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靴磨き、靴屋・靴店、牛豚革




                家畜の飼育と私たちの暮らし(22)

                ☆靴磨き、靴屋・靴店、牛豚革

 前にも述べたように山形は大きな空襲を受けなかった(註1)。だから、空襲でいかにひどい被害を受けたかをまともに見たのは戦後、新聞の写真やニュース映画でだった。そのなかに東京など戦災を受けた大都市の駅前や闇市の道路に靴磨きがずらりと並んでいる光景があった。子どももいれば大人もいた。子どもは戦災孤児(註2)であり、大人は失業者だった。靴磨きは、靴墨とブラシ、布、ミカン箱さえあれば資金もなしで手っ取り早く金を稼ぐことができたので、まともに住むところも食べ物もなくて焼け跡の町をさまよっていた戦災孤児、職がなくて困っていた大人たちが、自分の仕事にしたのである。そして人通りの多い道路の脇に座って通行人の靴を磨いて金をもらい、その日の食い扶持を稼ごうとした。
 戦後最初の頃見たのはアメリカ兵の客が靴を磨かせている写真だった。アメリカ兵が日本人に金を与えて靴を磨かせる、勝利者の前に日本人が跪いて靴を磨く、何か心にひっかかったが、これも食うためにはやむを得ないこと、これが敗北者の姿なのだと思うしかなかった。もちろん客はアメリカ兵ばかりではなく、日本人もいた。闇屋などして金をもうけ、それで革靴を履くことができ、また磨かせることができる人がいたのだろう。子ども心にそんなことを考えていた。
 やがてアメリカ兵の客が少なくなり、日本人の客が多くなってきた。一方で戦後すぐ大量に進駐してきたアメリカ兵が本国に徐々に引き上げ、他方で戦後の混乱の解消のなかで革靴を履ける日本人が増えてきたせいかもしれない。
 それにしても私にはなぜ日本人が同じ日本人の靴磨きに靴を磨かせるのかがわからなかった。自分でやればいいではないか。
 でも、当時は未舗装の道路が大半、埃や泥で靴がすぐに汚れる、それで磨いてもらったのかもしれない。靴磨きの人たちが食べていくためには磨いてもらう人がいなければ困るだろうから、戦災孤児や失業者が気の毒だからと磨いてもらつているのかもしれない。それにしても、座っている人の前に立ってあるいは腰掛に座って足を靴を目の前に差し出し、頭を下げさせて磨かせる、それを何とも思わないのだろうか。磨かせる人たちの気持ちがどうしても私にはわからなかった。それで、他人はどうあれ私は大人になっても絶対にああいうことはすまいと心に決めたものだった。

 戦後の混乱が少し治まったころの1951年、暁テル子(註3)という歌手が『東京シューシャインボーイ』(註4)という歌を歌った。
   「サーサ皆さん 東京名物
   とってもシックな 靴みがき
   鳥打帽子に 胸当てズボンの
   東京 シューシャインボーイ
   ………中略………
   シュシュ シュシュ シュ
   愉快な 靴みがき」
 歌は明るかった。靴磨きの子どももシューシャインボーイと英語で言うと何となくかっこよく、明るいイメージを持たせるものだった。もちろん現実は厳しかった。にもかかわらずなぜこんな明るい歌がつくられたのか、そして流行ったのかよくわからない。しかしそのころは敗戦直後の暗い雰囲気は徐々に解消しつつあり、かつての靴磨きの暗いイメージはなくなっていた。また靴磨きの姿は徐々に減っていた。もちろん幼い子どもが靴磨きをしている姿などは見られなくなっていた。一方、そのころは靴屋さんも復活し、革靴を履く人も増えていた。
 この歌はこうした明るさの反映だったのだろう。同時にこの歌は世の雰囲気を明るくするのに寄与したのではなかろうか。

 1954年、私も子どもから脱却して仙台の大学に入り、前に述べたように革靴を履くようになった(註5)。同級生もみんな革靴を履いていた。
 戦後の復興がかなり進んだ頃だったが、仙台には戦災の焼け跡がまだかなり残っており、仙台駅前などには靴磨きの人もいた(子どもはいなかったが)。そして同級生のなかに靴を磨いてもらったというものもいた。しかし、私はいかに靴が汚れていても靴磨きのお世話には一度もならなかった。子どものころの決心があったからである。
 そういうとかなり立派に思えるが、それは私が靴の汚れを気にしない人間だからだろうと家内はいう。たしかに靴はもちろん衣類に関してもほとんど無関心、着るもの 履くものを気にしない。破れたり、汚れがあまりにもひどかったりしたらさすがに気にするが、家内のいうままにしているだけである。それでよく家内から靴が汚れていると怒られた、「足許を見られるよ、自分できちんと気を付けなさい」と(今になってもそう言われるのだが、すでにけっこうな年齢、見られてももういいだろう)。
 1960年ころからではなかったろうか、靴磨きの数は激減した。もう一方で小さな靴屋さんが町の中にたくさんできた。革靴をみんなが履ける時代、履く時代になってきたのである。かわりに下駄・足駄が、草履・草鞋が見られない時代になってしまった。私も下駄を履いて大学に行ったり、町に出かけたりしなくなった。コンクリートのビルができ、道路が舗装になるなかで、下駄を履いて歩くと音がうるさく響いて迷惑をかけるので、自分の家の周囲以外履いて歩くわけにはいかなくなったからである。

 靴屋さんといえば、私の勤務している農学部のキャンパスに週に3日通ってきて(他の日は自宅で)靴を修理したりつくったりしてくれる職人さんがいた。職員の休憩室の出入り口のわきにある修理ができる程度の狭い場所にいつも座って仕事をしていた。靴を並べて売っているわけではなく、修理や製造を行うだけだからそこで十分だった。職員や学生の利便を図るためということで学部から許可を得ていた。農学部ばかりでなく他の学部のキャンパスにもこうした靴屋さんがいた。
 私たちには便利だった。よくやってもらうのが靴底への鋲打ちである。長い間履いていると靴の底が擦り切れてくるので、それを防ぐためということで底にいくつかの鋲を打ってもらうのである。それでも靴底は擦り切れて穴があきそうになる、そうなったら張り替えてもらう。さらに自分の足の形に合わせて革靴をつくってもらう。私もよく靴を新調してもらった。私の足の形は不恰好、ちょっと変わっていて既製品の靴では靴擦れ等で困るので、注文してつくってもらうことにしたのである。靴屋さんのところに行くと、皮を切ったり張ったり、とんとん叩いたり、いつも仕事をしていたからそれなりの注文があったのだろう。
 それがいつ頃からだったろうか、靴屋さんは来なくなった。何で来なくなったのか、その後靴屋さんはどうしたのか、当時聞いていたはずなのにまったく覚えていない (靴屋さんが学部内にいたことも本稿を書いていて思い出したもので今の今までまったく忘れていた、後輩のKT君に聞いたらやめたのは70年ころ、廃業して別の職についたのではなかったかとのことである)。
 そんなことからだったろう、家内の知り合いの近所の靴屋さんに頼んで革靴をつくってもらうようになった。70年代後半ころは町のあちこちに小さな靴屋さんができていた。もちろん八百屋や魚屋さんなどの数には及ばないが。店頭の棚には自分の店でつくった革靴やどこからか仕入れたズックやサンダルなどの履物を並べ、店の奥に修理や製造をする小さな作業場があってご主人がいつもそこに座って仕事をしていた。

 90年代に入ったころからではなかったかと思うのだが、こうした小さな靴屋さんがなくなっていった。私が頼んでいた靴屋さんも高齢化で店を閉じてしまった。
 そのころから家内は私を町中心部の大きな靴店に連れて行くようになった。さまざまな種類の既製の靴があり、私の不恰好な足にもあうものがあるというのである。たしかに大小、長短、幅、スタイル、値段等々まさに多種多様、そのなかにはぴったりしたもの、気に入るようなものが大体ある。なければ次の店に入る。全国チェーン店、量販店にいけばさらにたくさんの靴が並んでいる。こうして2~3店回ればそれなりにいいもの、気に入ったものが安く手に入る。
 これでは靴を作ってもらう人は少なくなり、靴を修理する人も少なくなり、昔ながらの小さな靴屋さんなど流行らなくなるわけだ。

