Entries

戦争とむらの子どもたち(1)

  


           ☆もんぺ姿、人の取り上げ

 行事や祭りを楽しみ、湯治でゆっくりするような暮らしは、日中戦争が激しくなるなかで徐々にできなくなり、一九四一(昭和十六)年十二月八日の太平洋戦争突入以降はほとんどできなくなってきた。
 そして、女性はもんぺ姿、男性はカーキ色の国民服姿、それに防空頭巾と救急袋の紐を両肩からそれぞれ斜め十文字にかけるというスタイルが日本中を覆うようになった。
 このもんぺについて、北海道のオホーツク海沿岸にある上湧別という町で、最近面白いことを学んだ。

 上湧別町には道内で有名なチューリップ公園がある。それでチューリップの咲く時期にそれを見に行った。それはそれは見事だった。その公園の隣に、何とも説明のしにくい奇妙な(怪獣がのたうちまわっているような)屋根をした建物があった。チューリップ畑にも、周辺の景観にもどうしてもなじまない。建築家の悪趣味としか言いようがなく(私の美的感覚がないからわからないのかもしれないのだが)、とてもそのなかに入る気はしない。しかし、郷土史の博物館というし、せっかくここまで来たのだからと、ともかく入ってみた。外見と違って展示の内容や配置、説明はきわめていい。学芸員などのセンスがいいためかもしれない。
 そのなかに、北海道ではどこでもそうだが、この地域での開拓や屯田兵の歴史の説明があった。この地域には山形と千葉から多くの人が入植してきたということだったが、そこにこんなことが書いてあった。
 山形から来たご婦人が「もんぺ」をはいて農作業をしていた。それを見た千葉の人たちが何とかっこうが悪いことと笑った。ところが翌年にはその千葉のご婦人たちも山形のご婦人に学んで全員もんぺをはくようになった。仕事はしやすいし、開拓原野に大発生する蚊や虫にさされないし、しかも温かいからである。なるほどそれはその通りだろうと納得したのだが、それ以外にももんぺは小用がしやすいこともあったのだと思う。ただしこれはその後にこの上湧別の近くの紋別生まれのMTさん(元東京農大教授)と話したときに思いついたことだ。
 彼の両親は山形の上山出身だということからもんぺの話になった。そして彼は言う、お母さんが立ったままほんのちょっと腰をかがめて、人に見られないように、着物を汚さないように、上手におしっこをしたものだと。私の母もそうだった、田畑のど真ん中でもおしっこができた、あれはもんぺのおかげだった、こう言って二人で大笑いした。そうなのである、もんぺは本当に便利なものだったのである。これも千葉出身の女性がすぐもんぺを採り入れた理由になったのではなかろうか。
 このことでまず感じたのは、北海道に入植した人たちの受容力と先進性である。いいものは偏見をもたずにすぐに取り入れる(そうしなければ厳しい環境のもとで生きていけなかったということもあろうが)。当然のことながらそれは新しいものを先駆けて創り出すことにつながる。
 もう一つ勉強になったのは、その昔もんぺは全国共通の衣服ではなかったということである。
 山形の農村出身の私は小さい頃からもんぺ姿を見ていたし、戦時中には日本中すべての女性がもんぺをはいていたので、昔から全国各地にあったものだと考えていた。ところが山形、秋田、新潟の一部の農村地域の衣服でしかなかったこと、東北発の文化であったことを知って驚いた。そもそもは最上川や雄物川などの河川に発生するツツガムシ(註)が入り込むのを防ぐために足元の方をズボンのようにつぼめたもんぺをはくようになったらしい。使ってみると、他の虫も防ぎ、寒さを防ぐこともでき、着物を着てるのに活動しやすく、しかも比較的簡単につくることができる。こうしたことから女性のふだんの野良着となり、さらには非農家も含むこの地域の女性が何かの折りにはくようになり、普通に見られるようになったのだろう。
 このもんぺに戦時下の政府や軍の関係者が目をつけた。当時はまだ着物姿のご婦人が多かった。しかしこれでは銃後の守りに耐えられない。空襲などがきても早く走ることもできない。そこで、和服にも合って活動しやすく、つくるのも容易なもんぺをはくようにと、政府が半ば強制的に勧めたのではなかろうか。それで、もんぺが戦時中全国の女性の制服のようになったのだろう(もちろんこれは私の推測でしかないのだが)。
 こうしてもんぺ姿があらゆるところで見られるようになった頃、太平洋戦争が激しくなった頃から、むらの暮らし、子どもの暮らしはあらゆる面で大きく変化することとなった。

 戦争が激しくなるにしたがい、どこの家からも若い男が戦場へと消えていった。当時の生産力段階では男にしかできない労働がたくさんあった。ところが、それを担う男子労働力が戦争に取られる。残された老人、婦女子で農業を維持するのは容易でなかった。
 しかし幸いなことに、私の父は兵隊に取られなかった。一九四三年に神町の飛行場建設に三ヶ月くらい徴用された程度であり、しかもそれは相対的に閑な冬場だったので、基幹的な労働力は確保された。
 頑丈な身体をもっていたにもかかわらず父に召集令状が来なかったのである。これは、生家のいろりのつくりがよその家のとちょっと違うことと関係があった(それを知ったのはずっと後のことだったが)。
 一般に、いろりを囲っている四方の板はそれを取り囲む畳や板の間と同じ高さである。だから、いろりの灰や火は人が座ったり歩いたりする板の間よりも低いところにある。ところが、私の家のいろりのまわりは高さ三十㌢くらいの厚い板で囲まれている。当然それに応じて灰や火の位置も高い。これは父の火傷のせいだったらしい。父が数えで三つの歳にいろりに落ちて大火傷をした。それで子どもたちが落ちたりしないようにといろりを高くしたようなのである。この火傷のせいで父の頭の左側に大きなひきつれが残った。若い頃の父はその醜いひきつれで相当悩んだようである。
 しかし何が幸いするかわからない。その火傷のせいで召集令状が来なかったのである。農業に不可欠の基幹男子労働力があったので、他の家よりも労働力面では苦労しなかった。

 それでも私の家では三人の叔父を戦争に送り出した。軍需工場に働きに行っていたT叔父が一九四三(昭和十八)年に、兵隊検査のため北海道室蘭での徴用から帰ったK叔父が翌四四年に召集され、同じ年に商業学校三年だったM叔父が予科練(よかれん・海軍飛行予科練習生、特攻の搭乗員となって多くが命を落とした)の試験に合格して入隊した。よく昔の映画で見られるような壮行式を家の前でやって見送った。また、山形の連隊に入隊した叔父が毎年一人ずつ夜汽車に乗って中国に向けて出発するのを山形駅に見送りに行った。それが最後の別れとなってしまったのだが、不思議なことにそのときは悲しくも何ともなかった。しかし鳥取県の美保航空隊の予科練に入隊するM叔父、一番私と年の近かったこの叔父を見送りに行ったときだけは涙が出てきた。見送りの人混みのなかでM叔父を見失ってしまったとき、もうこれで会えなくなるのだと胸がつまり、前に見送った叔父たちのことも思い出して、思わず泣いてしまったのである。
 この三人に加えて母方の叔父も二人戦争にとられた。といっても一人は満州に少年技術工として送り出されたのだが、やはり戦争にとられたといっていい。

 一九四四年、近くの神町飛行場にも予科練の兵舎ができた。五月頃であったろうか、ある日曜日、外出許可をもらった予科練生が二人、水を飲ませてもらいに家に寄った。そのとき、祖母はすぐに家に上げ、いろいろとごちそうした。七つボタンの制服を着た十五、六歳の彼らを見たとき、予科練に行っている自分の末息子の姿をそれに重ね合わせたのであろう。福井県と千葉県出身だという彼らにとっても家に戻ったような気がしたのだろうか。それから毎週のように休みになると家に来た。彼らは実家にそのことを伝えた。それで、親から挨拶状が来たり、基地には送れないものを私の家に送ってきてこっそり本人に渡してくれるように頼まれたりしていた。敗戦の半年前ころだろうか、特攻として飛び立つと言うことで県外のどこかわからない別の基地に移動することになった。それで母親が面会するために福井から訪ねてきた。当時の交通事情からして福井から山形まで来るのは本当に大変だった。しかも当時は食糧難、米を持ってこないと旅館は泊めてくれない。しかし幸いなことに息子が知り合った私の家がある。祖父母は泊めるから来るようにと返事した。そこで私の家に泊まり、面会に行くことにした。そして神町に行った。しかし上官が意地悪だったらしい。一週間の間毎日基地に通ったが、結局会わせられなかった。やむを得ず福井に帰った。そのときの母親の気持ち、どんなものだったろうか。幸いなことに息子は特攻にはいかずに敗戦を迎え、無事復員した。こうした縁から福井と千葉の家の人とは戦後もかなり長い期間親戚づきあいをすることになった。

 誰からだったろうか、こんな話を聞いたことがある。
 特攻で出撃する前の晩、両親がたまたま面会に遠くから訪ねて来た。親切な上官は夜旅館で息子に面会させてくれた。母親は永の別れを前にして泣いて泣いてまた泣いた。父親は泣かなかった。息子を立たせ、ただ黙って、息子の身体を上から下までいとおしそうに何度も何度もなでていた。
 あるとき男の子二人をもつKA君(後の東北大教授、その若い頃)にこの話を聞かせた。ふと彼の顔を見たら、涙が頬を伝わっていた。父としての自分の身をその姿に重ね合わせたのだろう。

 三人の息子を戦場に送り出した祖父は、太平洋戦争開戦日の十二月八日にちなんで毎月八日になると戦の神様だという摩利斯天(まりしてん)さまにお参りに行き、息子たちの武運長久、つまり無事を祈った。歩いて一時間くらい離れた場所にあったのだが、私も休みの日には祖父について行った。しかしその祈りは通じず、三人のうち二人は戦争にとられたまま帰ることはなかった。

(註)命にもかかわるツツガムシ病を引き起こすダニの一種。かつてツツガムシ病は東北の日本海側の河川周辺に発生する風土病と言われたが、今は日本の大半の地域に発生する感染症として位置づけられている。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR