。市内に陸軍の連隊の兵舎があり、軍靴を履いて歩く兵士の姿をよく見かけたし、ザックザックと軍靴を鳴らしながら行進して歩く姿を見ていたからである。兵隊さんたちは、編上げの頑丈そうな大きい靴の上の脚にはゲートル(巻き脚絆)を巻いて、重そうに歩いていた。
 やがて戦争が激しくなるとこの編上げ靴とゲートルは中学生(旧制)の制服の一部となり、さらにカーキ色の国民服とともに銃後の大人みんなが身に付けるものとされるようになった。中学生だった叔父も毎日ゲートルを巻いて学校にいくようになり、私たちの小学校(国民学校)でも上級生がそうするようになったが、靴は革靴ではなく編上げのズックだった。
 何の時だったか記憶にないが、私たち低学年の生徒もゲートルを巻いて来いと言われ、朝苦労してゲートル巻きをしたことがある。と言ってもゲートルとは何かわからない方もいるかもしれないが、幅数㌢の長い布の帯で、長ズボンの上に足首からぐるぐる巻いていって膝のあたりで止めるというものである。しかしなかなかきちんときつく巻けず、かなり苦労したことを覚えている。

 そのうち疎開騒ぎなどでそれどころではなくなってきた。さらに敗戦、戦後の混乱、私たち子どもと革製品の縁などはまったくなくなった。
 にもかかわらず、革靴は敗戦直後の私に強いインパクトを与えた。自分がまたまわりの人が履いていた、履くようになったからではなく、子どもの「靴磨き」の存在からだった。
 そこで次回はこの靴磨きなど戦後の革靴に関連することについて述べてみたい。

 もうすぐ4月、ピッカピカのランドセルを背負った1年生が私の家の前を通って学校に通う日が近い。昨年の秋量販店に行ったら色とりどりのランドセル(註7)がいっぱい並んでいた(私たちの頃は男は黒、女は赤しかなかったと家内は言う)が、その価格の高さに驚いた。もちろん安いのもあることはあった、片隅にだったが。それを見たときついついこんなことを考えてしまった、何でこんなに高くするのだろうか(親心、孫思いを利用してだろうが)、いずれにせよ子どもたちみんなが差別なく新品の好きなランドセルを買ってもらって(おさがりでいいというなら誉めてあげて)、喜んで学校に行けるようにしてやりたいものだと。

(註)
1.肩から掛ける布製のかばんのこと。
2.11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」(1段落)参照
3.11年1月12日掲載・本稿第一部「☆閉ざされた社会」(1段落)参照
4.戦前から戦後にかけての履物については本稿の下記掲載記事でも触れている。
  11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」(4段落)、
  12年8月3日掲載・本稿第四部「☆生きる知恵はどこへ」(1段落)、
  13年12月16日掲載・本稿第六部「☆ズック、下駄、着物姿」(1~5段落)
5.『靴が鳴る』 作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎 文部省唱歌 1919(大8)年

6.山形語での替え歌なので、わからない言葉があるかもしれない。そこでわからないだろうと思う言葉を共通語に翻訳しておく。なお、最後のところは元歌とメロディが若干異なっている。
  ばんちゃん=おばあちゃん
  なんばん=南蛮
  かんない=食えない
  ずんつぁん=おじいちゃん
  へこたっだ=屁をたれた
7.最近は人工皮革製が主流だそうである。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR