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草鞋と空気銃とハト・スズメ



 
                家畜と野生動物(8)

               ☆草鞋と空気銃とハト・スズメ

 高校・大学の同期で医師のAH君(前に何度か本稿に登場してもらった)、今は東北を離れて遠くで暮らしているが、先日しばらくぶりで会った。そのとき、ハトやスズメを捕まえて食べる話を書いた私のブログ(註1)が話題となり、彼はそれを子どもの頃自ら体験していると、いろいろ話してくれた。その話が非常に面白く、ぜひ書き残しておきたくなった。本来ならもっと前の節のなかに書くべきことだったのだが、やむを得ない、ここで補足として書かせてもらうことにする。
 その前提として、「草鞋(わらじ)」についてちょっと書かせていただく。この草鞋の冬用である「ぼっこ草鞋(つまご草鞋)」がハトの捕獲で大活躍するものだからである。

 わら草履(ぞうり)と草鞋(わらじ)、私たちの子ども時代はこれは普通に見られたもので、農家の子どもにとっては履くだけでなくつくるものでもあり、きわめて馴染み深いものだった。だから説明の必要などなかったのだか、今はほとんど見られなくなっている。テレビや映画の時代劇で見られるが、登場人物の足許をみんなとくに注意して見ているわけでもない。だから名前は知っていてもまともに見たことのない方も多かろう。ましてや冬用の草鞋など聞いたこともない人が多いだろう。それでまず草鞋そのものから説明することにしたのだが、言葉だけではきわめて説明しにくい。そこで、実物はパソコンで検索して見てもらうことにして説明を試みてみると、「わら草履の緒を足の後ろの方に長く伸ばし、それを草履の縁(ふち)のところについている輪に通して足首に巻き、足の後部(かかとのところ)を縛って履けるようにしてある履物」ということになるだろう。
 この草鞋は、鼻緒だけの草履にくらべて足に密着するので歩きやすく、また農作業もきわめてしやすく、農家にとっては必需品だった。私たちの子どもの頃は地下足袋が普及してきていたのでそれを履くようになっていたが、祖父は必ず草鞋、だから冬仕事に自分でつくっていた。また、山歩きや長距離の歩行のときにも非常に歩きやすいので、徒歩時代の昔は農家ばかりでなくすべての人の旅行や登山の必需品、荒物屋(今でいう雑貨屋)で売っていたものだった。
 しかし惜しむらくは原料が稲藁、だからこそ軽くて履きやすくていいのだが、すぐに擦り切れてしまう。そこで遠くに行くときは履きかえられるように腰に何足かぶらさげて行ったもの、あるいは街道沿いの茶店などで売り物の草鞋を買って履きかえたものだった。
 私の子どものころも国道沿いの茶店のなかの柱などに新品の草鞋が何足かぶら下がっていた。

 ちょっとここで脱線するが、今茶店と言ったけれど、本当にそう呼んでいたか、どう呼んでいたのか思い出せない。菓子や飲み物、日用品など(当時の旅は歩き、その旅人が必要とするようなものが中心だったような気がする)を売っており、店先には縁台がおいてあって腰を掛けて休めるようになっており、主要道路に1~2㌔おきくらいにあった。私も歩き疲れると店の縁台に座り、サイダーなどを注文して飲んだりしたものだった。そこで草鞋も売っていたのである。すごくなつかしいが、今はもう車時代、こんな茶店はもう見られなくなり、コンビニに替わってしまった。コンビニがあればまだいい、車も人も通らない道路になったところすら出てきていることがさびしい。

 さて、この便利な草鞋、冬にも必要なのだが、もちろん寒さをしのぐために足袋を履いて草鞋を履く。しかし、雪国の場合、足袋が雪で濡れてしまう。とくに爪先の方が濡れ、さらにはそれが凍ってくる。これではたまらない。
 そこで考えたのが、草鞋の先の方に藁製の覆いをつけ、爪先をくるむようにすることだった。これなら雪が直接当たらないし、暖かい。それで私たちの地域の人はこのような冬用の草鞋をつくり、藁沓(わらぐつ)とともに、冬の履物として利用した。しかし、この冬用の草鞋を何と呼んだか、AH君も私も覚えていない。そこでAH君が山形の生家に住むお兄さんに聞いてくれた。そしたら、正式には「おそふき草鞋」と言い、AH君の地域では「ぼっこ草鞋」と呼んでいたとのことだった。
 何で「おそふき」と呼ぶのかわからないので、試しにネットで検索して見たら「おそふき」とは「草鞋にかける、わらで俵編みにつくった爪掛け」のことだという。
 それから「ぼっこ草鞋」だが、「ぼっこ」とは山形では下駄など履物の底に付いた雪のことを言うので、このぼっこ=着雪を防ぐための草鞋ということでこのように呼んだのであろう。
 それを聞いたとき、ふと私の頭にこんなことが浮かんだ、私の生家の地域では「つまご草鞋」と呼んでいたのではなかったかと。雨・雪対策のために足駄の先につける覆い、この覆いを爪皮とか爪子(つまご)とか呼んでおり、それとのからみで覆いのついた草鞋のことを「つまご草鞋」と呼んでいたような記憶が呼び起こされたのである。もちろんそれもさだかではないのだが。
 そこでここでは、冬用の草鞋についてはAH君の地域の言葉である「ぼっこ草鞋」という言葉を使うことにし、それについている覆いのことは私の記憶にもとづいて「爪子(つまご)」と呼ぶことにする。

 ところで、私はこのぼっこ草鞋を履いたことはない。雪踏み(雪を踏んで道をつける)のために藁沓を履いたことはあるが。前にも書いたように、もうゴム長の時代になっていたからである。
 ところが、AH君は学校行事の雪中行軍(雪中で戦えるように鍛えるための軍事訓練、よく言えば冬の遠足)のときなどにみんなこれを履いて歩いたという。私たちは全員長靴だったが、前にも述べたように私たちは洋服、AH君のところはまだ着物であり(註2)、同じ学年だったのに町と村とではこんなに違っていた。
 それはそれとして、このぼっこ草鞋が、ハトを捕まえる道具となったのだと彼は言う。

 秋、畑や畦道に植えた大豆を根っこから引っこ抜いて収穫し、乾燥して実を採るが、その後に残った豆殻(まめがら)(さや・枝・茎・根)、これは非常にいい燃料となるので乾燥して保存しておいたものだった。そのために豆殻を杭などにかけておくが、その下に採り残した豆が落ちているかもしれないとハトが拾いに寄って来る。そこが子どもたちの狙い目だ。
 AH君たちは豆殻の下にぼっこ草鞋をおき、その先の方の「爪子(つまご)」のなかに豆を2~3粒入れておく。さらに、その「爪子」の入り口に糸を輪の形に(両端を引っ張れば輪が締まるつまり結び目がつくられるように)してかけておき、その糸の両端を伸ばして近くの杭や柱などに結びつけておく。
 こっそり隠れて見ていると、ハトが寄ってきて草鞋の中の豆を見つけ、しめたとばかりに「爪子」に頭を突っ込んで食べようとする。すると糸の輪に頭が入り、食べようと下を向いてさらに頭を突っ込むとひとりでに輪が締まってくる。その輪から頭を抜こうとすると、糸が羽毛に刺さってなかなか頭や羽が抜けない。そこでばたばた暴れる。暴れれば暴れるほど糸の輪で首が締まり、抜けなくなる。当然飛べない。そこを子どもたちが捕まえるのだそうである。
 こうした仕掛けで捕まえただけではない。空気銃で撃っても捕まえた、その方が多かったとAH君は言う。

