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犬猫と愛玩畜



               家畜の飼育と私たちの暮らし(23)

                   ☆犬猫と愛玩畜

 皮革、毛皮といえば犬、猫のそれもあった。たとえば三味線の胴にはその皮が用いられている。またその昔は毛皮を衣服に使用したとのことである。さらにその肉も食べたらしい。
 忘れていた、家畜に犬、猫がいた。日常的に身の回りにたくさんおり、私自身もかつては慣れ親しんできた。しかも、犬の場合などは家畜化された最古の動物とも言われている。そんなことからすると、最初に取り上げるべきものである。にもかかわらず失念していた。家畜と言うとついつい農家の飼育している役畜・用畜というように考えてしまっており、しかも最近の犬猫は愛玩用となっており、それで失念したのだろう。
 しかし、考えて見たら犬も猫もそもそもは食料・衣料等の生産に携わる役畜だった。
 犬についていうと、まず人間の必要とする野生動物の肉、毛皮等を獲得するために必要不可欠の獲物の発見、追跡、捕殺、探索等を補佐する仕事をさせるために、つまり狩猟犬として、人間が飼育してきた。また、住居や畜舎等への野獣や不審者の接近・侵入を防いで人間や家畜の身体・生命、食料・住居を守るための番犬としても人間は飼育してきた。さらに、我が国ではあまり見られなかったが、羊や山羊などの家畜の群れを動かして人間を助ける牧羊犬、そりを引っ張ったり、荷車を引くのを手伝ったりするそり犬・荷役犬などとしても飼育されてきた。
 また猫は、前にも述べたが、人間に不可欠の貯蔵穀物や家財を食い荒らし、また作物の根などを食い荒らす害獣のネズミを駆除するための重要な手段として飼育されてきた(註1)。
 まさに犬・猫は『役畜』=「そのもつ身体能力、運動能力を用いて人間に課せられた役務をさせることを目的として飼育されている家畜」だったのである。

 それだけではない、犬・猫は『用畜』=「人間に有用な資材を生産させることを目的として飼育されている家畜」でもあった。
 まずその毛皮を衣料として用いるために飼育された。とくに寒冷地ではその毛皮は必需品、それを得るために飼育された。
 同時に食肉用としても飼育された。「羊頭を掲げて狗肉を売る」、これは犬の肉は羊よりはまずいこと、だけど食べられるし、実際に食べていることを示している。日本でもその昔は食べていたらしい。それは仏教伝来にともなって出された肉食禁止令のなかに犬の肉が含まれていること、その後も何度かの禁令が出されていることからもわかる。しかし、例の生類憐れみの令などで特に犬が保護されたことでその後犬の肉は一般的な食材とみなされなくなったとのことである。しかしその食習慣は根強く残り、流通までしていたようである。しかし私は食べたことがない。

 戦後十年経ったころの私の学生時代、学生寮でこんなうわさがたつことがある。寮のまわりをうろうろしていた野良犬の姿が最近突然見えなくなった、誰か食べたのではなかろうかというのである。そういえば、寮の食堂の残飯を餌としてやって犬をなつかせていた奴らがいたが、ちょうど太ったころを見計らって彼らが食べたのではなかろうか、でもあの犬は毛の色からしてまずかったのではないか、一番肉がうまいのは赤犬だそうだ等々、そんなことで親しい連中と話が盛り上がったものだった。でも、それは話であって、まさかそんなことはしないだろうとは思う、しかしなにしろ食糧不足、価格高騰でみんな餓えていた時代、貧乏学生だったら腹を満たすためにやったかもしれない、そんなことでみんな半信半疑である。
 それに追い打ちをかけるように猫の肉を食べたことがあるかという話が出てくる。煮るとぶくぶく泡が立ってあまりうまくないそうだなどという。野良猫も食べられていたのかもしれない。
 こんなことからもわかるように、食糧難の第二次世界大戦後までは都会でけっこう食べられていたらしい。またそういう食習慣が昔からある地域が各地にあったという話も後で聞いた。
 でも今はそんな話をする人はいない。食べる人はいなくなったといっていい。もちろんその肉を売っている店など見たこともない。わが国では一般的には犬、猫の肉は食べられなくなったと言っていいであろう。また毛皮として使用している人もなくなっている。
 それは牛豚鶏肉、衣服や皮革などが豊富に供給されるようになったことから来ているものであり、それを決定的にしたのは後に述べるように犬猫の愛玩畜化によるものと思われる。
 そして用畜としての犬、猫の飼育はほとんどなくなってきた。
 役畜としての飼育も少なくなってきた。前にも述べたようにネズミ取りのために猫を飼育するなどという家はほとんどなくなり(註2)、狩猟犬、番犬としての飼育も少なくなっている。もちろん、犬は支援犬(盲導犬、聴導犬、介助犬、警察犬など)としての飼育が増えるなどしているが、数としては微々たるものである。

 にもかかわらず、犬猫の飼育は減らない。それどころか年々その飼育頭数は増え、21世紀には犬猫それぞれ一千万頭前後飼育されるようになったという。そしてそのほとんどが愛玩用としての飼育である。つまり犬猫は役畜・用畜から愛玩畜へと転化し、その結果として激増したのである。
 それは次のようなことからだろう。

 役畜であれ用畜であれ、家畜と言うものは可愛いものである。とくに可愛いのが子ども時代だ。子猫や子犬のじゃれる姿などはほほえましく、見ているだけで楽しくなり、後ろを一生懸命ついてくるヒヨコなどは本当にかわいい。こうした仔畜や小家畜をだっこすると心が和む。大家畜でも長い間飼育している間に人間になつき、人間にも愛情が湧いてくる。そして別れのさいには悲しいと言う感情、しばらくぶりで会った時にはうれしいという感情が家畜、人間双方に生まれたりもする。こうなると家畜も人間並み、ますます可愛くなる。
 いうまでもなくこうした感情は役畜・用畜としての飼育の過程で自然のうちに生まれるのであるが、とくに犬と猫は飼い主に非常になつきやすく、高い知能を有していて人間との意思や感情の伝達もかなりできることから、役畜・用畜としての役割がなくとも愛玩用として飼育するようになってきた。つまり犬猫は愛玩用家畜=『愛玩畜』=「身近においてかわいがったり、楽しんだり、心を和ませたりすることを目的として飼育されている家畜」ともなってきたのである。
 そして役畜・用畜としての犬猫の役割が決定的に少なくなり、経済的なゆとりが出てきた高度経済成長期ころから、犬猫は『愛玩畜』にほぼ完全に転化することになった、こういうことができるだろう(註3)。

 戦後、私の生家では猫を飼うようになった。これはネズミ対策のためだった(註4)。実際によくネズミを捕ってきた。本当に役に立った。おかげさまで天井裏で夜中ネズミが暴れて眠れないなどということもなくなったし、穀物や野菜の貯蔵にそれほど心配しなくともよくなった。やがてネズミはあまり見られなくなってきた。これは猫の活躍によるだけではない。家屋のつくりが違うようになり、都市化の進展で穀物を貯蔵する農家が少なくなってネズミの餌が少なくなるなどが原因ではなかったろうか。
 それでもネコはそのまま何世代かにわたって飼育された。ネズミ取りのための役畜というより弟妹達の愛玩畜になっていた。しかしみんな大きくなった60年代後半には飼わなくなった。

 私が中学に入った年、父が知人から子犬をもらってきた。当時はまだ物騒な頃、番犬としての意味もあったろうが、私たち兄弟の情操教育用としてもらってきてくれたのだろうと思う。名前は平和=ピースを変形させてペスとつけた。このころは放し飼いだった。それで自由に遊べた。かわりにというわけではないが、4年目に交通事故で死んでしまった。
 私の子どもが幼いころ、家内が子犬をもらってきた。コロと名付けたが、子どもたちのいい遊び相手になってくれた。犬は家族の序列がわかるというが、子どもたちは思い出してよく笑う、私は主人とわかり尊敬し、上の子は同列の友だち、下の子は自分より下位と見、家内の前では尻尾をまく、一番こわかったのだろうと。可愛そうだったのは、大きくなったら放し飼いできなくなり、自由が制限されるようになったことだ。7年目、病気で死んだ。
 ペスが死んだとき、中学生だった私は泣いた。コロが死んだとき、中高生の子どもたちは泣いた。家の外で飼っていても、立場は違っても、子どもにとっては家族未満家畜以上の存在だった。
 だから私は犬猫を、愛玩畜を飼いたくない。自由を制限した上に死ぬときはこちらが悲しまなければならない、それがいやだからだ。
 それでも私の家ではヒヨコを飼ったことがある。このことについては前に書いたが(註5)、成鶏になって処分しなければならなくなったとき、潰してわが家で食べようといったら子どもたちに猛反対された。鶏肉を食べているのに、自分の飼っていた鶏は肉にしたくない、食べたくないというのは矛盾しているのだが、子どもたちは用畜として飼育したのでなく、愛玩畜として飼育したからなのだろう。
 犬猫については食習慣がないからなおのこと拒否反応がある。私も犬、猫をあまり食べたいとは思わない。ましてや猫、化けて出られたりしたら困る。
 だからといって、他の人に食べるな食べてはならないなどというつもりはない。犬食・猫食に対する反対運動を起こしている団体等があるとの話を聞いたことがあるが、私はそれには賛成しかねる。これは歴史的に形成された食の文化の問題であり、自分たちが食べないから、タブーにしているからと他人に他国に禁止を押し付けようとするのはいかがなものかと思う。牛豚は食べてよいが犬猫を食べてはならないと言う論理が私にはわからない。いや愛玩動物は違う、可愛いもの、可愛いがるものだから食べるべきではない、こういう人がいるかもしれないが、それもおかしい。牛だって馬だって豚だってみんな可愛いい。そしたらそういう家畜も食べるべきではないということになる。どちらが倫理的かなどと言えるわけもない。衛生上の問題とか絶滅危惧種とか何か理由があれば別だが。
 自分は食べないし、食べるべきでないと思うから他人も食べるなというのはおかしい。いやだと思う人は食べなければいいし、他人が食べるのを見なければいい。逆に、自分たちは食べているのにお前らが食べないのはおかしい、文化が遅れている、お前らも食べるべきだなどと言うのもおかしい。
 これは犬猫の毛皮についても同じだ。それを使う使わないにはそれなりの理由があるのである。
 にもかかわらず、自分たちの文化は優れている、しかし他国、他民族、他宗教の文化は野蛮であり、倫理的に劣っているとして批判するものがいる。こうした自文化中心主義には本当に腹が立つ。国により、地域により、宗教により食べたり食べなかったり、着たり着なかったりする、こうした衣食の文化、倫理の生成には地域性が影響している等それなりに理由があるはずであり、何百あるいは何万年にわたって歴史的に蓄積継承されてきたものなのである。もちろん、自然のうちに消えていくならそれはそれでいい。たとえば、もっとうまい肉がある、それに切り換えようとしてこれまでのある動物の肉を食べる習慣が廃れること、これはあってもいい。しかしそれを力でもって、自文化優越主義で抑える、消し去ろうとするのは許せない。地域により民族により独特の文化があっていいではないか。
 捕鯨反対・イルカ漁反対運動などのニュースを聞くたび本当に腹が立つ(註5)。