 靴屋さん、私たちは必ず「さん」をつけて呼んだ。靴屋には人間が、職人がいたからなのだろう。また靴屋さんの多くは靴を並べて売る店舗と仕事をする場所、その家族が住む家屋とが一体となっていた。だから「靴店」ではなく「靴屋」さんだった。靴屋さん、この言葉には人間がいた、親しみがこもっていた。しかし今はこうした靴屋さんはなくなり、工場や外国でつくられた靴をたくさんそろえて売るだけの「靴店」になってしまった。
 手工業と小売業を兼ね、住居と店舗といっしょになっていた靴屋さんは、下駄をつくって売り、修理もした下駄屋さん、衣服の仕立て屋さん、米を搗いていろんな品種や産地の米を自分なりの味に混ぜて売った米屋さんなどと同じように、消えゆく運命をたどったのである。
 そして、革靴は機械で大量生産される時代、中国を中心とする外国から安く輸入されてくる時代、既製品の時代、それに対応して量販店、全国チェーン店が支配する時代になってきた。
 悲しいかな、私もそれに慣れてしまった。もちろん注文で靴をつくってくれる店もあるようだが、かなり高価らしい。今は贅沢品、もうわれわれのような貧乏人が手に入れるのは難しいようだ。そうすると、その昔手作りのオーダーメードの靴を履いていた私たちは、貧乏人だったにもかかわらず、かなりの贅沢をしていたことになる(もちろんめったに買えず、使い捨てなどできず、修理しながら長い間使ったものだったが)。

 さて、話は変わるが、大学に入るときに革靴といっしょに通学用の牛革のカバン(手提げ式のいわゆる学生カバン)を買ってもらった。
 当然のことながら勤めてからもカバンにはお世話になった。にもかかわらずあまり大事に扱わなかった。
 前にも述べたように私は自転車通勤、そのさいカバンを自転車の前に取り付けた金属製の籠に入れる。その籠は細い金属製の棒を縦横に組み立てて作られているが、毎日の朝晩の通勤でカバンがその籠のなかで揺られているうちに、金棒に合わせてカバンの両脇の縦横に白く傷がつき、さらにカバンの底の縫い目とくにその四隅が傷んでくる。それが年を重ねるにしたがってひどくなる。すると家内が革細工の塗料を塗って直してくれるが、やがてみっともないから買い換えようと言い始める。でも私はそれほど気にならないし、もったいないし、愛着もあるし、いやだという。そうしたやりとりが何回かあった後とうとう新品を買うことになってしまう。こんなことでいくつカバンを廃棄したことだろうか。今でもカバンさんに申し訳ないことをしたと思っている。
 いつのころからだったろうか、なぜだったろうか、手提げカバンはショルダーバッグに変わった。手で持てるばかりでなく肩にかけることもでき(そうすると両手は自由になる)、非常に便利だった。しかも手提げ式のカバンよりも安価、自転車のかごで傷ついてもそれほどみっともなくないし、買い換えもそれほど気にならない。それでこの形式のカバンで定年まで過ごすことになった。
 この定年のときに使っていたバッグ、今も残っているが、それにたくさん入れて出かけなければならないところもなくなってもう使わなくなった。でも捨てられず、机の脇で眠っている。

 こうした靴、カバン、それに財布、名刺入れ、ベルト等々の革製品の買い物、この決定権は家内にある。当然のことながら何の皮革を使っているのかなど、私はまったく関心はない。ただ、家内がよく牛革と言っているのでそれだろうと思っているが、いずれにせよ牛にはかなりお世話になってきたはずである。日本人の多くもそうだろうと思う。
 ここでちょっと疑問が出てきた。こうした牛革は国産なのかどうなのかである。あれだけの頭数の牛が飼育されているのだから相当の皮革が出るはずである。にもかかわらず、革靴が外国から輸入されるようになっていると聞いている。となると、日本の牛の皮革はどうなっているのだろうか。輸入に圧されて使われず、もしかして廃棄物になったりしていないだろうか。
 心配になって畜産研究者のKT君に聞いてみたら、幸いなことに、廃棄物にはなっていないようだ。ただし革靴には利用されていないとのことだ。日本の牛の皮は薄くて固くて処理しにくく、革靴は品質が悪いのだそうである。ちょっとがっかりである。でも自動車の装飾用として利用されているらしい。国産だけでは足りなくてアメリカ等から大量に輸入しているとのことである。牛が食用ばかりでなく靴用、自動車用としても輸入されているとのこと、さすが輸入大国の日本、などと感心しているわけにはいかない、改めてこうしたことに関心をもつ必要があろう(これは自戒の意もこめて言っているのだが)。

 ところで、牛と並んで多く飼育している豚、当然皮革を大量に生産しているわけだが、その利用はどうなっているのだろうか。
 実は豚革について考えたことはまったくなく、ほとんど知識がない。これも問題なのだが、今からでも遅くない、勉強しようとパソコンで検索してみた。それによると(註6)、豚革はその軽さと通気の良さ、摩擦に対する強さなどから財布、鞄、コート、手袋、靴の内張り革など広く用いられているとのことである。日本では牛革よりも見下ろされているが、高級ブランドなどでも使われているとのこと、豚革と知らないで使っている場合もあるようである。
 ところでこの豚革も牛革と同じように輸入が多いのだろうか。と思ったら何と、国内で自給しており、輸出もしているとのことである。考えて見れば豚は外国の餌と日本の水でつくられたもの、にもかかわらず肉も糞尿も外国に返していないのだから、せめて皮の一部だけでも外国に返す、これもまあいいではないか、などと考えてしまう。

 牛豚以外に馬、山羊、羊等の皮革も人間は利用している。また皮革は今まで述べた以外にもさまざまな用途に使われている。パッキンなどの生産資材、野球のグラブなどのスポーツ用品、太鼓などの楽器等々、身の回りにたくさんあり、皮製品だと言うことを忘れて、気が付かないで利用しているのも数多くある。合成皮革、人造皮革等々に代替されているとは言っても、すべて代替できているわけではないのである。

 家畜と言うと私たちは肉、乳、卵など食用という面からだけ考えてしまい、皮革や羽毛でお世話になっていることを忘れてしまいがちだが、人間が家畜の飼育を始めて以来これまでこうしたことでもお世話になってきた。そしてこれからもお世話にならなければならないだろう。こうした面からも家畜にもっと関心をもち、また感謝の念をもち、革製品、羽毛製品をもっと大事に使っていく必要があるのではなかろうか。

(註)
1.11年2月10日掲載・本稿第一部「☆空襲に遭った日」参照
2.言うまでもないことだろうが、戦争で両親など保護者をまた家を失った子どものこと。浮浪児とも呼ばれていた。このことについては前に下記の掲載記事で若干だが触れている。
 11年2月15日掲載・本稿第一部「☆『残留』孤児と沖縄」(2段落)、
 12年9月10日掲載・本稿第四部「☆戦前の乞食と現代のホームレス」(6段落)
3.当時の暗い雰囲気を吹き飛ばしてくれるような明るい歌声を響かせてくれた歌手で、前に取り上げた『ミネソタの卵売り』も彼女が歌ったものである。
4.作詩:井田誠一 作曲:佐野鋤  1951(昭26)年
5.12年4月27日掲載・本稿第四部「☆むらで言う『隣り』は遠かった」(2段落)参照
6.「豚革(ピッグスキン) 皮革の種類と特徴」www.leather-navi.com/syurui/pig.html

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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