 空気銃、子どもの頃よく見、またそれで遊んだものだった。最近ほとんど見ないので、今の若い人たちはどこまで知っているのかわからないが、空気の圧力で弾丸を撃ち、鳥獣を捕まえる銃である。今はエアガンと言っているようだが、昔の空気銃と同じなのかどうか私はわからない。
 その発射の原理は杉鉄砲や紙鉄砲(註3)で私たちは知っていた。またおもちゃの鉄砲でも知っていた。木製の銃身に糸でぶら下げられているコルク栓の弾丸を銃身の先の穴に詰め、銃身の後ろの穴から棒で押し出し、杉鉄砲と同じく空気の圧力で撃つ。ポンといい音がして飛ぶが、弾丸が糸で銃身につながれているのでもとに戻る。人にぶつけたり、弾丸がなくなったりしないのでいいのだが、これは幼児のおもちゃ、何の危険性もない競争もないおもちゃなど面白くない。それなら杉鉄砲や紙鉄砲の方がおもしろい。しかしこの鉄砲では当然のことながら鳥や獣を撃つなどということはできない。私たちがよくつくって遊んだ「ぱちんこ」(二股になっている木にゴムひもを張り,小石などを挟んで飛ばすおもちゃ)で小鳥などに当てることは不可能ではないが、そんなもので撃ち落とせるわけがない。そうした不満のあるところに空気銃、私たちにはあこがれだった。
 その空気銃が近所の先輩の家にあり、たまに先輩が家から持ち出して来る。それを借りて撃たせてもらう。銃は中折れ式になっていて、真ん中から折り、矢印のような形をした小さい鉛の弾丸を銃身の小さい穴の中に詰め込み、折れた銃身をカチャッともとに戻し、狙いを定めて引き金を引くとパシッという音がして弾丸が飛んで行ったものだった。
 戦後、どうしてかこの空気銃遊びが流行った。他のクラスの女子生徒が休みの日に中学校に持ってきたので、いっしょにそれで命中ごっこをして遊んだりしたこともある。なぜ流行ったのかわからない。兵器の製造が禁止された軍需工場がその代わりに空気銃の製造に向かったためなのか、食糧難の時代だったので鳥獣を捕まえて食料にするために空気銃が売れたのか、よくわからない。
 当然のことながら、私たちもスズメなどを狙って撃った。しかし命中しなかった。また、撃つとすぐに、あるいは直前に逃げてしまう。射撃の技術が悪いせいか、空気銃の性能が劣っていたためか、スズメの逃げる能力が高いからなのか、街の中なので撃つ場所が限られていたせいなのか、よくわからない。私はもちろんのことだが、友人や先輩が命中させた場面を見たこともなかった。

 AH君が空気銃を使ったのも同じく戦後、小学校高学年から中学校にかけてだった。お兄さんが借りてくる空気銃でよくハトやスズメを撃って捕まえたという。命中するとスズメはすぐに落ちるが、ハトは頭にでも命中しないかぎり飛んで行ってしまう。だけど50~60㍍くらい飛ぶとバタッと落ちてくる。それで、当たったようだとなると走って追いかけ、落ちてきたハトを捕まえたものだという。
 なぜAH君のところではこんなに簡単に命中したのか、よくわからないが、私に言わせると町と村の違いからではなかったかと思っている。
 まず、鳥の数が違う。村の方が格段に多い。一方人間の数はその逆に村の方が少ない。だから鳥の警戒心もまったく違う。町の鳥はきわめて警戒心が強く、逃げるのはきわめて速い。空気銃を撃てる場所についていうと町では限られる。人が多いし、建物も多いので危ないからである。そんなことで町場の私たちの地域ではなかなか捕まらなかったのではないかと思っている。

 さて、こうして捕まえたハトやスズメをどうするかだが、AH君たちは家に持って帰り、自分たちでその羽をむしり、内臓を取る、そしてそれを焼いて家族みんなで食べたという。本当にうまかったが、捕まえて食べるのは秋から冬だったとのこと、夏の鳥、軽い鳥は脂がなくてまずいと獲らなかったと言う。
 同じ年代だったのに、私にはそうした体験がまったくなかった(註4)。だから、日本人にはハトを食べることに抵抗感があるなどとついつい前に書いてしまった(註1)のだが、これは私の狭い体験を一般化してしまったための誤り、ここで訂正しておきたい。
 それにしても、わずか10㌔くらいしか離れていないのにAH君と私の体験のこの相違、驚いてしまう。交通通信技術がまだ発達しておらず、地域によって生産・生活・文化が大きく異なっていた時代、野生動物との付き合い方も千差万別だったのである。だからお互いに他地域のことで知らないことが数多ある。それらの各地の生産・生活・文化が近年画一化され、多くのことが記録もされずに忘れ去られ、消え去ろうとしている、それが何ともさびしい。

 こんな話をしているうち、前にブログで私が書いたアヒルの話が出た(註5)。AH君の家は養蚕農家だったが、鶏、羊、ヤギとともにアヒルを3羽飼っていたという。私はまったく知らなかった。
 日中は外に放し、夜は小屋に入れて飼っていたが、近くの田んぼに行ってタニシを取り、アヒルに食わせるのが子どもの仕事だったと言う。卵を産ませるのが目的で飼っていたのだが、食べるためというよりは売るため、山形から毎日のように買いにくる業者に卵を売っていた。この業者は周辺で飼っている農家何軒かを回って買い集め、市内のお菓子屋さんに菓子の材料として卸していたようだとのことだが、当時はそんなものだったろう。
 その卵を売ったお金はAH君たち子どもがお小遣いとしてもらった。その頃子どもに大流行りだった野球のグローブやミット、バットはそれで買うことができ、アヒルには本当にお世話になったのだが、その肉は食べたことがなかったという。

 昔のことから今のことまで、子どもの遊びから現在の医療のあり方にいたるまで、5時間以上も座り込んでしゃべりかつ飲み、再会を約して別れたのであるが、その帰りのタクシーの中で中年過ぎの運転手さんと雑談になった。最近の景気やタクシー台数の過剰問題の話をしているうち、彼は古川(現・宮城県大崎市)の農家出身だということで子どものころの話になった。そして彼はスズメ捕りの話をしてくれた。
 桟俵(さんだわら・米俵の両端に当てる丸いわらのふた)の上に米粒を撒き、その上に黒い糸で首が締まるようにした丸いわなを仕掛けておく(さきに述べたAH君のハトのわなの場合とそこは同じだ、宮城と山形と離れているが考えることは同じ、それが何かおもしろい)、さらにその桟俵の前に米粒を道のように何㍍かまっすぐに播く。最初はぽつりぽつり、少しずつ数を多くしていくのがコツなのだそうだが、やがてそこにスズメが寄ってくる。最初は用心して端の方から恐る恐る食べていくうち、米粒が増えて来るので夢中になって食べるようになる。やがて桟俵に到達、藁の間にくちばしを頭を突っ込んで食べる、もうそのころは警戒心も何もない、そのとき隠れて待ち構えていた子どもたちがわなの糸を引っ張る、それでスズメの首や足が絞められて動けなくなる、そこを捕まえる。それでけっこう捕まった、その焼き鳥はうまいと思ったものだ、こんな話をしているうちにわが家に到着した。かなり酩酊していたのできわめて不正確、きちんと説明もできず申し訳ないが、それはそれとして、ともかくこんな情報があった。まったく偶然のことだったのだが、車の中でこんな情報が得られるとは思わなかった。
 こういう話、昔の知恵、まだまだ各地にあるだろう。消え去らないうちに何とか記録し、整理しておいてもらいたいものだ。

 かつての東北の村の子どもたちは、農作業や家事を手伝うだけでなく(註6)、遊びを兼ねながらではあったが、鳥獣を捕まえる、山野草を採るなど直接生活の糧を稼いで、親を、暮らしを助けたのである。そしてそのなかで自然に対する知識を、生きる知恵を学んでいったのだった。

(註)
1.15年4月20日掲載・本稿第七部「☆ハトポッポとドバト」(3段落)、
  15年6月8日掲載・本稿第七部「☆キジバト、キジ、カラス」(3段落)参照
2.15年3月30日掲載・本稿第七部「☆子どもの頃の皮革製品の記憶」(2段落)参照
3.11年1月31日掲載・本稿第一部「☆豊富だった遊びの材料」(3段落)参照
4.私自身のスズメ捕り、焼き鳥の体験については下記掲載記事で述べている。
  13年5月13日掲載・本稿第五部「☆渡り鳥、七草たたき、燕雀」(4段落)
5.15年3月23日掲載・本稿第七部「☆アヒルの肉、羽毛」(1段落)参照
6.10年12月13、14、15、16、17日掲載・本稿第一部「働く農家の子どもたち(1)~(5)」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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