 さて、話をもとに戻そう。
 犬猫を始め愛玩動物の飼育が増えてきた、このことは喜ばしいことである。食うや食わずのときに愛玩動物を飼うなどと言う経済的心理的余裕はないはずであり、それが飼えるということはそれだけゆとりのある社会、平和な社会になってきたことを意味するものだからである。とくに大都市部のように家畜をはじめとする動物との付き合いのない生活、つまり人間らしい暮らしを送れなくなっているときに、これは望ましいことである。とくに子どもにとって喜ばしい。
 しかし、と考えてしまう、今の犬猫飼育の増加は人間同士の付き合いの減少、社会のゆがみの反映でもあるのではなかろうか。家族や友人など身近にいてお互いにいたわり合ったり、いっしょに楽しんだり、心を和ませたりする人間がいなくなっていることが原因なのではなかろうか。
 就業機会の地域格差、農林漁業等の衰退等々のなかで若者と中高年層は切り離され、過疎化が進み、、老人の一人暮らしが増え、結婚が困難な社会になるなかで大都市における若者の一人暮らしが増える、少子化が進む、つまり人間と人間との触れ合い、交流が減ってきており、家に帰っても人がいない寂しい人間が増えてきている。その寂しさを紛らわすために人間の代わりに犬猫等を身のまわりにおく。さらには家族の代わりに室内に住まわせ、人間並みに遇する。そして人間のぬくもりをペットのぬくもりで代替する。
 何とも情けない寂しい社会になったものだ。だから私は犬猫等の愛玩畜・ペットの増加を素直に喜べないでいる。

 でもこれもやむを得ない。愛玩畜も何もなしで一人でぽつんと暮らすなどというよりはもちろんいい。しかし人間の代わり、家族員の代わりとして飼っているものだから人間並みに犬猫を扱うようになり、家畜にとっては異常なとしか言えない可愛がり方をしてしまいかねない。家族並み待遇どころか人間様より偉いのかと思うような、犬猫に人間が奉仕しているのかと思われるような扱いをしている飼い主もいる。こんな過保護ではかえって犬猫がかわいそうなのだが、これも飼い主の好き好き、他人に迷惑をかけないかぎり何も言うことはない。しかしそうでないから困る。前にも述べた糞尿公害などがその典型だし(註6)、鳴き声公害、吠えつき・噛みつきなどさまざまな問題を引き起こしている。家畜に対する人間の愛(行き過ぎた?間違った?)が逆に人間に家畜を嫌わせているのである。

 この過保護の逆の問題も引き起こされている。いわゆる飼育放棄だ。捨て犬、捨て猫として不法に遺棄され、野良犬、野良猫が増加し、これまた大きな問題を引き起こしている。犬猫だけではない、愛玩動物の野生化が社会問題、環境問題、生態系にかかわる諸問題を引き起こしているのである。
 野良と言えば野良バトで私も大きな被害を受けていた。
 そういえば家畜としてのハトについて述べるのを忘れていた。農業とは直接関係ないということと最近飼育と利用があまり見られなくなっており、野生化しているものが多いことからついつい忘れていた。でもハトは人間の暮らしとこれまで大きく関連してきたし、今もプラスマイナス両面で関係している、それで次回触れることにしたい(註7)。

(註)
1.12年7月30日掲載・本稿第四部「☆重要だったネズミ退治」参照
2.12年8月1日掲載・本稿第四部「☆猫の堕落、糞害、ペットフード」(1段落)参照
3.「ペット」という言葉があるが、これは「愛玩動物」のこと、つまり愛玩畜のみでなく愛玩用の野生動物も含まれる、こう理解すべきだろう。
4.12年7月30日掲載・本稿第四部「☆重要だったネズミ退治」(6段落)参照。なお、なぜ戦前から猫を飼っていなかったのか、その理由は聞いていない。
5.11年11月14日掲載・本稿第三部「☆鯨とムツゴロウだけかわいそうなの」参照
6.12年8月1日掲載・本稿第四部「☆猫の堕落、糞害、ペットフード」(4段落)参照

7.犬猫、そして愛玩動物について述べたなら、「実験動物」についても述べなければならないだろう。その昔、大学病院の周辺の電柱や板塀に「犬猫買います」という手書きのチラシがよく貼ってあったが、犬猫は実験動物でもあるからである。私のいた農学部でも家畜はもちろんだがマウス、ラット、モルモット等々多くの実験動物が飼育されている。これについては動物愛護団体の反対運動があったり、動物福祉の研究がなされたりしており、何回も登場いただいた畜産研究者のKT君も意見があるようだが、ここでは論議を省略することにする。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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