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節分と大豆、南京豆



                 マメ・思いつくまま(2)

                ☆節分と大豆、南京豆

 節分に豆、これは不可欠、だからその時期になると大豆が店頭に並ぶ。しかし、量としてはそんなに多くはない。代わりに多いのが殻入りの南京豆だ。これが大豆を押しのけて表に大量に並べられている。
 このことは、各家庭での豆まきの豆が大豆から南京豆に代わったことを示すものなのだろう。
 いつのころからこんな風になったのだろうか。南京豆なら炒ったりしなくともよいし、まいた後の片づけも簡単、大豆よりはおいしく簡単に食べられる、そんなことからだろうが、南京豆で鬼退治ができるのだろうか。おいしいからとかえって鬼が集まってくるのではないかと心配になる。
 もう一つ気になるのは、枯れた根っこのついた10㌢位の大豆の茎の部分が売られていないことだ。私の生家では、その茎に目刺しの頭を刺して豆をまく戸口や窓の上にあげ、それから豆をまいたものだった。前にも書いたが(註1)、目刺しで鬼を誘い、集まったところに豆を撒いて追い払うのだそうである。本当は目刺しを買い、それで鬼を誘えばいいのだろうが、そんなもったいないことはしていられない。そこで目刺しの頭だけを使い、目刺しの胴体は豆の茎、尻尾はその根っこでごまかすのだろう。よく考えたものなのだが、こんなことはもう今はしないのだろう。私の家でもしない、というよりできない。豆の枯れた根っこを手に入れられないからだ。だから何匹鬼が集まってくれるかわからないが、豆まきをしないよりはましだろう、やむを得ない。
 まあ何だかんだ言っても、南京豆であれ何であれ、豆まきをやっているということだけでもうれしい。豆まきなどやらない家庭が増えているからだ。私の子どものころは、節分の夜暗くなるとあちこちの家から「福は内 鬼は外」の声が聞こえてきたものだが、今はまったく聞こえない。だから、私も何となく大きな声で叫ぶのが遠慮になって、戸口や窓を細めに開けて小さい声でつぶやくようにしか言えない。これがちょっと淋しい。こんな声で鬼が外に逃げ、福が内にくるのかどうかはなはだ疑問だが、ともかく形だけでもしないと何となくさびしい。
 一方、近くの八幡神社からは昼過ぎに花火の音が聞こえてくる。夕方近く境内で何回か豆まきがあることを知らせるためである。私はまだ行ったことがないのだが、かなり多くの人が集まっているようだ。この八幡様ばかりでなくあちこちの神社仏閣でやられていることが新聞テレビのニュースでわかる。豆といっしょに景品を撒くところもあるとのこと、それもあって人が集まるのだろう。もしかするとこの豆まきに来ることで家庭での豆まきを省略しているのかもしれない。それを見たり聞いたりしていると、こんな神社の行事への参加だけで、節分の豆まきが季節の行事として今の子どもたちに定着するだろうか、大きくなった頃には忘れられてしまうのではなかろうかと疑問になる。でも、もしかすると節分の豆まきはこうした神社の商売繁盛、金稼ぎのための行事としてあるいは残るかもしれない。節分だけでなく他の昔からの行事も寺社や業界の販売戦略のなかに位置づけられれば生き延びるかもしれない。そうなると寺社や業界の販売戦略も捨てたものではない。伝統行事を存続させていく力になる可能性もある。
 最近の恵方巻きの流行がそうだ。節分のときに恵方巻きを食べる、大阪周辺だけの習慣だったらしいが、あるコンビニチェーンの販売戦略から始まって全国的に流行するようになり、最近は節分の日にどこへ行っても恵方巻きが売られており、節分の一行事として定着しつつあるようである。まあ、それで節分がみんなに意識づけられ、存続していくなら、こうした変化は多少あってもいいだろう。
 しかし、一方では国内の伝統行事が廃り、他方で業界の販売戦略や外国の文化侵略等でそもそも日本になかった行事が季節行事としてまったく新しくつくられ、定着していく(註2)、こうなると話は別である。

 二年くらい前ではなかったろうか、東京に住む孫の家に行ったとき、何か洋風の仮装・扮装をした近所の幼稚園の子どもたちが先生に付き添われて家々(きっと自分たちの家なのだろうが)を回ってお菓子をもらっていた。最初何かよくわからなかったが、通り過ぎてからはっと気が付いた、これはハロウィーンなる行事なのではなかろうかと。最近ハロウィーンが国内のあちこちでやられるようになったということを聞いていたからである。
 なぜこんな行事が流行し始めたのだろうか。教会、キリスト教の宣伝戦略なのだろうか。それともどこかの業界が始めたことなのか。クリスマスのように洋物崇拝、祭り好きの日本人の誰かが始めたことなのか。よくわからないが、何か気分がよくない。
 こんなことを目くじらたてて詮索しなくともいいではないか、子どもたちにとって楽しい行事であればやっていいではないか。そうも考える。
 しかし、これに類する行事は日本に昔からあった。必要ならそれを地域で復活すればいいではないか。何で外国のまねをしなければならないのか。
 私の生家の地域にも子どもの頃にあった。前にも書いたが、お盆の夜、近くの子どもたちみんなが提灯やカンテラに灯をともして集まり、唄を歌いながら近所の家々をまわる。そうすると家の人が戸口に出てきて準備しておいたお菓子や食べ物をくれる(註1)のである。しかしこの行事を何と呼んでいたのか、どんな歌詞のどんなメロディを歌ったのか、どうしても思い出せない。戦争の激化でこの行事が中止され、そのまま復活しないでしまい、したがって私の5歳くらいまでの記憶でしかないのだから、忘れてしまったのもやむを得ないのだが、なぜ父や叔父たちが死ぬ前に聞いておかなかったか、今にして思えば本当に口惜しい。
 なお、宮城県南の家内の生家の地域でもこうした行事があったという。私のところとは違って冬だそうだが、小正月(1月15日)の前日に近所の子どもたちと「カセドリまいた コンコン」(この後にも歌が続いたような気がするが思い出せないそうだ)と唄を歌いながら各家をまわり、餅をもらい歩いたものだった(註3)、この行事をカセドリと呼んでいたような気がするがはっきりしないという。残念だが、70年代になくなってしまったとのことである。
 こういう行事は全国各地にあったようだが、あまり聞かなくなってきた。それを新たな形で復活させたらいいではないか(註4)。新興住宅街であれば、新しく創作してもいいではないか。それがなぜハロウィーンなのか。カボチャ農家の販売戦略でやられるならまだ許せるが。
 もちろん、時代の変化に応じて、あるいは外国のいいところを取り入れて、新しい行事がつくられる、古い行事が消える、こういうことは避けられないし、あっていいことでもある。しかし、日本人の外国崇拝意識や外国からの押し付けなどで日本伝来の行事がなくなり、外国の季節行事におきかわっていく、日本古来の文化がなくなっていく、こうなると疑問になってくる。

 それはそれとして、さきほど述べた南京豆だが、ふと疑問になった、いつごろからピーナッツと呼ばれるようになったのだろうかと。
 私の小さいころは南京豆としか呼ばず、家でつくっていなかったし、名前が南京だから中国でしかとれないものだと思っていた。そのうち南京豆は落花生とも言い、日本でもとれるものだということを知ったが、戦後数年してではなかったろうか、私の生家でも裏の畑でつくった。それを見てなぜ「落花生」と言うのか初めて実感した。初夏、緑の葉の中に咲いた黄色い花がそのまま実に成長するのではなく、花の根元が細い枝のように下に伸び、それが地下にもぐりこみ、その先端が膨らんで実(殻に入った豆)になる、まさに「落ちた花が生(な)る」のである。本当におもしろかったのだが、2~3年つくってやめてしまった。なぜか聞いたと思うのだが、忘れてしまった。きっと大産地の千葉県産、低価格の中国産にかなわなかったのだろう。
 そのころはまだピーナッツとは呼んでいなかったような気がする。もちろん言葉は知ってはいたようだ、少なくとも60年代には。双子の歌手「ザ・ピーナッツ」(私の好きな歌手だった)が登場したときに抵抗なくその名を受け入れたのだから。もしかするとこれをきっかけにピーナッツという名前が世間で多く使われるようになったのかもしれない。でも南京豆、落花生は今も使われている。どんなときにあるいはだれがピーナッツという言葉を使い、南京豆、落花生と呼ぶのだろうか。落花生は正式名称、南京豆は通称(とくに年寄りが使う)、ピーナッツは殻をむいた豆だけを呼ぶ名称、こんな風になっているのではないかと私は考えるのだが、どうなのだろうか。
 話は変わるが、私たちの小さいころは、茶色の皮つきの豆と皮をむいた白いつるつるの豆しかなかったが、いつごろからだろうか、殻つきの豆が売られるようになった。いずれにせよカラカラに乾燥しており、殻のまま炒るか殻からむいたものを炒るかしたものなのだが、千葉の大産地八街の調査に行ったとき農家の方から採りたての落花生を殻のまま塩茹でにしたものをごちそうになった。こんな風にしても食べるのかとびっくりしたのだが、それなりにおいしい。しかし、私にはやはり炒った豆の方がおいしい。今千葉に住んでいる農大のときのゼミ卒業生が秋になると贈ってくれる千葉の殻つきの落花生をこたつに入ってむきながら食べる、冬の楽しみである。もちろん柿ピーなども柿の種の塩味とピーナッツの甘味とがぴったりでおやつとしても酒のつまみとしてもうまい。しかしその場合の柿の種もピーナッツも原料は外国からの輸入、それが気になるが。
 話は脱線してしまったが、次回はまた炒り豆の話に戻ろう。

(註)
1.11年1月26日掲載・本稿第一部「☆季節の行事、祭り」(3段落)参照
2.クリスマスやバレンタインデーが戦後流行り、もうすっかり定着したことが典型的な例だが、このことについては下記記事で触れているので参照されたい。
  13年6月24日掲載・本稿第五部「☆神仏の祭り今昔」
3.翌一五日の朝早く各家々の主人が近くのお斗蔵山(おとくらさん)に登って日の出をお詣りし、帰ってきたら前の晩に子どもたちがもらってきた餅を小豆がゆに入れて家族みんなで食べるのだそうである。
4.山形県上山市にもカセドリという行事がある。旧暦の小正月、大人が稲わらで仮装して各家を回るというもので、明治期に廃れたものを戦後復活し、今も続けられている。これに学んで廃れた行事を掘り起し、復活すること、せめて記録だけでもしておくことを考えてもいいのではなかろうか。昔のことを知る人が少なくなりつつあるのでもう難しいかもしれないが。

(追記)
 子どもたちが餅や菓子をもらい歩く行事については、後日、下記の本稿第八部の末尾に詳しく記載したので参照されたい。
 2017年2月13日掲載・本稿第八部「補記 ★子どもたちの餅・菓子もらい行事」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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